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               コインとガラス


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              お金でないお金

 【テレホンコイン】

 日本の公衆電話も10円の時代から、テレホンカードとなり、一人一台の携帯電話の時代となりました。しかし日本のように数十年間も10円という同じ貨幣で電話をかけられるということは、世界的に見ても驚異的なことと思います。
 左の写真は、1970年代後半に収集したテレホンコインで、左からイスラエル、イタリア、トルコの物です。
 何故こんな物が必要かといいますと、国の政権が不安定で、政権交代のたび貨幣が作り替えられたり、貨幣の価値が変動する処では、公衆電話の硬貨の投入口をそのたびに変更したり、同じ大きさの価値の違う貨幣が存在する国もでてきます。ですから、一定の形のテレホンコインを作って、その時の電話料価格に合うお金でコインを買うことにより公衆電話をかけるようにしたというわけです。
 テレホンコインが通貨の代わりに使用できるところもあります。1980年頃のイタリアでは、その当時テレホンコイン2個でカプチーノが1杯飲めました。そういえば日本でも、テレホンカードで泊まれるホテルがあると聞きました。

 [日本の公衆電話] 日本の公衆電話が架設されたのは、1900年(明治33年)9月11日で、東京の新橋と上野駅前、それに熊本市内の3台のみ。当時は<自働電話>と呼んでいました。硬貨投入口は5銭と10銭の二つ、硬貨の通過するときの音によって投入貨幣種を交換取扱者に知らせました。公衆電話と改められたのはダイヤル式の自動交換となった1925年(大正14年)です。
 戦後には通貨不足により、1948年(昭和23年)硬貨投入口を紙幣用に改造した紙幣式公衆電話が設置されました。しかし、この電話は回路的に料金投入と通話に関連がないため無料通話ができる欠点がありました。昭和26年現在の10円硬貨が発行され、27年に流通し始めたため、翌28年1月に10円硬貨の青色の公衆電話が採用されました。ただし、ダイヤル式自動交換機が使えたのは、大都会のみでローカル的には、30年代になっても磁石電話機が主流でした。この方式では、電話機についている取っ手をグルグル回し、発生した電気で交換台の番号札がパタンと倒れて交換手がでてくる、相手がつながった段階で硬貨を入れて話が出来るというものでした。



  
【絵銭】

 私が初めて絵銭という物を意識したのは12歳で、私の父が亡くなった時、母が仏壇の引き出しにあった皮製の蝦蟇口から古いお金を6枚取り出して、父の棺桶の中に入れました。形は江戸時代の寛永通宝のようで表面に何頭かの馬の絵が彫られていました、わずか数秒の出会いでした。それが絵銭という物だと気がついたのはずっと後になってからですが。その絵柄と家にあった経緯、もう不可能ですが知りたいです。
 絵銭というのは、江戸時代の通貨である、円形、方孔の形態に色々の図柄を鋳出した貨幣類似品で通貨ではありません。発生は江戸時代初期といわれており、韓国製、中国製の物もあります。
 絵銭が作られた目的は、大きく分けて、子供の玩具と、信仰対象として作られた二種類があります。私も数十枚持っていますので、その内から何枚かを紹介します。
 左の物は、駒曳銭で「桃猿駒」、中国には「打馬格銭」と呼ぶ馬を描いた絵銭があって、日本の絵銭はこれらを真似たともいわれています。左から2番目は、面子銭で人が馬を曳いている「仕丁駒」。3番目は、打印銭・陽刻類で鋳造ではなく、素赤と称する純銅に近い素材から打ち出した「踊馬子」。
 右の写真は俗に「猿の駒曳き」と呼ばれる物で、大きさは左の「仕丁駒」と同じくらいの大きさです。
 左の絵銭は、最近手に入れた巨大な「猿の駒引き」の絵銭。
 直径が7.5センチもあります、いつ頃のものか、制作された場所(国)等まったく判りません、誰か知っていましたら教えて下さい。

