十 二 支 物 語

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【鶏の話】

  上の写真、左側は〈 パレンケ遺跡 〉にいた鶏、右が〈 ティオティワカン遺跡 〉にいた鶏


  【鳥に関する漠字】

   [酉]
 酉は方向で西、時刻で午後五時から七時までの間をいいます。
酉の字はは酒を醸す器あるいは酒徳利の象形文字で、「実る」「成る」「成熟」の意味があり、これに関連した字には、乳酸・醍醐・味琳・酢・醤油などが有ります。
   [鳥]
 鳥という字は、尾の長い鳥の形を象った象形文字で、上の方は嘴から頭、首、胴体、翼をあらわし、右下方向へ曲がった部分は尾を示し、下の四っの点は足をあらわします。
 烏(カラス)という字は、目にあたる部分の一画を省略しています。それは、カラスが黒いため目の存在がはっきりしないので省略したといいます。また、鳥の字をチョウと読むのは長の意で、尾が長いことに関係しています。
   [隹]
 隹(すい)の字は「尾の短い鳥」の形を象った象形文字で、単独では使いません。たとえば、鶏の字は奚はケケケッケイのケイという鳴き声をあらわす字と合成して作られています。これ以外では、雁も鴈と書きます。ですから、「雄・雌」は鳥類一般のオスメスいいます。獣の場合は「牡・牝」を使います。
 集の字は、木の上に隹(鳥)が集まっていることを示した字で、もとは木の上に隹の字を三字書いていたものを、一字に省略したものです。
   【日本の名称】

  [トリについて]
 「トリ」には、一般の野鳥、一般の家禽、鶏という三っの意味があります。
 ここでは、鶏の意味で使いたいのですが、まず広義の鳥「トリ」の語源から調べて見ます。
 隣接民族の言葉では、まずアイヌ語の古語、雅語にtoriという語、また合成語の成分として使われるチリ(chiri)があります。
 朝鮮語にタル、タルク(tar,tark)。ネパールのクスワル語や、ダラヒ語にチャリ(chari)、インドのヒンドスタニー語にチリヤ(chiriya)、
 ペルシア語にツユル(tuyur)、アラビア語にタイル(tair)、フランスとスペインの国境地帯のバスク語にチョリ(chori)などがあります。

 日本語「とり」の語源説
@トビカケリ(飛翔)の中略『日本釈名・紫門和語類集』     Aトビヲリ(飛居)の義『日本語原学=林賓臣」
Bトマリまたはトドマリの中略『滑稽雑談」             C鶏の意の朝鮮語tslki『日本語の発想=白石大』
Dアイヌ語のChiriからか『大言海』

  [鶏の呼び方]
 日本語の鶏の呼び方には、ニワトリ(鶏),ニワツトリ、イエツトリ、ユウツケトリ、カケ、カケロ、ナガナキトリ、トリ、ユウツゲドリ、
  ヤコヘノトリ、ネザメドリ、アケツゲドリ、トコヨノトリ等があります。
 古名の「ニワツトリ」は[庭っ鳥]で、これほ庭に放し飼いにした鳥という意味で、現和名鶏はこれに由来します。
 古名「カケ」(今でも愛媛県松山市で使用)、「カケロ」(佐渡で使用)は鶏の鳴き声の擬声語。
 ちなみにニワツトリはカケの枕詞。「クダカケ」は百済鶏(くだらかけ)の略。
 その他、「ユウツゲトリ」は[木綿付鳥]と書き、都の四境の関で、木綿を付けた鶏を用いてお祓いをしたことに由来。
 「ユウツゲドリ」は[夕告鳥]が転じたものです。

  【鶏の鳴き声】
 日本ではコケコッコーと鳴きますが、英語ではコッカドゥードゥルドゥcock-a-doodid-doo。仏語ではココリコーcocorico。
 ドイツではキケリキーKikeriki。ロシアではクカレクー、イタリアではキッキリキーと表現します。
 この鳴き声が鶏の名称にたいへん関係があります。それは、台湾のパイワン語koka、同アミ語koko、南洋のセレベス語kake、
 ハンガリー語kakas、スエーデン語kak、デンマーク語・プレトン語kok、でも分かるように呼び名の多くが鳴き声の擬声語だからです。 
 また、鶏は雄鶏しか鳴きませんので、次の[外国の呼称、英名とその由来]で比較できるように、雄鶏と雌鶏に呼称の違いがでてきます。

  【外国の名称】
[中]鶏(カイ)、燭夜、鳩七咤 [満州]coco [梵]クッタク(雌鶏はクックチー)[伊]gallo(雄鶏) [ラ]Gallus gallus var、domesticus
[西]gallina,ga11o(雄鶏)[仏]coq(雄鶏)、pou1e(雌碧),chapp(肥育種)[蘭]hen,haan(雄鶏) [ギリシア]kotta,kokoras(雄鶏)
[独]Henne,Hahn(雄鶏)、Haushuhnq,Kapun(肥育種) [露]Kurica,petuch(雄鶏) 
  【英名とその由来】

