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十 二 支 雑 記

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【 サルの話 】



    

  ニホンザルについて


 ニホンザルを初めて学界に登録したのはシーボルトの『日本動物誌』(1842)で、Inuus speciosus(美しき牧神)という学名がつけられました。しかしこの種名speciosusは、中国南部から東南アジアにかけて分布しているベニオザルにすでに用いられていたため、国際動物命名規約にしたがって、1875年Macaca fuscata(灰色のサル)となりました。分類上は、オナガザル科のマッカク属に分類されますが、Lyssodesという亜属を設けることもあります。
 外国の動物園などでは、Japanese stump tailed ape(尾の短い猿)とか、Magot a face rouge(赤い顔の猿)等と呼ばれています。
 近縁のものとしてはタイワンザルや、東南アジア、インドなどにいるカニクイザルやアカゲザルがいます。
日本における分布状態は北限が下北半島(世界中にいる猿類の北限)、南限は屋久島です。また、近世までは種子島にもいたと言われていますが標本は残っていません。前者がホンドニホンザル、後者がヤクザルといい、日本にはこの二種類が棲息しています。
 ニホンザルの先祖は、アジア南部の系統のものが北に入り込んだ物とみられています。昭和44年、京大理学部の亀井節夫氏が北京郊外周口店発見のマカカ・ロブスト(Macaca Robustos)とニホンザルとの近縁関係を上げ、ニホンザルの先祖が日本列島に到達したのは4〜50万年前の洪積世中期と推測しました。ところがこの説の10年も前に、愛媛県肱川町敷水の採石場で、数十万年前の洪積世中期の物と推定されるロブストとニホンザルの中間的な化石が発見されていました。
 ロブストは今のニホンザルに比べて頭骨が一回りも大きく、ガッチリとした骨組みでかなり大型の猿だったようです。そして、日本に入り込んだ猿も縄文期になると現在の猿と大差なくなってきます。
 ところでこのニホンザルに絶滅の危機が心配されています。世界の猿の北限である下北のニホンザルについて云えば、野辺地町の観光牧場で飼育されていたタイワンザルが、施設閉鎖とともに野生化してニホンザルと交尾、両者の雑種化が進んでいるといいます。このような例は、和歌山県や東京都の伊豆大島でもおこっているそうです。


  猿廻し(猿回し)


  [中国編]

 中国では唐代(618〜907)にはすでに行われていて、正月の農閑期の副業として都会に出るものが多かった。
 木箱を背負い、その上にサルを乗せ、サルの芸を助けるために、イヌ、ヒツジなども連れて歩いた。サルの芸は木箱を開き衣装や冠を取り出して自身で身につけて観客にあいさつしたり、芸が代わるごとに衣装を取り替える。また犬を指揮して耕作の真似をしたり、ヒツジに乗って競馬のまねをしたり種々の演技をし、終わるとザルを持って銭を集めて回る。
 宋の時代の『太平広記』には、蜀の国に楊干度というサルに芸を仕込む名人がいて、サルまねの故事のあることをあげている。

  [猿回し日本編]