 絵銭はこれらの他、家紋、大黒様、竜、等色々の物があります。収集品の中には陰陽銭という物もありますが、写真では紹介出来ません、ただしこれは農業信仰に関わる物です。






  【陶器の貨幣】
  マイセン陶貨

 第一次大戦後のドイツで、金属不足のため緊急に発行された陶製の貨幣。
 (日本でも金属が不足しだした終戦前に、陶貨を作成しましたが、未発行に終わっています。
 日本製の物は、オークションで1500〜3000円ほどで売っています。)

 ドイツの名窯マイセンで製造されました、左側の貨幣表面におなじみの刀のマークが入っています。

 両方とも1921年製造で、上が5マルク、下が20マルク、約3p前後、大きい物では4pの物もあります。



 色は、この他に前面が茶色、青黒い物もあります。




 陶貨は、これらの他に、アジアではタイや中国などにもあります。










                  古代ガラス

                                 

                          《 ガラスの起源〜ローマングラスまで 》

 古代メソポタミアではB.C.18世紀にはガラスの製作がおこなわれており、最初のガラス製品はコアグラスといいます。製法は金属棒へ耐火粘土を使い容器の形に芯(コア)を作ります。これに溶かしたガラスを巻き付け形を作り灰の中で常温に成るまで冷まします。常温になったら心棒を抜き,耐火粘土をかき出し完成です。エジプトではB.C15世紀、トドメス3世の時代にガラスの杯が作られています。    

 [ローマングラス] とは、名前からも分かるように古代ローマ時代(BC1〜AD4世紀)に作られたガラス器を言い、吹きガラス製法により作られています。吹きガラス製法とは、紀元前60〜前30年ごろシリア地方(現在シリア、レバノン、イスラエル)で発明されたガラスの成形技術で、鉄パイプの先端を熱し、そこに溶けたガラスを巻きつけた後、息をパイプへ吹き込み形を作リます。
 この製法は他とは比べ物にならないほどの短時間で作品を作ることができるため、高級品であったガラス器が一般庶民にも普及するようになりました。          


  【ガラス玉、ネックレス】

 ガラス玉のネックレスに最初に出会ったのは、25年ほど前シリアのアレッポの骨董屋、白くて汚いネックレスがあると思ったのですが今考えると、それがガラス玉でした。











 
  左は、2000年にレバノンのベールート市内を探し回りやっと見つけた骨董屋で購入した物。本当はトンボ玉の良い物が欲しかったのですが、じっくり見る時間が無くて見つけることができませんでした。 購入したのは、ネックレスを作るために出土した物を未整理に袋に入れてあった物。三分の一がガラス玉、その他は石で貝を加工した物も入っていました。我が家にある写真資料などで見ると、高価な物はありませんが紀元前2000年頃から使用していた物も混じっている様です。

  真ん中は、2000年前キプロス出土ということで購入したガラスビーズのネックレス。一見白っぽく見えるが一個一個は銀化しており拡大鏡で見るととても綺麗。

  右は、レバノンの国立博物館で購入した、レバノンのトンボ玉レプリカのネックレス、現在日本で造られているのとはチョット作成方法が違うようで、模様の有様が違います。国立博物館は内戦で長らく閉鎖していましたが、修復作業を終え2000年再オープンしました。

  
【トンボ玉】
 
下左は、紀元後500〜700年頃の西アジア玉。およそ8mmほどのボディに8個の重層眼が施されています。













 上右と左は紀元前の西アジアフェニキアのトンボ玉。
 特に左側の物は、紀元前300年頃のフェニキア発掘の『ぺルセポリス型』と呼ばれるモザイク貼り眼玉です。 渋い半クリアのボディに白の帯が流され、発光するようなブルートップを持つ特徴的な重層眼が、四方向に配置されている気品のある一品。

 上右の物については、[まいと]さんというかたから、フェニキアビーズではなくイタリアの16〜18Cの物ではないかと指摘がありました。フェニキアビーズとして購入したのですが、私には判りません、イタリアのビーズが正しいのかも知れません。