 鳥を英語でバードbirdといいますが、古代英語ではブリッドbriddといって雛鳥のことでした。一般の鳥は古代英語でfugolといい、オランダ語やドイツ語のフォーゲルVoge1と同源のです。
 ワンダー・フォーゲル(Wander Vogel)とは「渡り鳥」の意味だったのが、意味が変わって「青年徒歩旅行奨励会」になりました。
 現代英語の鳥ファウルfowlも、独語の鳥vogelと同語族。ちなみに野鳥はwild fowl。また、インド・ヨーロッパ語根flug-(飛ぶ)や、これから出た英語fly(飛ぶ)、ドイツ語フリーゲンfliegen(飛ぶ)とも関係があります。
 さて、鶏の英名ですが先ほど述べた鳴き声の擬声音からできた語とみますと、古代英語coco、現代では雄鶏をcock、雌鶏をhen、雛をchickenといいます。この雛鶏を示すchickenはラテン語のコクウスcoquusからきています。
 その他、domestic fowl、pouloard(雌の肥育種)、capon(雄の肥育種)、肉用に去勢した雄鶏を示すケイポンcaponは、ギリシア語のkoptein(切りとる)に由来します。
  【分類学での鶏】

 鶏は動物分類学上、鳥網−キジ目−キジ科−ニワトリ属で、次に述べるヤケイはヤケイ属で分類されます。
 二名式命名法ではGallus gallus domesticusと表記されます。このGallus gallusは、次の項で述べるセキショクヤケイをさすので、学名表記上は「鶏はセキショクヤケイの家畜化されたもの」とされています。また属名ガルス(Gallus)は雄鶏の意もあります。
 現在、鳥網には約8600種が分類されていますが、家禽として飼われているものは、鶏、七面鳥、ホロホロ鳥、アヒル、ガチョウ、ウズラ、ハトなどわずかし飼いません。また他の鳥の飼養数から見ても鶏がいかに人間にとって貴重なものかが分かります。
 キジ科の鳥類は比較的大きく、鳥類の中では華麗で美しい色彩の羽を持っていますが、長距離を飛ばず、地上に巣を作り、一目の大半を地上で過ごします。そのため人間との接触の機会も多くなります。
 [キジ科の仲間]には、鶏、ウズラ、シャコ、キジ、ヤマドリ、セイラン、クジャク。
 [その他キジ類]ツカツクリ、ホウカンチョウ、シャクケイ、ライチョウ、シチメンチョウ、ホロホロチョウ、ツメバケイなどがいます。
  【鶏の原種野鶏】

 鶏の原種と考えられる野生種は、今も南部アジア地方に生息する次の4種類の野鶏ですが、セキショクヤケイだけが唯一の祖先とする単源説と、他の野鶏も鶏の成立に関係してきたと考える多源説があります。どちらの説にしてもセキショクヤケイが鶏成立の主役であることにはかわりありません。
 野鶏属特有の形質としては、東部に鮮やかな色彩の鶏冠と肉垂を持っています。
(1)セキショクヤケイ(赤色野鶏)Gallusgallus(またはG.bankiva)
  野鶏の中では、ヒマラヤ、インド、中国雲南省、ビルマ、タイ、スマトラ、ジャワ、フィリピン、など最も広い分布をもつ。
  現代の鶏の品種のうちで、褐色レグホーン、黒胸ケーム種、中国のチャイチー、日本の地鶏などに外観が似ていて鶏の原種とされる。
(2)ハイイロヤケイ(灰色野鶏)G.sonneratiiインド西、南、中央部に産する。
(3)セイロンヤケイ(セイロン野鶏)G.lafayettei(G.stanleyi)スリランカのみ生息・
(4)アオエリヤケイ(緑襟野鶏)またはジャワヤケイG.varius(またはG.furcatus)ジャワ、スマトラおよびその付近の島々に分布。

  【拡散の経路】

 鶏を飼いならすことは、およそ5000年前、野鶏が現存するインド、マライ地方に始まり、前3200年ころインドで家畜化されて、ここから東西に広まったといわれています。

  [中国の鶏]
 中国における鶏飼育の発生は前1400年頃、青銅器時代で、殷王朝より前の時代と考えられています。それは、殷墟出土の甲骨文字に見られる鶏を象形した記号が、この時代にかなり発達した鶏飼養文化の存在を証明しています。
 中国の鶏については、東南アジアですでに家畜化されたていものを、インドシナ半島経由でうけいれたとゆう説と、中国国内の広大な野鶏生息地にいるセキショクヤケイの二亜種から中国自身で家畜化したという説があります。
 東洋に進出した鶏は、闘鶏、報晨(時報)、神格化の変遷が見られますが、食用に転じた歴史はかなり古い。中国南部で育成されたコーチン種、ブラーマ種などの大型の鶏は、肉用種としては最も古い歴史を有する品種です。