 猿廻しは、猿曳き、猿引き、猿使い、猿飼い、猿舞、マワシ遣い、狙翁、猿太夫などいろいろな呼び名があります。
 猿飼いの起源は、達磨を職の祖とし小川判官政氏に始まるといいます。
『紀伊国名所図解』によると、判官政氏には二人の子がいて、長男政在には猿を、次男には鷹を譲った。これにより長男正在は紀伊国郡賀郡山路荘で日本猿飼の棟梁になたと在ります。
 平安期の『信西古楽図』の猿楽通金輪には、楽人の担う金輪の輪抜けをするサル、そしてたって舞うサルの姿がえがかれている。
 鎌倉時代の史書『吾妻鏡』に、寛元三年(1245年)四月二十一日、左頭入道正義は、自領、美作(岡山県)で手にいれたサルを舞わせ、人間のように踊るサルに藤原頼経、頼嗣がひどく驚いたという。
 『古今著聞集』にも、足利義氏が将軍藤原頼経に献じた猿が、直垂、小袴、烏帽子姿でサルを舞わせたという記録があります。
わが国においては、鎌倉時代にかけて厩神と馬櫪神信仰が盛んになり、サルとウマの結びついた信仰が伝わっていきました。
 室町時代には祝芸として頻繁に猿舞が行われていた。このことは『三十二番職人尽歌合絵巻』『融通念仏縁起絵巻』等の文献伝承や絵巻物の記録に残っています。
 猿舞の芸能については前述のように古くからあったようですが、職業として行われるようになったのは寛文年間(1661〜62年)以後であろうといわれている。
 明暦の大火(1657年)後、矢野弾左衛門は浅草に広大な賎民部落を形成して、浅草および武州ほか八カ国の猿廻し51軒をふくむ約8000軒に近い穢多非人を支配してきた。猿廻したちの社会的地位は、この非人と穢多との中間程度のものであった。
 京阪地方のものは紀州を本拠としていた。『駿国雑志』(天保14年、1843年阿部正信著)には駿府の猿屋町のことが記されており、今川家治国のときより猿曵を置いていたと有ります。ここには猿屋惣左衛門の伝えた『猿屋伝書』(天正3年1575年美濃の奥書あり)があります。
 この地の猿屋町は、家康の府中在城時代にも関連があったようで、天正11年家康の馬三頭が病気になったとき、上総に住んでいた猿飼を呼んで祈祷させたところ、三頭とも回復したため、この地に土地を与えて住まわせた。後に江戸の武家屋敷に出入り出来るようになった猿飼長太夫 の先祖です。
 猿曵の本拠地があった和歌山県那賀郡長田村(現、粉河町)上田井には、『猿廻記』という旧記が伝えられている。内容は駿府のものと同じくでたらめが多いが、どちらも猿廻が紀州の小山判官なるものを祖としている。そして、熊野神道と縁があったことが推測される。
見世物としてのサル芝居が、独立して江戸期天保年間(1830〜43年)に現れる。
猿舞は江戸時代、浅草猿屋町の滝口太夫が江戸城の厩に祈祷を献じた行事から起こったもので、後に民衆娯楽の猿芝居となった。


  猿田彦と天宇受売命


  【猿女(=戯る女)君】

 「猿女」の話をする前に、天宇受売命(天鈿女命、あめのうずめ)の話からしなければなりません。この女神は天孫降臨に随従したさい、天の八街(やちまた)にいた猿田彦神を和らげて道案内させたという女神。
 『古事記』上巻天孫降臨のには、邇邇芸(ニニギ)命が天の八衢にいた国つ神を、天宇受売命に誰かと尋ねさせた。このことから、邇邇芸命は天宇受売命に対して「猿田毘古大神は、汝が顕し申したのだから、汝がお送りするが良い。また、その神の御名を汝が負って仕えよ」と言われた。そのため、天宇受売命の子孫の女を、猿田毘古の男神の名を継いで猿女君とよぶようになったとあります。
 天宇受売命といえば、素戔鳴尊(須佐之男命)の暴挙に怒った天照大神が天の岩戸に隠れたときに、神がかりして裸踊りをした神、その様は「神懸かりして、胸乳を掛き出で、裳の緒(ひも)を番登(ほと)に忍し垂りき。ここに高天の原動(とよ)みて八百万の神共に咲ひき」と記されています。猿女氏は中臣氏と共に宮廷の語り部として仕えており、『古事記』を暗唱した舎人阿礼は、猿女支族、稗田氏の出身。小野氏も猿女氏の系統を引く特殊信仰の宣伝者。その他、『古語拾遺』に「猿女君氏、供神楽之事」とあるように、神祇官に仕えて歌舞や神楽をする女性を世襲的に献上する氏族でした。