【ガラス器香油壺】

    [涙壺の話]
 ローマングラスブームのきっかけになったといわれている、試験管を半分に切って多少膨らみをもたせた様な、小さなガラス器を、[涙壺]と呼んでいました。
 話は古代ローマ時代、夫に先立たれた奥さんが、その命日に遺骨の入った石棺にあいている穴から中へ、悲しみの涙を垂らすという風習がありました。しかし毎年涙が出るわけでないため、泣いた涙を涙壺に保管しておいて、次の時に使ったと言います。別の涙壺の話は、葬式の時「泣き女」を雇ってこの涙壺に涙をため、死者と一緒に葬ったという話。つまり、沢山涙壺がある(悲しむ人がたくさんいた)という一種のステイタスだったというのです。
 涙壺にはもう一つの形があります、イランのガラス陶磁器博物館にも展示してましたが、現物の写真がありません。右の写真は現在売っている涙壺型の水差しですが、形が同じですので参考に載せておきます。(映画「時代屋の女房」のなかで、夏目雅子がこの涙壺が気に入り、持ち歩いている場面があります)
 戦地に赴いた夫が無事に帰ってくることを祈って、妻が流した涙をためたものといわれていますが、どう考えても涙が壺いっぱいにたまるとは信じられません。中に塩水を入れて、私はこんなに貴方のことを思って泣いていましたと表現したものかも…。

 
  [ローマングラス]
 ここにある三個のガラス壺は、30年前シリアのアレッポの骨董屋の自宅におしかけて購入した物。
 両端にある2個の表面の白い部分はガラスの銀化したところで、実物はもっと美しい。
 5,6年ほどまえ前、「開運なんでも鑑定団」の岩崎さんに鑑定していただいたところ、残念ながらレプリカとのこと。
 ただし、単なる偽物ではなくて1920年代に正式にレプリカとして作られた物でけっこう高額になっているとのことでした。
 あと15年ほど経てば作られて100年、立派な骨董品です?






 左側の壷は、最近手に入れた物。

 本物かどうかは不明。
 写真写りはいいが、実物にはあまりオーラを感じない。











  
【水差しの取っ手】

 左と下の曲がったガラス棒は、紀元前後の壷や水差しからはずれてしまった取っ手。
 ローマングラスの完品が高価で買えない、私のような人が本体の代わりに買う物、ガラスの破片と共に結構収集している人が多い。






















  
【化粧皿】

 左の小皿は、紀元前後の化粧品を入れたと思われる直径5センチほどの皿。
 全体が銀化している。
 (左が表、右が裏側)







  
 〈銀化現象〉
 地中に埋まったガラスは長い年月の間に土の成分と同化作用を起します。多くのものが虹色の上に白っぽい銀色の薄い膜で覆われていますので、日本ではこの現象を銀化現象と呼んでいます。また、中国の鉛ガラスよりソーダガラスのローマングラスの方がこの現象を起すことが多いようです。


   

  【ガラス博物館】


 イランのテヘランにあるガラスの博物館

  膨大な数の小物の瓶類は、上のような格子状の場所にまとめて保管展示していました。

   上左側は、コアグラス製の香油入れ、右の二つがガラス製のネックレス。紀元前から作られています。

  左側の器と同じ物製法で作られた物が、日本の正倉院宝物の中にあり[白瑠璃碗]といいます。日本に残っている器は、上の写真のように銀化はしていなく、淡褐色を帯びた透明な状態のままです。イラン・ギラーン州で多く出土していますから、日本のものはここからシルクロードを通って日本にもたらされたものといわれています。

  上の写真は、水差し。左側のものも正倉院宝物にある[白瑠璃瓶]に形が似ています。
宝物は、淡緑色を帯びた透明なガラス器。


 ここにあるガラス器のうち、左の写真だけは、テヘランの考古学博物館で写した写真です。

 今から25年も前の話ですが、古代ガラスのバイヤーと一緒になるなる機会があって、エジプト製コアグラスの名品時価数千万というものを見せてもらいました。
 さすがに、数千年の時の流れを経てきただけに素晴らしいものでした。国外持ち出しが出来ないため、現地の博物館の職員にコピーであるとの証明書を書いて持ち出すと手の内を話してくれました。








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