  [西方には]
 陸伝いより先に海路でエジプトに入ったとみられます。それは、エジプト新王朝第18王朝ツタンカーメン王(紀元前約1400年)の墓の副葬品の陶片に、鶏の絵が描かれていたためで、体つきのほっそりした地中海沿岸型のレグホンのようなものと推定されています。
 イラン高原には紀元前1000年ころペルシア人によってに移され、ここから黒海沿岸に沿って北ヨーロッパに進出しました。
 ペルシアでは、時計のかわりに報晨の用に供する風習が追加され、報晨と太陽との関連から鶏を太陽の使途として神聖視する観念を招じました。
 既に、インドでは紀元前1000年頃に白い雄鶏を太陽神への供物としていました。しかし鶏が最初に太陽神の使いとされたのは、紀元前7世紀のペルシアでした。それは火を神聖視し太陽を崇めていた、ゾロアスター教(拝火教)により、雄鶏が[悪から善を守るシンボル]とされたからです。このことは、アリストファネスの『鳥』にも、ペルシアは、大昔鳥が王様で人間を統治していたと述べられいることから分かります。
 その後、鶏を[ペルシアの鳥]と呼んでいたギリシア人は、その伝統を受け継ぎ、太陽神のアポロンと同一視しています。このことは、ギリシアを中心とする西洋世界への鶏の移入経路を物語っています。
          右の写真は、イランのペルセポリスにある円柱頭にある天井の支え装飾

  [新大陸]
 アメリカヘの進出はヨーロッパ人の移住とともに始まり、南アメリカヘの移入は1493年のコロンプスの第2回遠征時であると記録されています。
 しかし、前コロンブス期にすでにアメリカインディアンがアジア起源の鶏を持っていたという説もあります。これを裏付けるものとしては、ボール(1933年)による東南アジア各地のセキショクヤケイと南太平洋地域の野鶏あるいは放飼鶏の外形質の綿密な調査の結果。南太平洋の鶏が、約3000年前にマレー半島と東インド方面から、ポリネシア諸島へ移動して行った原マレー人によってもたらされたという研究があります。

  [日本の鶏のルート]
 日本の鶏の渡来の時期についての考古的資料は、まだ十分には得られていません。ただ、稲をふくむ穀類栽培農耕と鶏飼育との間になにか関係があるとすれば、稲作農耕とともに紀元前!00-200年頃に、北九州および出雲地方に到達した可能性があります。
 鶏飼育の確証となる鶏遺骨の出土例については、縄文および弥生時代にはほとんどなく(弥生の農耕遺跡からの未確認情報はあります)、年代の確かな出土は古墳時代末になります。
 このほかの鶏の出土品としては、後述する鶏の埴輸があります。
日本への鶏の渡来経路については、従来朝鮮半島経由の西ルートとされてましたが、形質・血液の遺伝子の分析により、台湾南西諸島経由の南方ルートがあることが実証されています。
   【品種】

 鶏は原産地と体型で[品種]に、羽色、冠形などによって[内種]に分けられます。
 用途による類別としては、愛玩用、闘鶏用、実用に分けられ、実用はさらに卵用、肉用、卵肉兼用に区別されます。
 現在地方種も数にいれれば、品種数は300以上、内種数は2000を越えていると推測される。

  [日本鶏の品種分化]

 現在、日本で天然記念物に指定され、保謹されている鶏は、尾長鳥、東天紅、鶉尾、尾曳、声良、唐丸、蓑曳、地鶏、小国、軍鶏、矮鶏、比内鶏、烏骨鶏、河内奴、薩摩鶏、地頭鶏、黒柏の17品種、地鶏としては、岐阜地鶏、伊勢地鶏(三重地鶏・猩々地鶏)・土佐地鶏(小地鶏)の三品種が認められてます。
 平安時代までは地鶏を放し飼いにしていたようですが、この時代の初期に、中国寧波府昌国から遣唐使によって[小国]がもたらされたました。小国の豊かな尾羽は1メートルくらいまで伸び、長鳴性と闘争性を兼ねそなえているため闘鶏と報晨に用いられました。
 この長鳴性を改良して[東天紅]と[黒柏]、尾羽の豊さからは[蓑曳][尾曳]を生み、尾羽の換羽性を除き謡羽がのびっづける[尾長鶏]が作られました。
 闘鶏用の[シャモ](鎌倉時代との説もある)と[大唐丸]は徳川時代初期に中国から渡来しました。
 シャモは秋田青森地方の地鶏と交配し、キリタンポに用いる肉質の良い[比内鶏]を、唐丸との交配で長鳴性の[声良]、小国との交配で[薩摩鶏]を生みました。
 徳川初期には、[チャボ]と[烏骨鶏]も渡来しています。
上記の話で分かるように、徳川時代まで日本には地鶏と小国(シャモ)しかいませんでした。品種が分化してきたのは徳川中期以降で、今日にみられる多様な内種がっくられたのは、おもに明治以降のことです。

 [身近な品種]