  【猿田彦・猿田毘古(さるたひこ・さるだびこ=さだひこ)大神】

 記紀神話の中で、『大神』と呼ばれているのは、伊邪那岐大神、黄泉大神(伊邪那美の別名)、道反大神、刺国大神、天照大神、猿田彦大神の六神で、国つ神では猿田彦大神のみ。「サルタヒコ」は「サタヒコ(サダヒコ)」が元の呼び名と言われ、現に伊勢市の猿田彦神社では、祭儀の祝詞では「サダヒコノオオカミ」と呼ばれています。
 日本神話の中では、天照大神の孫である邇邇芸命(瓊瓊杵尊)が天照大神の命によりこの国土を統治するため、高天原から日向国の高千穂峰に降臨したとき、天の八衢(やちまた=道の交差点)に現れ道を塞いだ神。
 猿田彦の様相は、『古事記』に「上は高天原を照らし、下は葦原の中つ国を照らす神」。『日本書紀』に「其の鼻の長さ七咫、背の長さ七尺余り。当に七尋というべし。且口尻明かり耀れり。眼は八咫鏡の如くして、?然(てりかがやき)赤酸醤(あかかがち)に似れり」。とあり、天狗のような長い鼻をもち、身の丈十メートルを超す巨人で、口も尻も鏡のような眼も、ホオズキのように真っ赤で燃えるように照り輝いていたと表現されています。この恐ろしい形相の神も、天宇受売命の「胸を胸を露わにはだけ、腰ひもを臍の下まで押し下げて笑いながら立ち向かった」との行動に、名前を告げて、自ら天孫の一行の道案内をすることになります。
 この神様は現在でも、お祭り際行列の先導役しています。格好が似ていますが、天狗ではありませんので誤解のなきように。
 『古事記』では、猿田彦は阿邪訶(三重県壱志郡)で漁をしていたとき比良夫貝に手を挟まれて潮に溺死んだことになっています。
 猿田は、動物の猿を山の神、田の神とする民間信仰と関係があると思います。(凶作から畑を守るために生娘を山の神に人身御供とする話)
 
  【サタ・サダ=サルタ=猿田】

 猿田彦のところで、サルタは元々はサタ・サダと発音していたと話しましたが、このサタは「境界」「接点」を意味します。
 たとえば、陸と海の境にあるにサタのつく岬も、定の鼻(三重)、佐陀本郷(島根)、佐田岬(愛媛)、蹉陀岬(高知)、佐多岬(鹿児島)等在ります。その他、境界に関する地形的詳細は確認していませんが、サダ(佐田、佐陀、佐多等)とつく地名も沢山あります。しかし何故か、この<サタ>の付く場所は近畿以南にしかありません。ということで、今後の研究材料として残しておきます。
 このように境界にいる神は、[良いもの]には道案内としてその先導役を務め(祭礼の、神輿御渡の先導役)。逆に邪悪なものは村に入って来ないようにする守り神としての役割を持つことから、猿田彦は、「衢(=岐)神」「道の神(道祖神)」「賽の神」となって信仰されています。

  [上野不忍池の道祖神]
 右の写真は、三十数年前、東京の上野駅で時間が余って、上野不忍池で時間つぶしをしていたとき聖天島で見つけた道祖神の石像。
 正面は役行者(エンノギョウジャ)とか髯地蔵と呼ばれていますが(左側)、背面に回ってみると男性器となっています(右側)。
 このような石像は、本州には沢山あります。何故このような形になっているかといいますと、境界(接点)にある道の神、邪悪なものが入るのを防ぐ=塞ぐ。
 接して塞(ふさ)ぐもの=男性器となるわけで、昔の日本人は性というものに対し、現代よりアッケラカンとしていたんですね。


 [山の神の使いとしての猿]
 
 左の写真は、30年ほど前、愛知県の小さな村で買った木彫の猿。頭のかぶり物からみて、山の神の使いとしての猿と思います。 山の神の使い=山の神と人間の接点に関わるもので、境界に関わるものとしては、猿田彦や道祖神と同類のものです。
 何故そういえるかと言いますと、この猿像の裏側に仕掛けがあって、その中に男性器が隠されているのです。
 北海道は歴史が浅く、昔からの伝統的なお祭りが少ないため、この様な物はあまりありません。道外の本州・四国・九州でも、大家族制が崩壊し村のつながりが少なくなっている現在。数千年来、日本人が作り上げてきた民俗的思考が消滅しつつあるようです。


  【猿田彦と天宇受売命(猿女君)の関係】

 猿田彦:「上は高天原を照らし、下は葦原の中つ国を照らす神」=太陽神の性格。「其の鼻の長さ七咫、…」=男性器の象徴。
天宇受売:高天原で歌舞、神楽をつかさどっていた神。着物をはだけて女性器を露出する場面が2度あります。一度目は天照大神が天の岩戸に隠れたとき、もう一度は、猿田彦が天の八衢で道を塞いだとき。
 天宇受売が露出行動をした、天照大神・猿田彦は共に太陽神。結果は、閉ざされた岩戸を開かせ、塞がれた道を開かせた。太陽の女神の出現、太陽の御子の出現となります。=天宇受売命は道を開く神
 男女両性記の象徴→夫婦神→陰陽一対の生殖豊饒神


