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            ピ ラ ミ ッ ド・
城 塞

           ここで取り上げるピラミッドの定義としては、石や煉瓦で造られた神殿・墳墓などの巨大建造物とします。
           ピラミッドも初期の物は階段状で、クフ王のピラミッドも底辺が正方形でなく北側中央部は両角より94a引っ込んでいる。



 【中東・アジアのピラミッド】



 【ピラミッド】 左の写真、お馴染みのエジプト第4王朝(前2600年頃)クフ王のピラミッドとされている。
  底辺は230.5×230.5m、傾斜角は51°52’、高さ137m(設計では147m)、石組みの段数201(建築時215〜220段)段、平均2.5トンの石が約270万個(計算により差あり)使われている。

 【ウルのピラッミッド】
 真ん中の写真、イラク南部、シュメール時代ウルの王ウル・ナンム(前2100年頃)により築かれたジグラット、煉瓦造りで3層の基底部の上にウルの守護神ナンナ神殿がありました。
  旧約聖書のバベルの塔の発想もこのへんとつながりがあると思われます。またウルはイスラエル民族の始祖であるアブラハムの故郷で、現地には住んでいた場所もあります。

 【ボロブドゥール】 右の写真、インドネシアのジャワ島にある仏教遺跡。
  9世紀、仏教系のシャイレンドラ朝によって築かれました。かっては高さ42b有ったが現在は34b。基本構造は、方形や円形の壇を重ねてできたピラミッド形で、一番下の部分は115b四方の隠れた基壇。建築には安山岩や凝灰岩が使用されている。
  寺院とは違い建造物そのものが仏教的世界観をあらわしている。上部の円壇には釣り鐘形のストゥーパが72基あり内部に仏像が安置されている。格段の壁面には釈迦の伝記の壁画が彫られています。 


 
 【マヤ、アステカのピラッミッド】

  【テオティワカン】
 メキシコ市北東40キロにある中米古典期の大規模な宗教都市遺跡。紀元前2世紀頃から建造され7世紀頃火災によって滅びたと云われています。下左写真は一番大きな[太陽のピラミッド]から撮ったもので,死者の大通りの右に月のピラミットが見えます。中と右の写真は太陽のピラミットで高さ65メートル、底辺の一変が225メートル、積み上げてある日干し煉瓦の数1億万個、その規模の大きさはエジプトのピラミッドに負けてはいません。


   【パレンケ】
 メキシコ、マヤ古典期の大宗教センター。この遺跡はチアパス州の外れのジャングルの中にあります。穏やかでとても美しい遺跡で、私の大好きな遺跡の一つす。
 写真左側が「パレンケの宮殿」、右の写真が「碑銘の神殿」とその内部。
 1952年,右の神殿の地下から有名な翡翠の仮面をつけた王墓が発見されました(右の写真)。 神殿最上階の建物に地下に降りる階段があります。王墓の石棺の蓋の彫られている絵が宇宙飛行士のような図案だったため一躍有名になりました。最近、右隣の神殿からも紅色の石棺に埋葬された女王が発見されたと聞きました。


   【ウシュマル】
 メキシコ、マヤ古典期の大宗教センター。遺跡の入り口に建つと「魔法使いのピラミッド」と呼ばれるまるっこい形の神秘的な建造物がある。私の知っているピラミッドの中で最も美しいと思うもの。
 この遺跡は南北1キロ,東西600メートルの範囲に,地形の起伏を利用したいくつかののグループに分けて建物が散在します。
 一般的にマヤの遺跡の階段は急勾配の物が多い、このピラミッドも例外でなく、補助の紐の助けを借りなければ降りることはとても難しい





【日本のピラミッド


 
    【神戸五色塚古墳】
 神戸市垂水区にある古墳で別名 千壷古墳という。4世紀末から5世紀はじめに造られた前方後円墳。
 名前の由来は古墳時代に淡路の五色浜付近から運んで葺かれたので「五色塚古墳」と呼ばれるようになったと言われている。また一説には、古墳の形態が、炊飯用の甑(こしき)に似ているので、「こしき」が「ごしき」になまって名づけられたとも言われてます。
 この古墳は全長194m、前方部の幅81m 高さ11.5m、後円部の直径125m 高さ18m。墳丘は三段に築かれている。周囲には巾10mの堀をめぐらして、表面にはたくさんの葺石が葺(ふ)かれている。小石の総数は223万個あまり(7トン積みのトラック400台分)
 この古墳を訪れたときその造形の美しさに感動しました。日本中にある他の古墳も、できたときはどんな状態だったのでしょう。

