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遺跡の謎・疑問
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 ここでは、私が長い間疑問を持っていた遺跡の謎の話。現地に行ってはじめて分かった話などを、展示したいと思います。


 

  【ダレイオス(ダリウス)大王の戦勝記念磨崖浮彫】

 私が学生時代に、教科書でこの浮彫の写真を見たときから、どのような場所に彫られているのかずっと疑問でした。教科書に載っているのは平面の部分写真ですから周りの雰囲気がわかりませんでした。
 私と同じように、この彫刻のある場所の周囲について知りたいと思う人がいると思いここに展示しました。
 この浮彫は、アケメネス朝ペルシャ帝国第3代の王ダレイオス1世(在位前522〜486)の功績を記念したもので、イラン・ケルマンシャー東方約40キロのビストゥーンにあります
 左に王位僣称者ガウマータを踏みつけたダレイオス。彼の前には9人の反乱指導者が後ろ手に縛られ、首に縄を付けて数珠繋ぎにされています。その上にはアフラ・マズダ神が彫られています。
 彫刻のパネルの下には古代ペルシア語とその左右にエラム語。パネルの左にはバビロニア語の碑文が刻まれています。


 ビストゥーンは、ザグロス山中にあり、古くはバガスターナ(神の居所)と呼ばれていました。
 左1枚目の写真は、崖下道路をはさんで泉のところからザグロス山の方を撮った物。
 左2枚目は、碑文の下から撮った物
 ダレイオス1世の碑文は、地上から70メートル近いま磨崖の中腹にある。(写真のちょうど中央部)











 左が碑文は、碑文の前まで崖を登って碑文を撮った物。
 右の写真は同じところから撮った道路側。道路を挟んで向こう側には湧水の池がある。

 







 

 【イースター島のモアイ 石像の作り方】


 石像を作るには、石材を切り出してきてそれを彫る方法と、石切場で直接彫刻をして、出来上がった段階で石切場から切り離す方法があります。
 イースター島では、後者の方法でモアイ像を作ります。個人が作る小型の彫刻と違い、多人数で作る大きな物はこの方が作りやすのかもしれない。

 上の写真はアフタ・ハイで、真ん中にあるのが赤い帽子のモアイ。


 モアイは、ラノララクという石切場で作られます(左の写真)。
 この場所には、未完成の物を含め約280体のモアイが放置されているそうです。現在、ラノララクの周囲は石を積んだ囲いがあり、その中で馬が放牧されています。
 2枚目は、ヘーエルダールが地中から発見した物で、他の物と形が違います、大きさを見せるために私が横にいます。




 左の写真のモアイは、掘り終わり下の部分を削れば完成となる。
 
 右の写真は、20メートルもある堀かけのモアイ。
 ヘイエルダールが、島民で実験した結果によると、中くらいのモアイを完成させるのに、6人ずつ2組の石工が1日交替で作業して、12ケ月かかるという、右のモアイならば2年以上かかる。



 両側の写真は、ラノララクに放置されているモアイ群。

 モアイは、他の場所で採取される赤い花崗岩で作った帽子がのっている物もある。 私の行った1975年8月には、モアイに目が付いていませんでした。実は、1979年にモアイの目が発見され、もとは目が付いていたことが分かりました。目は白いサンゴ石と赤い凝灰岩のひとみでできています。






  【トロイの遺跡】


 ギリシャの詩人ホメロスの『イリアス』に書かれている「トロイの木馬」の話、そしてこの話を信じて前後6回の発掘をしたシュリーマンの話など、私の世代は子供の頃から憧れの遺跡でした。しかし、どこの国にあるかはよく知られていないとおもいます。
 「トロイの木馬」が,どんな形をしてどんな遺跡なのか知りたいと思っている人がいると思いここに展示しました。
 所在地はトルコ共和国の西端、イスタンブールからマルマラ海を通りエーゲ海に抜けるダーダネル海峡のアジア側に有ります。アレキサンダー大王もこの近く上陸したといわれています。
 私が訪れたのは、1976年4月、期待していた割には何も見るべき物がない遺跡でした。それは、この地が紀元前3000年頃より長い歴史の間に多くの都市が滅亡と復興を繰り返し、その複雑な重なり合った重層遺跡のため、素人の私には何がなんだか良く判らなかったためです。
 上の写真は、入り口にある木製の木馬、後ろ足の股の処に階段があり中にはいることが出来る。

 [遺跡の感じは、下の写真のようなものです。分かりづらいうえ、これはと言うものがありません]

  下の写真は、トロイ戦争当時の第6市の城壁と門と言われているもの。
  トロイ戦争は、紀元前1300〜1200年頃と言われています。

 下の写真も、第6市の遺跡(紀元前1900〜1300年)。

 下の左の写真は、第7市(紀元前1300〜900)
 右の写真は、第9市(紀元前350〜紀元400)の聖域、中央の高い壇は生贄を捧げる台という。

 左はローマ時代に造られた小劇場、


 ここトロイを攻めたギリシャ軍はどこから来たか?ということで次のミケーネ遺跡につながります。
 

  【ミケーネ遺跡】


 トロイを攻めたギリシア軍の総大将「アガメムノン王」は、ここミケーネの王。
 この遺跡は、ギリシア・ペロポネソス半島の丘陵にあった。

  ミケーネ文明は前16〜12世紀にかけてペロポネソス半島に発生ギリシャ文明の先駆となった。
  ここもトロイと同じシュリーマンが発見しました。


                                 上右の写真は、<獅子の門>

 上下の写真は、獅子の門を入ってすぐ左にある、竪抗墳墓(円形墳墓)。
 シュリーマンは、ここから無数の財宝を発見した。

 下の写真、遺跡の最上部。



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