   サルの貨幣


 サルの刻まれている貨幣はそれほど多くありません、現在、ハッキリしたことはまだ調べていませんが世界中に10個前後しかないと思われます。 私はその内6個ほどのサル銀貨を持っています。写真以外には、中国の申年に発行された銀貨持っています、干支の銀貨(金貨もあります)はオーストラリアでも発行されています。
 [ジブラルタル]
 上左側にある銀貨は、1971年製、直径:3.8ミリ、裏側にはおきまりのエリザベスU世像が彫られています。
 ジブラルタルはヨーロッパ南西部、スペインのイベリア半島の南端近くに位置する半島で、面積5.8平方km(皇居の4倍ほど)、ほとんどが岩山からなる小さな植民地ですが、地中海の入口を制する拠点として古くから戦略上、交通上重要な要地でした。人口2.7万人の約85%はイギリス人、公用語は英語ですが、スペイン語も広く使われています。
 1704年にイギリスに占領され、1713年からイギリス領となっており、海軍の基地としてほぼ300年にわたり英国が占領しています。現在もスペインはイギリスに対して再三にわたって返還を要求していますが、イギリスはこれにいまだに応じていません。
 ジブラルタルの岩山には、ヨーロッパで唯一野生状態で棲息するサルがいて、観光客の人気者となっています。このサルは、マカク属のバーバリーマカクで、アフリカから連れてこられたといわれています(銀貨の猿)。
 イギリス人は、このサルが絶滅するとジブラルタルの要塞も陥落するといい伝え、ジブラルタルがスペインに返還されるのを恐れていたため、1863年に3頭にに減ったとき、急いでモロッコからサルを運びこんだという。また、第2次大戦後のチャーチル首相も同様の措置をとった。
 [インドネシア]
 上右側に銀貨は、インドネシアの貨幣で、オランウータンの貨幣。直径は4.2ミリ、1974年製のものです。
 [マカオ]
 真ん中にある孫悟空の銀貨は、1980年の申年の年に、マカオで発行された100パタカ銀貨プルーフ。
 28g、銀品位925。
 [ガンビア]
 下のチンパンジーの銀貨は、1994年に1.5万枚発行されたアフリカの小国、ガンビアの20ダラシ銀貨プルーフです。直径 38mm 、重量 31.47g 、銀品位 925。
 これ以外に、三猿の銀貨を民俗学「世界の三猿」に(予定)、絵銭の猿は「猿の駒引き」に展示しています。
  

  猿の玩具


 <木葉猿>

 熊本県旧木葉村(現玉東町)で作られたのでこの名がつきました。赤と青と白で彩られた、高さ10センチほどの、猿が馬にまたがっている土製の像。(右の写真)
現在、この猿の制作は、永田家ただ一軒が残るのみとのこと。
 [木葉猿由来書]によると、いまを去る千三百年前、木葉の里に、四人の都の落人がわび住まいをしておりました。養老七年の元旦、この落人たちは、夢枕に立った老翁のお告げにより、奈良の春日大明神を祭りました。…略…、身のたけ一丈あまり、鼻高く顔赤い巨人が現われ「木葉の土でましろ(猿)を作れば幸あらん」といって、いずことなく姿を消してしまいました。四人は、これは神のお告げと思い、その後は赤土にて祭器とともに猿を作り神にそなえましたところ、天変地異の災害にも、この四家は無事平安に過ごすことができました。……
 四人の前に現れた神が、鼻高く赤い顔の巨人ということから猿田彦信仰と関係がありそうで、悪病災難を除き、夫婦和合子孫繁栄の守り神ということが良く判ります。実は、この像は奈良時代から作られているようで、馬の首になっているところが猿のペニスで、元々は猿が立って性器を高々とかかげていたんだそうです。三色で塗られるようになったのも最近のことといわれています。

