隊 商 都 市 遺 跡
【パルミュラ】
シリアの首都ダマスカスの北東約200キロ、シリア砂漠のほぼ中央に位置する隊商都市遺跡。
岩石砂漠を3時間突っ走ると、突然眼下に白い列柱群が現れた。
ここを訪れたのは1976年4月、今から30年も前のなのに、あの感激は今も忘れられない。
写真が古く、多少変色しているものもありますがご容赦を。
下の写真の山の上にあるのは、17世紀に建てられた[アラブ城砦]。シリア軍の基地が見えると言うことでここでの撮影は禁止、観光コースにもなっていませんでした、今は自由に行けるようです。
この地は、メソポタミアと地中海世界、エジプトを結ぶ重要な隊商路の中継基地で、前19世紀からタドモールという名で知られていた。タドモールは、古代セム語の「タマル」、パルミュラはギリシャ語の「パルマ」ともにナツメヤシに由来する。
ローマの属国であったが、270年パルミュラの太守オダイナストが暗殺された後、その2番目の妻ゼノビアは、自ら女王となり自分の息子に「皇帝」を名乗らせ、ローマ征服を目論んでエジプトまで侵攻する。
しかし、272年ローマ軍の反撃に遭い、ゼノビアは捕虜となり「黄金の鎖につながれて」ローマに送られ処刑された。
このときを境に交易都市の機能を失い、オスマン朝以降は廃墟となった。
上左が、「記念門」から見た[ベル神殿群]、中央は神像安置所と中庭、右が内部の祭壇。
左は、ベル神殿の天井飾り、中央神殿の前に置いてある。彫られているモチーフは、人物・下に葡萄文模様、右は、天使とナツメヤシ、ザクロ、パイナップル、オレンジなどの果物。
バビロニア起源の大神ベルは、シリアで土着の太陽神と習合し崇拝された。
ベル神殿は紀元32年建立。東西210メートル、南北205メートル。
この神殿の拝観は有料。
[ベル神殿と道路をはさんだ反対側の眺め]
右側の[凱旋門](記念門)から、150本あまりのバラ色の大理石列柱が両側に立ち並ぶ、柱には台座が取り付けられておりかっては町の有力者の像が置かれていたそうです。
列柱道理の中心にある[四面門](テトラ・ピュロン)。
左側の写真、4組の門の間に、小豆色のズボンをはいた私がいるのが分かりますか、この門は意外と大きいのです。
石材はエジプトの赤い花崗岩を使っている。
凱旋門に向ってある列柱の中ほどの、黒い点のような陰の部分が像を載せる台座の部分。
このパルミュラ大通りは1.2キロあり、列柱数はかって、375×2=750本あったそうです。
左側の写真の門の反対側に進と、劇場に到達する。
この遺跡では、羊が沢山放し飼いにされていた、現在は観光化されているのでどうなったか分からない。
トインビーは、「世界で一番美しい遺跡」と賞賛した。
左は、ローマの影響のある遺跡ならどこに出もある[円形劇場]。
劇場にある小部屋は、牧童たちのトイレ代わりとなっているため、とても臭かった。現在も同じなのだろうか。
[墓の谷]
パルミュラの市街地から丘の方を見ると、箱形の建物が点在する(写真左側)。
これらは、1〜3の富豪たちの墓で、 5階建てや地下室式のものがあります。
下の写真の右側に[アラブの城砦]がある。
地下墳墓内部
ワイン色の色彩が装飾で飾られた、3兄弟の墓。絵と絵の間にある窪みには、棺桶を縦に並べられるよう棚状になっている。
左側の写真は、墓にある彫刻。
右側は、天井の装飾。
【ハトラ】
(1997年5月訪問)
イラクのモスールから南西へ150キロ、シリアのパルミュラ遺跡から約450キロの地点にあるアラブ系住民の隊商都市。
メソポタミアとギリシャ、ローマを結ぶ交通路上にあり、紀元前1世紀から後240年頃までパルティア帝国の臣属国として頃から栄えた。
直径2キロメートルの敷地の中央に方形の聖域があり、周囲6キロの内城壁、周囲8キロの外城壁がある。
西アジアと地中海世界、両様式が混じった諸神殿があります。
左の写真は、グレコ・ローマン様式のマラン神殿。
右の写真、円柱の横にラクダが彫られており、子ラクダが親ラクダから乳を飲んでいます。また、中央の壁の上部に2人の人物が彫られています。
下の写真は、遺跡向かって左側の工事中のところ、右側の人のいる場所の、門の上部の模様。
上の写真が神殿群、一番大きなアーチ門が、シャマシュ(太陽)神殿。左側がシャマシュ神殿内部壁面、色々な彫刻が見える。
左の写真は、シャマシュ神殿。
2枚目が、シャマシュ神殿内部から外を撮したもの、前の建物人物集団の左側にハトラ女神が立っています。
3枚目の写真が、神殿内部の入り口から奥に入るとある回廊。
左の写真の彫刻は、バルマリン神殿のアーチ門前壁にあるギリシャ神ヘルメス。
右の写真左の像が、ハトラ女神。
アーチ門の彫刻
左側が、ミトラ教寺院のアーチ式門の彫刻
左の写真は、ハトラにある墓とその内部。
【ペトラ】
ここを訪問したのは、1976年4月
ペトラに人間が住み始めたのは、9000年前の新石器時代、都市が築かれたのは紀元前4世紀頃といわれる。
紀元前2世紀から紀元2世紀にかけてのナバティア王国の時代に、隊商交易で最盛期を迎えた。
紀元106年にローマ帝国に併合され、紀元363年の大地震で壊滅的な被害を受け消滅、多くの謎を残したまま歴史の闇に埋もれてしまう。この遺跡が発見されたのは、1812年のこと。標高は950メートル。
左は、ペトラに唯一の通路のは入り口にある、エジプトの影響を強く見られるオベリスク墳墓。上段に高さ7メートルの4本のオベリスクを持つ。
下の部分は、バブ・エル・シーク・トリクリニウムと呼ばれる墳墓。
ペトラ遺跡に行くには、高さ70〜100メートルもある断崖絶壁に囲まれた細い道「シーク」を通っていく(右の写真)。
薄暗く、細い裂け目を通り抜けると、突然前方にピンク色のエル・カズネ(ファラオの宝物庫)が現れる。この遺跡をよく知らなかった私にとって衝撃的な出会いでした。
エル・カズネが建造されたのは、紀元前1〜紀元2世紀。ナバティア王の墓とも神殿とも言われています。
下の写真でも分かるように、岩肌の色はとても美しい。右の写真は宝物庫のない部この壁の模様も美しい。
ペトラには500基以上の墓があると言われているが、まだ多くの遺構が土の中に埋もれているといわれている。
7000人の収容規模を誇るローマ時代劇場、舞台のさしわたし約36メートル、客席33列。
パルティア仁の墓の上に建造したという。
上の写真左奥、エル・カズネを後に、アウター・シクと呼ばれる谷間を進とローマ劇場が見られる。
右の写真は、劇場の斜め向かいにある墳墓群、右の写真はその墳墓の天井の岩石模様。
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