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               宗 教 遺 跡
     
         オリーブ山から見た、雪のエルサレム旧市街、この街はユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三つの宗教がともに聖地とする古都
        ユダヤ教:嘆きの壁、キリスト教:聖墳墓教会(ゴルゴダの丘に建つ)、イスラム教:岩のモスク(マホメットが天馬に乗って昇天した場所)

                                             エルサレム旧市街(1977.1.6撮影)



 【旧約聖書の世界】
 
  旧約聖書は、紀元前12世紀から前2世紀頃までの約1000年間にわたっての、イスラエル民族が書き残してき記録と、いわれていす。また、エデンの園などの記述については、紀元前4000年〜3000年頃のメソポタミアの歴史事件の反映と言われています。

 [アダムの木] 左の木は、イラク南部チィグリス川とユーフラティス川が合流するクルナという町にあるアダムの木。
 アダムとイヴは、蛇にそそのかされ、善悪の知識の木の実でを食べたと言われています。一般的にその木はリンゴと言われていますが、旧約聖書にはリンゴとは一切書かれていません。後世のキリスト教徒が、木の実の代表であるリンゴを知識の木としたと言われています。
 この木がどうしてそう呼ばれるようになったかは不明。単なる枯れ木にしか見えない。林檎の木かどうかも判りません、ただし真夏には45度以上にもなるこの地にリンゴがあったとは考えにくいです。

 [バベルの塔跡] 右の写真は聖書にでてくる、バベルの塔の跡。写真中央部の窪地で緑色の場所。現在のイラクにある、バビロンの都市の中央にあったといい、塔は7階建てで高さは約90メートル、1階は90メートル四方、7階は約20メートル四方だった。
 この塔は、BC689年バビロンに侵入したアッシリア人によって徹底的に破壊されました。                         
  メソポタミアでは紀元前3000年頃〜前500年頃まで、ジグラットという階段状の神殿が30以上も見つかっていおり、バベルの塔もその中の一つと考えられています。形状については、後述、ピラッミットの項にウルのピラミットとして写真を載せていますので参考にして下さい。ちなみに、写真左にかすかに写っている建物は、アメリカ軍によって2003年に破壊されたフセインの宮殿です。
 イラクには、これらのほか、後のアブラハムとなるアブラムが生まれ生活した家が、イラク南部のウルにあります。      

 [シナイ半島の山並み]
 
下の写真はシナイ半島の山並み、、この地域の雰囲気を感じてもらうため、あえてこの写真を選びました。
荘厳な山並みが続くこの地に立つと、何か神聖な気持ちになるのが不思議です。
私が訪れた1977年当時はまだイスラエル領、現在はエジプト領です。


 [シナイ山と聖カタリナ僧院]
 シナイ山は、モーゼがエジプトを脱出してイスラエルに行く途中、神から十戒を受けた場所。
 アラビア語で「ジュベル・ムーサ」=「モーゼの山」といい、シナイ半島の南端近くにあります。
 左側が、カタリナ教会の城壁、右の山がモーゼが十戒を受けたというシナイ山。
 カタリナ僧院は、紀元527年アレクサンドリアの殉教者カタリナを記念して建立された(標高1529m)

 [モーゼの墓] 
 右の写真、エジプトを脱出したモーゼが、40年間の放浪の末にたどり着いた場所が現ヨルダンのマダバ。モーゼは死ぬまでイスラエルには入れず、この地で亡くなりました。
  旧約聖書によると、モーゼの跡を継いだヨシュアに率いられたイスラエル人がカナンの地に入ったのは、出エジプト後約80年後のこととされています(紀元前1400年〜1200年頃の話)。
 モーゼの墓のあるネボ山はマダバから北西約9キロ。ネボ山は聖書に書かれている「ピスガの頂」にがいとうするといわれています。



 【キリスト教関連写真】

 キリスト教関連の写真は沢山ありますので、チョット変わった物を集めてみました。

 〈中近東編〉

 [聖降誕教会内部] 左、イスラエルのベツレヘムに建てられている教会の内部、写真はイエス降誕の洞窟とされる処。この教会はコンスタンティヌス大帝により325年に建てられ、200年後サマリア人より破壊されたが、皇帝ユスティニアヌス(527-565年在位)により修復、増築。現在使用されている世界最古のキリスト教会。現在の地表よりだいぶ下にあります。