 <瓦猿>

 和歌山県栗林八幡宮境内の日吉神社へ安産及び子授けの祈願をし同社より一体を借り受けて持ち帰り、安産の後更に新しい一体を添えて奉納される瓦猿です。この社は、もと海草郡有本村有本にあったが、県下の神社整理の際現在の地に還座されました。(左の写真)
 猿と桃(猿は男性、桃は女性)で安産に結びついています。
 [瓦猿の由来書]社伝に云う建久九年七月後鳥羽上皇熊野より還幸の御途次供奉者の老翁霊夢を見て此の地に止まり、里人にすすめ社殿の改築をせしむ、御還宮十一月申の日なりき此の時瓦猿一釜を境内に於て作り奉納せりという里人之を山王権現安産守護の御たま代と尊敬するに至れり

  <柿猿>

 右の写真、私が購入した物ですが、残念ながら名前とどこの土地の玩具か不明。
柿の中にサルが入っており、サルの頭に触るとピコピコ動き、とても可愛い玩具。
 私は最初、柿を桃と勘違いして、サルと桃が潜在的に何を象徴しているか考えて、とてもエロチィックな物と思っていましたが、考えすぎでした。


    

  猿のつく名字


 〈猿のつく名前、電話帳から分布探してみました〉

猿川(さるかわ・北海道、青森、岩手、静岡、広島、鹿児島)、申谷(さるたに・北海道、富山)、猿倉(さるくら、ししくら・北海道、富山)、猿子(さるこ、ましこ、ますこ・北海道、新潟)、猿養(さるかい・北海道)、申橋・猿橋(さるはし・岩手、栃木、東京、福井)、猿田(さだ、さした、さるた、さるだ、えんだ、ました・秋田、茨城、長野)、猿賀・申賀(さるが・青森)、猿ヶ沢(さるがさわ・岩手)、猿館・猿舘(さるたて、さるだて・岩手)、猿井(さるい・群馬)、猿谷(さるや、さるたに・群馬、長野、)、猿山(さるやま、さやま・栃木)、猿原(さるはら・石川、岐阜、静岡)、猿女(あつめ、さめ、さるめ・石川)、申畑(さるはた・長野、岐阜)、猿爪(ましつめ。ましづめ・岐阜県)猿屋(さるや、愛媛、大阪)、猿木(さるき・三重)、猿棒(さるぼう・和歌山)、猿丸(さるまる・兵庫)、申神(さるがみ・山口)、猿飼(さるかい・香川)、猿野(さるの、ましの・佐賀、福岡)、猿渡(さるわたり、えんどう、さわたり・福岡、熊本、岐阜、神奈川)、申田(さるた・宮崎、大阪)、猿本(さるもと・福岡)、猿沢(さるさわ・宮崎)、猿楽(さるがく・鹿児島)、猿喰・猿食(さるばみ・鹿児島)、

 〈電話帳で確認できなかった猿のつく名前〉
猿毛(さるげ)、猿来川(いつかわ、あさがわ、いさがわ)、猿童(えんどう)、猿投(さなげ)、猿尾(さるお、ましお)、猿半根(さるはね)、猿股(さるまた)、猿亘(さるわたり)、申吉(しんきち)。