(1)レグホーン種Leghorn(卵用)
 イタリア原産。1828年アメリカ東部に輸入され、1870年以後急激に卵用鶏として普及するようになる。
 レグホーン種は羽色、冠型で12の内種に分げられるが、その中の単冠白色レグホーン種が、イギリス、アメリカ、オーストラリア、カナダで改良され、優秀な 採卵鶏として全世界で飼育されるようになりました。
 日本では、1921年(大正10)富山県の武部毅吉がアメリカから多産鶏を輸入して以来、多産的に改良され、採卵鶏として全国に普及しました。
                (右の写真は、イタリアのシシリー島で撮った鶏、レグホーン種と思われる)
(2)プリマスロック種Plymuth rock(卵肉兼用)
 アメリカ原産。
(3)ロードアイランドレッド種RhodeIs1andred(卵肉兼用)
 アメリカのロード・アイランド州原産。
(4)ニューハンプシヤー種New Hampshire(卵肉兼用)
 アメリカのニューハンプシャー州の原産、ロードアイランドレッド種の早熟、淡色の系統から作り出されたもの。
(5)名古屋種(卵肉兼用)
 名古屋地方の原産の地鶏に、コーチン種を交配したもの。肉質は良好ですが、
 すねの色の鉛色のことと皮膚の灰色のため欧米人には好まれない。
(6)三河種(卵肉兼用)
 バフ色プリマスロック種、バフ色レグホーン種と名古屋種の交雑から成立したもの。
(7)プラーマ種Brahma(肉用)
 インド原産、1846年にアメリカ、1853年にはイギリスに輸入され改良された。
(8)ポーリッシュ種Po1ish(愛玩用)
 オランダで改良、愛玩用で毛冠がことに大きく美しい。
(9)尾長鳥(愛玩用)
 高知県の原産、尾羽が著しく長く優美。伸長は8mに達するものもあり、世界的に有名。
 外国では、この鶏が横浜から輸出されていたことから、Yokohamaといっている。
 一説によると江戸時代初期土佐長岡郡大篠の商人武市利右衛門が、50年問の数代雑交の結果つくりだしたものとされています。
またこの尾長鳥は土佐藩主山内家の槍の飾りとして用いるために作らせたともいいます。その槍は「お飛びがらす」といい諸大名の羨望の的になりました。しかし土佐藩は尾長鶏を隠し続け、幕末までは他国のだれもこの存在を知るものがいなかった。
 文政時代福岡藩主黒田斉清が、各地の鶏の絵を集めて編纂した『鳥類写生図』にも尾長鳥は記載されていない。
 別説では、『魏志』東夷伝の韓の条に「又出細尾鶏其尾皆長五尺余」とあることから朝鮮伝来の鶏とするものもあります。
 白藤、かっ色、白色の3内種がある。特徴は雄の尾羽とみの羽が生存中伸び続け、普通の鶏と尾長の雌の尾羽は毎年換羽する。
(10)チャボ[倭鶏]Bantam(愛玩用)
 日本でつくりだされましたが、原産地はインドシナ地方で、名前の由来は同地方の古代王国チャンパ(占城)による。英語bantamもジャワ島南部にある古い港町の名にちなんだものといわれています。白色、黒色、真黒、桂、碁石、猩々などの21の内種、絹毛、反り毛などの品種がある。本種は体重がなるべく軽いものが良いとされている。
(11)しゃも[軍鶏]
 タイ国の古名シヤムからでている。一般に日本鶏研究家の間ではシヤモなどの大型鶏は徳川時代に渡来したといわれていました、しかし、中期鎌倉時代の鎌倉市千葉地東の遺跡から出土したものの大腿骨長が108ミリ、脛骨が190ミリあり、シャモあるいはその系統に属する声良のものに近い長さです。また、このほかにも同時代の大型の出土例があることから、鎌倉時代にはすでに渡来していたと思われます。
  【闘鶏】

 人類が最初に鶏を飼いならした目的は、闘鶏の用に供するためで、遥か紀元前2000年頃まで遡ります。その最古の証拠はインダス文明最大の都市遺跡モヘンジョ・ダロから出土した、2羽の戦う鶏の石製印章です。
 この闘鶏の風習は、今でも南アジア、南アメリカのスペイン人、アメリカインディアンの間で見られます。またごく最近まで、鶏が住む全世界に闘鶏の風習があったことは、イギリスに数多くのゲーム種がいたり、日本に闘鶏用のシャモが各種飼育されていることからも明らかです。次に、各地の闘鶏の歴史を探って見ます。