 [聖墳墓教会] 右、イスラエルのエルサレム旧市内にある、キリスト教徒にとってはもっとも神聖な場所の一つ。キリストが十字架に架けられたゴルゴダの丘とされる場所にあり、キリストの贖罪死を記念するためコンスタンティヌス大帝が335年建立した教会。
  614年ペルシャ軍によって破壊されるが、1099年十字軍がエルサレムを占領したときに、ロマネスク風に教会を再建する。



 [受胎告知教会] 左、イスラエルのナザレにある教会、内部のモザイク画は「細川ガラシャ夫人」堂本印象画伯の原画による。西欧では、細川ガラシャは有名人。

 [聖ジョージ教会] 
右、ヨルダンのモーゼの墓があるネボ山から約9キロのマダバにある教会。ここには、パレスチナのモザイク地図があり聖書ゆかりの地名が157ヶ所も記載されており、キリスト教世界の至宝であり学問的にも貴重な価値がある。
  男が指し示している楕円形の場所がエルサレム。城壁で囲まれている内部の北門から南に向かって列柱街路が続いている。




  [ギョレメ岩窟教会] 
 トルコのカッパドキアにある、岩山を掘ってつくった教会。標高は1200〜1500メートル。
 4世紀頃からキリスト教の僧が住み込み、7世紀から13世紀にかけて数百の岩窟教会が掘られた。
 左の壁画はエルマル・キリセのフレスコ画。

 ギョレメ屋外博物館新設しました、ここをクリックすれば、行けます。


 [聖イオアニス・ランパディスティス修道院]
 右の写真は、トルコの南にあるキプロス島南側トロオドス山地に点在する一見農家の家屋の様な建築群の一つ。ビザンチン時代のギリシャ正教のフレスコ画を保存している聖堂。
 こんな寂れた山村にあるとは思えないほど立派なフレスコ画で世界遺産に登録されていますが、残念ながら写真撮影は禁止。現在、キプロスは北のトルコ系住民と、南のギリシャ系住民で島二分している。




〈メキシコ編〉


 [マダルーペ寺院] 左の写真、メキシコにある世界的に珍しい褐色のマリア。この地はアステカ時代トナンチンという女神の霊場だったが、土地のインディオ、ファン・ディエゴが聖母マリアのお告げを聞いたということで、ここに教会が建てられた。










 [クエルナバカのカテドラル] 上右の2枚の写真は、メキシコシティの南約80キロにあるフランシスコ派の修道院、1529年に創建。太閤秀吉のキリシタン迫害により(1596年)犠牲となった日本の26聖人殉教の壁画がある。
写真の文字は<皇帝太閤様が殉教を命じ…… >と書いてある。


【イスラム教関連】

  いろいろなモスクを紹介します
 
[岩のモスク(黄金のモスク)]
 
エルサレム旧市街神殿の丘に建つ現存する最古のイスラム建築。もともとは、内部にある巨大な岩を覆う目的で建てられました。
 『聖書』によると
アブラハムが息子のイサクを神への犠牲として捧げようとした場所。
 イスラム教徒にとっては、マホメットが大天使ガブリエルに導かれ、天馬に跨って飛来着地した場所。マホメットは、この岩の上から光の梯子を昇って天界を訪れアツラーの前にひれ伏し、梯子を下りて地上の岩に立った。そのため、イスラム教徒にとってはサウジアラビアのメッカ、メディナに次ぐ第三の聖地となっています。
 モスクは、691年ウマイヤ王朝第五代カリフ、アブドゥル・マリクが建立。屋根の材質やタイルの装飾などは幾度も修復されているが、基本的な姿は1300年以上変わっていない。


 [ブルーモスク]
  トルコのイスタンブールにある、正式名称はスルタン・アフメト・モスク。アメフト1世の名で1609年工事が始まり1616年に完成した。
  他の国のモスクのように、外壁に華やかな装飾はありませんが、壁を飾る白地に青いタイルと、そのドッシリとした建築様式は素晴らしい。
  イスタンブールでは唯一6基のミナレットを持っていますが、イスラム教の総本山メッカの大モスクも6基だったため、アメフト1世は総本山のミナレットを1本追加させて7基にさせたと言う話も残っています。
 (イスタンブールには沢山のすばらしいモスクがありますが、残念ながら撮ったフィルムをタクシーの中に忘れたため写真がありません。)