  申年生まれの人


 1980年(昭和55年)
山口紗弥加(タレント)、竹内結子(モデル)、広末涼子(タレント)、榎本加奈子(タレント)、岡田准一(V6・歌手)、田中智子(女優)。
 1968年(昭和43年)
戸田弥生(バイオリニスト)、桑田真澄(プロ野球選手)、野茂英雄(プロ野球選手)、薬師寺保栄(元プロボクサー)、松下由樹(女優)、北沢豪(サッカー選手)、松野明美(マラソン選手)、近藤サト(アナウンサー)、柳美里(作家)、渡部篤郎(俳優)、大鶴義丹(俳優)、とよた真帆(女優)、森口博子(タレント)、井森美幸(タレント)、荻野目洋子(歌手)、長山洋子(歌手)、香西かおり(歌手)、つんく(歌手)、松居直美(タレント)、松本典子(タレント)、飯島直子(タレント)、生稲晃子(タレント)、菊池桃子(タレント)、ゆうゆ(タレント)、鈴木京香(タレント)、大塚寧々(タレント)、大西結花(タレント)、杉本彩(タレント)、藤森夕子(タレント)、江角マキコ(タレント)、おさる(漫才師)。
 1956年(昭和31年)
田中康夫(脚本家)、秋本康(脚本家)、瀬古利彦(マラソンランナー)、ナブラチロワ(米・テニス選手)、尾崎直道(プロゴルファー)、長渕剛(歌手)、桑田佳祐(歌手)、原由子(歌手)、野口五郎(歌手)、新沼謙治(歌手)、アン・ルイス(歌手)、役所広司(俳優)、村上弘明(俳優)、竹中直人(俳優)、板東八十助(歌舞伎俳優)、岡江久美子(女優)、大地真央(女優)、永島敏行(俳優)、渡辺真知子(歌手)、周防正行(映画監督)、笑福亭笑瓶(落語家)、小堺一機(タレント)、島田紳助(タレント)、定岡正二(タレント)、浅田美代子(タレント)、ブラザーTOM(タレント)、岡まゆみ(女優)、田中好子(元キャンディーズ)、宅麻伸(俳優)、叶和貴子(女優)、桜金造(タレント)、ガダルカナルタカ(タレント)。
 1944年(昭和19年)
釜本邦茂(サッカー選手)、田中真紀子(政治家)、久米宏(ニュースキャスター)、中村紘子(ピアニスト)、小椋桂(歌手)、高橋英樹(俳優)、、椎名誠(作家)、舟木一夫(歌手)、二世中村吉衛門(歌舞伎俳優)、江守徹(俳優)、黒沢年男(俳優)、やまもと寛斎(デザイナー)、赤座美代子(女優)、クロード・チアリ(歌手)、竹脇無我(俳優)、村井国夫(俳優)、前田吟(俳優)、草野仁(キャスター)、小島一慶(ナレーター)、古谷一行(俳優)、渡瀬恒彦(俳優)、蟹江敬三(俳優)、佐藤蛾次郎(俳優)、杉良太郎(俳優)、みのもんた(司会者)、梨元勝(芸能レポーター)、野川由美子(女優)、原田大二郎(俳優)、吉田日出子(女優)、高見山大五郎(外人関取)、欧陽菲菲(歌手)、マイケル・ダグラス(俳優)、ダイアナ・ロス(女優)、ジョージ・ルーカス(映画監督)。
 1932年(昭和7年)
青島幸男(元東京都知事)、石原慎太郎(現東京都知事・作家)、小田実(作家)、五木寛之(作家)、平岩弓枝(作家)、大島渚(映画監督)、岩城宏之(指揮者)、山本直純(作曲家・指揮者)、小林亜星(作曲家)、船村徹(作曲家)、遠藤実(作詞・作曲家)、仲代達也(俳優)、萬屋錦之介(俳優)、田中邦衛(俳優)、岸恵子(女優)、エリザベス・テーラー(女優)、アベベ(マラソンランナー)、フランシス・レイ(仏・作曲家)。
 1920年(大正9年)
梅棹忠夫(文化人類学者)、竹内均(物理学者)、アイザックスターン(バイオリン奏者)、阿川弘之(作家)、川上哲治(プロ野球選手)、坂田栄男(囲碁棋士)、長谷川町子(漫画家)、三船敏郎(俳優)、岡田英次(俳優)、ユル・ブリンナー(俳優)、森光子(女優)、原節子(女優)、ミヤコ蝶々(漫才師)。
 1908年(明治41年)
宮本顕治(政治家)、太宰治(作家)、菊田一夫(劇作家)、植草甚一(評論家・随筆家)、近藤日出造(漫画家)、長谷川一夫(俳優)、東山魁夷(画家)、朝比奈隆(指揮者)、カラヤン(指揮者)、ディック・ミネ(歌手)、沢村貞子(女優)、南條範夫(作家)。
 1896年(明治29年)
宮沢賢治(詩人)、村山槐多(洋画家)、岡部金次郎(電気工学者)、渋沢敬三(財界人)、土光敏夫(元経団連会長)。
 1884年(明治17年)
岸信介(政治家)、石橋湛山(政治家)、竹久夢二(画家)、東条英機(軍人)。
 1872年(明治5年)
島崎藤村(作家)、樋口一葉(作家)、岡本綺堂(劇作家)、アムンゼン(探検家)、佐々木信綱(歌人・国文学者)川上貞奴(女優)。



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