  [中近東・ヨーロッパ編]
 ペルシアに入った鶏の主要な用途は闘鶏で、それが、古代ギリシアに伝わり、ローマでは大衆の娯楽として定着しました。プリニウスの『博物誌』によれば。ペルガモン(古代ギリシアの王国の首都)では毎年、闘鶏の見世物が行われていたとあります。
 ローマ興隆期には、戦闘の出陣前に闘鶏を行って前途を占う風習が生まれた。一方では鶏の神聖視から転化して、神を祭るときの犠牲に鶏を神前に捧げる風習をも生まれ、これが祭りの参加者の食卓に供されるよ引こなった。ただし、犠牲鳥ということでは、ギリシアの哲人ソクラテスが服毒する前に、病気快癒のため雄鶏を医神アスクレピオスに捧げよと命じたという話がありますのでローマ以前の風習と思われます。
  右の写真は、トルコのペルガモン山上遺跡をアスクレピオス遺跡から撮したもので、写真中央右側が半円形の劇場遺構です。
 民衆の娯楽として定着した闘鶏は、スペインから北欧を経て中世イギリスで大流行しました。とくにヘンリー8世(1500-1547)は闘鶏を好み、王宮内に闘鶏場まで設けられていました。また、このとき定められた闘鶏のルールは良くできていたので、後にイギリスで近代ボクシングが盛んになったとき、それが応用されたといいます。しかし、イギリスでは闘鶏に庶民が熱狂しすぎたため、1835年ついに闘鶏禁止令が出されました。
 <フランス人の先祖は雄鶏> 先に述ぺたように、イタリア語で雄鶏をガッロgalloといいますが、galloにはガリア人という意味もあります。ガリア人とは、現在のフランス・ベルギー、オランダ南部の地域に住んでいた人々を、古代ローマ人が呼んだ名称です。
 古代ローマ皇帝カェサル(シーザー)が書いた『ガリア戦記』は、このガリア人との7年(前58〜51年)激戦の様子を描いたものです。ガリア人は戦う雄鶏にあやかるためにこれを彼らの象徴としていました。それでローマ人たちは勇猛果敢に戦う雄鶏をガルスと呼ぶようになり、それが現代の鶏の学名に残りました。このガリア人の末裔である今日のフランス人にとって、雄鶏(コク・ゴルワ)の図柄はポピュラーですが、フランスの象徴となったのは17世紀フランス革命以後で、国家の紋章の一つに採用しました。

  [中国編]
 中国の闘鶏の歴史も古く、記録としては『左伝』昭公25年(前517)にみえます。以後、上流階級の遊びとして定着。また、唐の玄宗(685-762)が乙酉生まれだったため闘鶏を愛好し、闘鶏を行って間もなく王位についたのを記念して、治鶏坊を建てて闘鶏を催したといいます。
 この時代に民間にも流行し、寒食(冬至後105日)・清明節(107日)のころ行われました。しかし、宋・元以後はしだいに衰えました。

<闘鶏必勝法>李隆編『まじない』には、闘鶏のさい冠毛に米酢で練ったトリカブト(毒薬の一種)を塗れば、鶏は死ぬまで戦いぬくそうです。
 『荘子』には、闘鶏のとき鶏の頭に狸の膏を塗方法がでています。鶏はもともと狸を恐れるため、相手の鶏はこちらの鶏から発する狸の匂で、戦意をなくして降参するといいいます。

  [日本編]
 日本の闘鶏についての最古の記録は『日本書紀』に、雄略天皇7年(5世紀頃)の8月、天皇に謀反を起こそうと企てた吉備下道臣前津屋は、自宅で小さい雄鶏を天皇の鶏として毛を抜いて翼を切り、大きい雄鶏を自分の鶏として蹴爪をつけて戦わせたとの記事がみえます。
 しかし、本格的に流行したのは平安朝以降で、<鶏合>として宮中貴族のあいだではじめられました。そして12世紀後半の作『年中行事絵巻』に庶民が闘鶏を楽しんでいる図があることから、平安後期にはすでに闘鶏が庶民の娯楽として定着していたことが分かります。
 この頃闘鶏に使われていた鶏は、「小国」と称する種類で、原産地は中国寧波府昌国で恐らく遣唐使が帰国の際持ち帰ったと推定されている。その後、紀州田辺には闘鶏神社が建てられ今も残っています。
 江戸時代初期には、闘鶏用の鶏も移入されました。中国産をトウマル(唐丸)、シャム(タイ)産をシャモとよびました。ただし、シャモについては前の項で書いたように鎌倉時代にすでに移入された形跡があります。
 トウマルを飼育する箱を[唐丸籠]といいます、江戸時代罪人を護送するさいに用いた籠の形状がこれ似にていることから、同様の呼称が使われました。ただし、庶民の間での闘鶏の大流行は賭の対象になりやすかったため、幕府はしぱしば禁止令を発し、明治以降は法的に禁じられましたが、今でもいくつかの地で行われています。
  【民俗・風俗・習慣】

  [西洋編]

 [イースター・エッグ]
 キリスト教世界では復活祭に鶏卵に彩色して、贈物や装飾に用いる風習があります。これをイースター・エッグと呼び、キリストの復活の象徴とされます。
 古くは卵を赤く塗って・罪の贖いの血を現しました。しかし、鶏の卵は、春になって鳥が生む新しい生命の象徴であって、元来は生命の再生をあらわしたものです。