 [マスジット・イ・シャー(王のモスク)]
  右の写真、イランのイスファハン、イマーム広場の南端にあるモスク。広場に面したモスクの入口イーワーン。
  このモスクは、高さ48メートルのミナレット付 きの門をくぐると、通路が45度曲がる設計となり礼拝堂がメッカの方向に向くようになっています。 この門も内部も薄青い(ペルシャンブルー)精緻なモザイク装飾がとても美しい大モスク。
  サファヴィー朝のアッバース1世が、1612年に着工を命じたが完成したのは1638年。大王はその前に没した。

 [揺れるミナレット]
 イスファハン近郊にあるメナーレ・ジョンバン、聖人アムー・アブドッラーの廟。門の上に立つ2本の塔の片方を揺らすと、もう一方も揺れる。
 実際に見ていると、身体を預けて相当の力で揺らす為、塔が折れないかと心配になる、揺らしている人は一生懸命なんだろうけど…… 。もっともこの特徴がなければ誰も訪れないモスク。


 [ビビハニム・モスク]
 [ビビハニム・モスク]
  左の写真は、ウズベキスタンのサマルカンドにある中央アジア最大のモスク。1398年から建築が行われていたが、インド遠征から凱旋したティムールはこの出来映えに不満を持ち、インド、ペルシャなど各地から優秀な職人や建築家を集めて、自ら工事現場の監督として建造した。
  写真(広角20mmで撮影)では大きさが解らないが中央のモスクは縦140メートル、横100メートル。ティムールの死後3年目に完成したが、すぐに壁面が崩れ落ちるなど崩壊が進んで無惨な姿をさらしているが、現在ユネスコの修復工事が進められている。




 [ナディール・ディヴァンベギ・メドレッサ]
  左の建物は1622年キャラバンサライとして建築されたが完成後神学校に変更されたもの。ウズベキスタンのブハラにある。
  何故ここに取り上げたかというと、正面のアーチに2羽の不死鳥が描かれているから。この神学校の前面は「リャビハウズ」といい、池とそれを取り囲む木陰がある市民の憩いの場。レストランやチャイハネが並んでいる。

 [アブデレフの螺旋尖塔
  イラクバクダットの北方130キロのサマラには、バベルの塔を描いた絵のような巨大な渦巻き状の塔(マルウィヤ螺旋尖塔)があります。基壇を含めた高さは53メートル。外側に柵がないため不安だが内側に手摺がついています。
  右の写真は、イラクのサマラ北方6キロある螺旋尖塔、高さは30メートルほどだが何処にも掴まるところがない、高所恐怖症でない私でさえ、頂上付近で今まで感じたことの無いほどの恐怖感を味わった。塔の途中で外側を向いている女性は恐ろしさのあまり身動きがとれなくなっているところ。

【拝火教遺跡】


 拝火教のゾロアスター(写真の人物)は、紀元前550年頃、アフガニスタンで生まれたらしいが、イランにも何カ所か生地という場所がある。紀元前6世紀に興り古代ペルシャの国教となるが、紀元7世紀イスラム教の隆盛とともに衰退した。

 左の建物は、イランのヤズドにあるゾロアスター教本山の神殿、中では1520年あまりも耐えずに燃え続けている聖火がある。




 [沈黙の塔] 
 ゾロアスター教では、死者を埋葬するのは土を汚す、火葬にするのは空気を汚すという理由で、沈黙の塔に運んで鳥葬にしました。右の写真はヤズドの町南東にある沈黙の塔。100メートルほどの2つの丘の上にある。向こう側が女性用、こちら側に一部見えるのが男性用。左の写真は男性用の塔の上部。真ん中の窪みに遺体をおいておくと、ハゲタカが3日くらいで処理してくれる。1900年に法的に禁じられたが、40年前まで密かに行われていました。


 [拝火教の神殿]
 左の写真は、ペルセポリス近くのアケメネス朝諸王の墓のそばにある、拝火教の神殿。

 [ニサ王宮の柱](紀元前2世紀〜3世紀)
 右の柱は、トルクメニスタンのニサにある、パルティア王国の城壁で囲まれた遺跡にある柱。柱が3本合わさった形は、ゾロアスター教の特徴。