      《 城 塞 編 》

〈中近東〉

左側の写真は城壁から内部方向を見たもの。
   【バビロン】
 
 イラク、バビロニアの首都(BC2000〜BC539)、ペルシャのキュウロス大王に滅ぼされるまで続く。
 ハンムラビ法典のハンムラビ王、空中庭園で有名なネブガドネザル二世もここの王。
 都市は二重の城壁に囲まれ、中央をユーフラテス川が流れていた。復元されたイシュタルの門を通り中庭を抜けると行列道路にぶつかる、右の道路上の黒い物は4000年前のアスファルト。

 左側の写真は道路側城壁から内部方向を見たもの。


   【マサダ】
 イスラエルの死海西岸にある高さ300mの孤立した岩山に建てられた、ユダヤ人の堅固な城砦。
 前30年頃ヘロデ大王は東西300m、南北600mの菱形丘頂全域を角面堡式城壁で囲み37基の櫓でこれを固めた、宮殿、居住施設、浴室などを建て倉庫には千人の食料を備蓄した。、


 後70年エルサレムが陥落後も3年にもわたり、ローマ軍の包囲に耐えたユダヤ最後の拠点。しかし、73年立て籠もっていた婦人子供を加えた960人は全員自害して果てた。


 上の写真、左が死海から見た全景、空に見える2本の線はケーブルカーのケーブル。真ん中は最上部にある建物。上右側は北側につき出ているテラス、壁の下や柱の下に彩色模様が残っている。
 下左は、ここの住人の飲み水をためた貯水槽。右の写真はモザイク画。ここには浴槽がありモザイク画や壁の色彩模様が沢山ありました。




   【アレッポ城】
 シリアの北にあるアレッポは、世界最古の都市の一つで、古くから東西交易の中継地として栄えたところ。 巨大なアレッポ城が建つ小高い丘は、もとヒッタイトの神殿があった場所。
 12世紀十字軍との戦いが始まるとアレッポは守りの拠点としての重要性が増し、城の周囲2.5kは深さ20m以上の掘りが巡らされた。
 その後モンゴルやティムール軍の侵略により2度破壊されて現在の姿になった。



【バム】
 イランにある「死の町」バムは2000年も前からあったが、城塞の建築が始まったのは9世紀で、大部分が建築されたのがサファヴィー朝(1502〜1736)時代。
 周囲3qの土塀で囲まれた約26万uの城塞は、現存する粘土建築としては世界でも稀な大規模な建造物群。
 すべてが日干し粘土色のモノトーンのためこの街独特の迫力がある。この城塞が放棄されたのはシラーズ軍に攻撃された1810年といわれる。
 2003年12月26日、イラン・バムの大地震でこの遺跡の80%が崩壊したといわれています。この城塞は無人ですが、この周囲に住んでいた住民が4万人もなくなられました、何ともやりきれない気持ちです。
 ここでは、崩壊前の写真を何枚か増やして展示しました。

 左の写真が、城塞の外壁入り口。
 右が城塞外壁から見た内部中央。



 下左の2枚が、内部中央部。右の1枚が、中央の塔の上部から街を見下ろした風景。



〈中央アジア〉

   【ヒヴァ】 中央アジアの真珠
 ウズベキスタンのアムダリヤ川下流のデルタ地帯に広がるホレズム地方は5000〜6000年前から人間が住み始めたといわれています。
 ヒヴァの町は「ディシャン・カラ」(外城)と呼ばれる新市街と「イチャン・カラ」(内城)の旧市街に分けられる。かっては外城に、農耕者、手工業者、隊商などの庶民が住み、内城は高さ8m、長さ2.2kの城壁に囲まれ、汗の宮殿、ハーレム、モスク、メドレセが集まっていた。写真は内城西門とその内部。

  【キズ・カラ】 
 トルクメニスタンのメルブにある、6〜7世紀に建てられた城。手前が「大キズ・カラ」高さは20m、かっては2階建てで屋根があり威容を誇った城。
 左側にある小さいのが「小キズ・カラ」、以前NHKのシルクロードで、あと数年で崩壊と聞いて見るのをあきらめていた遺跡。
 メルブはペルシャなど西アジアを結ぶ交易の拠点で、最盛期には100万人近くの市民が暮らしていたが、1221年モンゴル軍によって徹底的に破壊され住民は皆殺しとなった。
 1962年この地から仏像と壺に入った教典が発見され、世界最西端の仏教遺跡としても有名なところ。
アレクサンダー大王の駐屯場所跡もあります。



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