 [風見鶏の由来]
 教会の風見が雄鶏の形をしていたことに由来しますが、これは9世紀にローマ教皇が教会の塔の先に風見鶏をっけることを命じてからといわれています。しかし、この風見鶏はイタリアよりも、フランスで一般化しました、その訳は恐らく先に書いたように、フランス人の先祖ガリア人の伝統によると思われます。
 ところで、カトリック教会の総本山であるヴァチカンのサンピエトロ大聖堂は、キリストの弟子である聖ペテロ(イタリア語でピエトロ)の墓の上に建てられています。つまり歴代の教皇はペテロの後継者ということになります。
 新約聖書の「ルカ伝」によれば、ペテロは捕らえられることを悟ったキリストから、あなたは鶏が鳴くまでの間に人に聞かれて、私を知らないと三度嘘をつくであろうと予告された。
 そして、いわれたとおりキリストを3度否認したさい、鶏の鳴き声で自己の非に気づ来ます。それ以来、雄鶏はペテロの否定と後悔を象徴するようになりました。
 風見鶏の発生にっいては、以上の話と、鶏が悪魔を追い払う力を持っという東方ペルシア起源の俗信がもととなっていると考えられます。ただし、この伝説にはもう一つ異説があります。それは、この時代のエルサレムには鶏は存在せず、鳴き声というのは軍のトランペットの音だというのです。当時のエルサレムは軍事上の要塞で、朝方には鶏を真似てこの楽器を3度吹き鳴らしたからだといいます。
            右の教会は、イスラエル、エルサレムにある「鶏鳴教会」
  [日本編]

  [暁を呼ぶ霊鳥]
 『記紀』の神代巻には、素戔鳴尊(須佐之男命)の乱暴に怒った天照大神が天の岩戸に隠れ世界が暗黒になったとき、八百万の神が天の安河に集まって会議の結果、「常世の長鳴鳥」を集めて鳴かせた話がのってます。これは、常闇の世界を一刻も早く暁へと祈る呪術であり、また、命失った魂をこの世に復活させたいという古代の葬儀の儀式だったと恩われます。
 現在でも、伊勢皇太神宮の式年遷宮の時、いよいよ御霊代が出御せられる瞬間に神官が鶏鳴を行います。内宮では「カケコウ」、外宮では「カケロウ」と呼びます。これは、天の岩戸の長鳴鳥を鳴かせた故事をとったといいます。
これらの習俗は、古代ペルシャの太陽崇拝思想に源を発しているいわれ、また「長鳴鳥」については、中国の『後漢書』や『西京雑記』に出てくることから、記紀の編者はこれを知って使用したと考えられています。
 ところで、現在も常世の長鳴鳥の子孫と称する鶏が各地にいます。例えば、高知県の指定史跡龍河洞では、ここが天の岩戸で同地にいる東天紅(鶏)がその子孫と信じ、九州では薩摩鶏が長鳴鳥の子孫と考えられています。
 
  [俗信]
 『源平盛衰記』や『平家物語』によると、白鶏を千羽飼と、その家から天皇が生まれるという伝承がみえ、後鳥羽上皇はその霊験にあやかって即位したといいますから、これも霊鳥として能力をしめした話です。
  [鶏を食べない人々]
 
 日本の神社では鶏を神の使いとし、昼夜の境を告げる霊鳥とされていました。
 丑の刻(午前2時)に鳴くのを一番鶏、寅の刻(午前4時)に鳴くのを二番鶏といい吉としましたが、それ以前に鳴けば宵鳴きといって凶としてます。
 このように、時計のなかった古代の日本では、鶏を食用にするより時を知らせるために飼っていました。そこで、鶏を神聖視したり、逆に忌んで飼わなかったり卵を食べないという土地があります。
 山陰の<名社美保神社>では、神官はもちろん氏子一同も鶏や卵を食べません。その理由は神代にさかのぼります。
 同社の祭神事代主神は海を隔てた揖屋(いふや)の里の美保津姫に恋をして、毎夜舟にのって姫のもとに通っていました。ある夜、どうしたことか鶏が早くときを作ったので、あわてて姫のもとから帰ろうと舟にとびのって海中に出ました。しかし、あわてたため擢を忘れました。やむなく両手で水をかいて行く途中、海にいる鰐(鮫)に手を噛まれました。やっと神社に帰りついてからまだ夜が明ける時間でないことにきがつきます。怒こった神様は、「今後、美保の里では、鶏の声はさせるな」といったそうです。それ以来、ここでは絶対に鶏を食べなくなったそうです。
『十二支のはなし』の作者、大場磐雄さんの知人でここの神主の話として、生まれてから鶏肉も卵も食べたことがなく、旅などで知らずに食べたときは必ず腹痛を起こすので、帰社してから事代主神におわびするという話が載っています。
 同じ習俗をもつ神社に静岡県の三島神社(祭神は事代主神)、大阪府道明寺の土師神社(菅原道真)がありますが、出雲は土師部本家であり河内の道明寺も古く土師氏の居住地域で、菅原道真も土師氏ですので、この習俗は土師氏に何か関係があると思われます。
 上記の他に、秋田県仙北郡田沢湖町玉川部落では、鶏を神聖視し、卵の話もできなければ鶏の夢を見ても神罰があたると信じていました。東北地方で「おしらさま」という神を奉ずる家では、鶏卵を食べると口が曲がるといわれていました。
  【鶏の埴輪】