  【仏教・ヒンズー教遺跡

  [ボロブドゥール遺跡] (正面全体の写真は、建築物遺跡・ピラミッドのところにあります)

 インドネシアのジャワ島中央部にある大乗仏教の遺跡。1814年英国のラッフルズにより発見された当時は、密林から塔の先端部分だけが覗いている状態でした。
 私が訪問した1979年は、ユネスコによる遺跡の修復中で、格段の壁面にある釈迦の伝記の壁画は一部しか見ることは出来なかったのですが、とてもすばらしい物でした。(下右の写真)
 かっては高さ42b有ったが現在は34b。一番下の部分は115b四方の隠れた基壇。建築には安山岩や凝灰岩が使用されている。
  寺院とは違い建造物そのものが仏教的世界観をあらわしている。上部の円壇には釣り鐘形のストゥーパが72基あり内部に仏像が安置されている。(下左2枚の写真)


  ボロブドゥール遺跡の遺跡の壁画展示しています、見たい方はここをクリックして下さい

 [アンコール地域の遺跡群]

 カンボジア、シェムリアップの北方約5キロにある、世界有数の一大遺跡群。
 この地域の10キロ平方のエリアに、数多くの寺院遺跡が点在しています。
 右の写真は、アンコールの遺跡群を見るためのPASS。三日間用で、US$40。
 現地の経済価格からすると多少高め、遺跡保護のために使われるのであれば納得。
 遺跡は、日の出前から日没後まで見学できます。私は残念ながらアンコールワットの日の出は曇りのため見られませんでした。

  アンコールワット]

 1113年、スーリヤヴァルマン二世によって建造されたヒンズー教寺院。東西1500メートル、南北1300メートルの壕に囲まれた広大な敷地の中にある。アンコールの都は15世紀に放棄されましたが、この寺院は上座仏教の寺院に変わっていくことによって人々の信仰を集め続けました。5基の塔は世界の中心にあるというメール山、回廊はヒマラヤの山々、環濠は大海をを象徴しているといいます。

 左側の写真は、幅200メートルに及ぶ環濠にかけられた西参道、入り口両側には狛犬と大蛇(ナーガ)が置かれている、写真は世界の狛犬のところにありますので参照願います。
 参道の先、写真中央にある塔が西塔門。門をすぎると正面本堂があり、350メートルの参道がありその両側に聖池がある。右側の写真は、参道右側の聖池から見た本堂、水面に本堂が上下反転して写るおきまりの場所の写真。本堂には三重の回廊があり、その中心にある中央塔の高さは65メートルもあります。
 この回廊には素晴らしい彫刻が残されており、完成には30年以上費やされたといいます。残念なことに、薄暗い長い回廊と壁の彫刻が細かいため、短い時間に撮影する部分をじっくり決めることが出来ず、よい部分の写真が撮るのが難しかったです。

  [アンコール・トム]

 12世紀後半、ジャヤーヴァルマン七世によって建立されました。一辺3キロの正方形、周囲12キロの城壁に囲まれた巨大都城。四方の門の他に、東側に勝利の門があります。

 左側の写真は、アンコールトムにある5つの門のうち、南側に位置する南大門。参道の両側には、神々と阿修羅の列が大蛇(ナーガ)の胴体を抱えて綱引きをするために並んでいる。奥にある門の高さは23メートル、門の上からは巨大な観音菩薩の顔が見下ろしている。
 右側の写真は、内部のバイヨン寺院にある有名な観音菩薩の顔。私は、昔からいつかこの菩薩の顔を見たいと思っていたのですが、実際に見るとあまりにも沢山あるの目移りしました。

  [タ・プローム遺跡]

 1186年、ジャヤーヴァルマン七世が母の菩提を弔うために建立をした仏教寺院。東西1000メートル南北600メートルのテラスに囲まれた外壁をもっています。

 この寺院は、フランスが発見当時の状態を保存するため、樹木の除去や積み直しのなどの修復工事を行なっていません。そのため、巨木が寺院の屋根を覆い尽くし、建物を飲み込んでいる光景がみられます。


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