 形象埴輪の中で動物を模したものが相当ありますが、数量からいいますと、第一が馬で、これに次いで多いのが水鳥や鶏です。
 三木文雄氏の『はにわ』(講談社刊)の「埴輪出土分布知名一覧」によりますと、全国の出土地名は791個所。その内で鶏埴輸の出土地が31個所、これを地域別にすると、関東18、近畿4、中部と山陽各3、残りの山陰、四国、九州が各1となっています。(別の資料では北は山形県から南は大分に至22府県の58地点というものもありましたが地域別がはっきりしていないのでこの資料を参考にしました)
 鶏埴輪の発生を見ますと、関東では群馬県今井茶臼山古墳が5世紀中葉、その他が六世紀以後。西日本では岡山市金蔵山古墳が五世紀前半。広島県三ツ城古墳が5世紀後半と推定されています。ということで、鶏埴輸の発生は5世紀の前半くらいで、西日本にまず起こって東日本へ伝わり関東ではかなり後世まで作られたと考えられています。
 ちなみに、近畿では雄鶏を表したものが多く、関西では雌鳥が多く出ています。その他古墳出土の鶏としては、太刀の柄頭に鶏冠を用いたものがあります。

            右の鶏の埴輪は、栃木県「鶏塚古墳」出土(東京国立博物館蔵)
   【男女の愛は鶏次第】

 古代の日本では、男性が女性の家に通う「通い婚」でした。夜、男性が女性の家に忍んで行き意中を告げ、それが受け入れられて数回の逢引のうえ、女性が気にいれば婚約成立となります。これは貴族の話、一般民衆の間では「よばい」(夜這い)が普通でした。
 しかし、日が昇るまえに女の家から帰らなければならないため、時計のない音では、夜明け少し前に鳴く鶏は時を知るための大変貴重な存在でした。ただし、鶏もたまに時間を間違うため色々な問題も起こってきます。
 『古事記』上巻に大国主命が高志国(新潟県)に沼河比売と言う美人がいると聞き、はるばる出雲から妻招ぎ(夜這いに同じ)に出掛けて行きました。命は夜半比売のいえの前に立って板戸を叩いたのですが一向に通じません。そのうちに夜もあげかけ「青山に鵺は鳴きぬ、さ野つ鳥雉子はとよむ、庭つ鳥鶏(かけ)は鳴く、うれたくも鳴くなる鳥か、この鳥もうち止めこせね」という情景になって鶏の音を怨みつつ逐に一夜を明かしました。沼河比売はその情熱を受け入れて、その翌日は一夜を共に過ごしました。
 『日本書紀』継体天皇7年9月の条には、勾大兄皇子が春日皇女との初夜に詠まれた御歌の中に、二人が抱擁合体しクライマックスの真っ最中に「庭つ鳥鶏はなくなり、野つ鳥雉子はとよむ、はしけくもいまだいわずて、あけにけり吾妹」ということになって、やむなくきぬぎぬの別れということになったとあります。
 『万葉集」(巻十九)には「打羽ふり鶏はなくともかくばかり降しく雪に君いまさめやも」とあります。これは、鶏が鳴いても朝がきてもこの雪に、あなたを帰したくはない。という女心の歌です。
 『伊勢物語』には、京女にみそめられ一夜を共に過した業平が、鶏が宵鳴きしたため、朝だとかんちがいし帰ってしまった。この時に鶏を憎んで、女の詠んだ歌「夜も明けばきつにはめなむくだかけのまだきに鳴きて夫をやりっる」この歌の解釈には、「きつ」は狐と水桶、「はめなん」は食わせようと突っ込む、「くだかけ」は腐鶏と家鶏などがあります。つまり「憎い鶏を狐に食わせてやろう」と「鶏を水桶に突っ込んでくれよう」です。どちらにしても女が怒っていることには変わりありません。
 
  【カクテル】

 さまざまな酒を混ぜてつくるカクテルcocktai1は、アメリカではじまった飲料です。
 フランス語で色っぼい女、あるいは女たらし意味するするコケットcoquetteはcock(雄鶏)が語源です。
また、英語で雄鶏をを示すcockは<尾を立てて威勢を張る>の意味をもち、ペニスの俗語です。このように雄鶏は、ほば全世界を通じて男性のセックス能力を象徴しています。
 日本でさえ昔から雄鶏は日に60回も交尾するという言葉があるそうです。さらに雄鶏の闘争性と力強さからcockには親分・有力者の意味もある。また、
 別には、カクテルを最初にっくったメキシコの王女ホキトルXochitlまたはコクテルCocte1の名にちなむという説もあります。
  【昔話】

 雄鶏の鳴き声が悪魔を追い払う力があるという考え方は、世界中にあります。また鶏の鳴き声を真似て鬼や悪霊を退散させて宝物を手に入れる話もたくさんあります。
 グリム童話の「プレーメンの音楽隊」の雄鶏の一声で泥棒が逃げ去る話もこの民間伝承に基づいて作られました。
また、シェイクスピアも「ハムレット」の中で、雄鶏を「朝を告げるラッパ手」といい、その鳴き声を聞くと、夜の世界をさまようおびただしい亡霊の群れもそのすみかにもどるといいます。

  【天気予報】
 
 鶏が騒ぐと雨(福井県)。鶏が夜まで餌をあさると、翌日は雨(日本各地)。
 【鶏のつく名前】

 鶏内(かいうち、かいち、とりうち)広島県。鶏冠井(かえいで、かいで、とさかい、とりむかい)愛知県。鶏足(とりたり)長崎、福岡。
 酉水(すがい、とりみず)大分、神奈川県。酉井(とりい)大阪府。酉岡(とりおか)、山口県1人。酉越(とりごえ)。酉丸(鳥丸)岩手県。
 酉和(とりわ)和歌山県。

 電話帳に見えなかった名前:鶏冠手(かいで、かえで)、鶏知(けち)、鶏矢(けや)、酉州(とす)酉祓(とりはらい)
  【酉年生まれの人】

 1981年(昭和56年)
新山千春(女優)、知念里奈(歌手)、安達祐実(タレント)、内山信二(タレント)
 1969年(昭和44年)
荻原建司(スキー選手)、吉田栄作(俳優)、武豊(騎手)、伊藤みどり(スケート選手)、山瀬まみ、鈴木杏樹(タレント)、福山雅治、
マルシア(歌手)、富田靖子(女優)、中村江里子(アナウンサー)、的場浩司(俳優)、千堂あきほ(女優)、森高千里(歌手)、槙原敬之(歌手)、
石田ゆり子(女優)、浅香唯(タレント)
 1957年(昭和32年)
山下泰裕(柔道)、柴門ふみ(作家)、そのまんま東、宮本亜門(演出家)、秋野陽子(女優)、ラモス瑠偉、桑野信義(タレント)、
かたせ梨乃(女優)、古尾谷雅人(俳優)、森末慎二(タレント)、真野あずさ(女優)、大竹しのぶ、名取裕子、増田恵子(ピンクレディー)、
うじきつよし、星野知子(女優)、夏目雅子、
 1945年(昭和20年)
樋口久子(ゴルファー)、吉永小百合、水前寺清子、阿木燿子(作詞家)、栗原小巻(女優)、宮本信子(女優)、金井克子(歌手)、松島トモ子、
セルジオ・越後、黒金ヒロシ、タモリ、おすぎ、ピーコ、逸見政孝(アナウンサー)、アウンサン・スーチー(ミャンマー反政府運動家)、
ロッド・スチュワート(米・歌手)
 1933年(昭和8年)
今上天皇、江藤淳(作家)、生島治郎(作家)、渡辺淳一(作家)、黒柳徹子、藤田まこと、池内淳子、若尾文子、平幹二郎、宍戸錠、金田正一、
渡辺貞夫、オノ・ヨーコ(芸術家)、南田洋子(女優)、永六輔、伊丹十三(映画監督)、川崎敬三(司会者)、菅原文太、草笛光子、半村良(作家)
 1921年(大正10年)
盛田昭夫(ソニー・実業家)、由利徹(タレント)、十辺千鶴子(随筆家)、森正(指揮者)
 1909年(明治42年)
杉村春子、淀川長治、上原謙(俳優)、松本清張、太宰治、大岡昇平、横山隆一(漫画家)、飯沢匡(劇作家)、古関裕而(作曲家)、
小沢栄太郎(新劇俳優)、小森和子(映画評論家)、田中絹代(女優)
 1897年(明治30年)
三木清(哲学者)、大仏次郎(作家)、宇野千代(作家)、堀内敬三(音楽評論家)、蜷川虎三(元京都府知事)、東郷青児、藤山愛一郎(政治家)
 1885年(明治18年)
吉田茂、北原白秋、大杉栄(思想家)、若山牧水(歌人)、前田青邨(日本画家)、武者小路実篤、ロレンス(イギリス、作家)、
トインビー(イギリス、歴史家)
 1873年(明治6年)
与謝野寛(歌人)、津田左右吉(歴史学者)、泉鏡花、与謝野鉄幹、河合玉堂(日本画家)、
     参考文献
 世界夫百科事典 (平凡社)
 世界夫博物図鑑4[鳥類]荒俣宏 (平凡社)
 サライ1 (小学館)
 ヨーロッパ語小辞典 (福音出小辞典文庫)
 十二支のはなし 大場磐雄 (ニューサ・イエンス社)
 人問がつくった動物たち 正国陽一 (東京書籍)
 南方熊楠全 十二支考 (平凡社)
 語源十二支物語 山中襄太郎太 (大修館書店)
 十二支物 諸橋轍次 (大修館書店)
 日本国語大辞典 (小学館)
 日本風俗史事典 日本風俗史学会編 (弘文堂)
 写録宝夢巣6
 十二支の話題事典 加藤迪男 (東京堂出版)
 日本文学の歴史 1 小林行雄 池田弥三郎 角川源義編 (角川書店)