森敦略年譜(1960-1979)

1960年(昭和35年)48歳

 9月30日、電源開発を退職。3年4か月の在職。10月、新潟県西蒲原郡弥彦村字弥彦大石原に妻と一緒に転居。11月頃、電源開発勤務の頃に「新潮」から原稿依頼のあった小説「尾鷲にて」の執筆に没頭したが未完。

1962年(昭和37年)50歳

 4月、庄内の大山町(現、鶴岡市)馬町の山本清美方に移る。妻は実家に寄留。

1964年(昭和39年)52歳

 11月、「立像」の主宰者、桂英澄の勧めを受け、「近代工場」(『意味の変容』「死者の眼」先駆稿)を「立像」に発表。その後続けて「立像」に四作品を発表。

1965年(昭和40年)53歳

 1月、東京都府中市清水が丘に妻と一緒に住む。2月、千代田出版印刷(のち近代印刷に社名変更)に入社。昭和58年7月退社まで18年5か月在職。

1966年(昭和41年)54歳

 12月、東京都調布市下石原の杉荘に妻と一緒に転居。

1968年(昭和43年)56歳

 1月、檀一雄編集の季刊文芸誌「ポリタイア」創刊号発行。真鍋呉夫、世耕政隆ら(のち森敦も)が参加。檀の激励を受け、「ポリタイア」に「天上の眺め」など小説ほか六作品を発表。5月、義母・前田よし(76歳)死去。

1969年(昭和44年)57歳

 3月、「新潮」から原稿依頼を受けて、「題未定」(「月山」先駆稿)を執筆、未完。

1970年(昭和45年)58歳

 12月、妻が入院。

1971年(昭和46年)59歳

 4月、東京都調布市下布田町(現、布田)のやよい荘に転居。昭和51年まで住む。8月、「光陰」を同人誌「茫」に発表。

1973年(昭和48年)61歳

 7月、「月山」を「季刊芸術」に発表。

1974年(昭和49年)62歳

 1月、「天沼」を「文芸」に発表。同月、「月山」で第70回芥川賞受賞。2月15日~7月26日、「文壇意外史」を「週刊朝日」に連載。3月、「初真桑」を「文学界」に、「鴎」を「文芸」に、「かての花」を「群像」に発表。同月、『月山』(河出書房新社)刊。四月、NHKテレピ「ビッグショー」の対談コーナーにレギュラー出演。以後10年ほど多くのテレビ、ラジオ出演が続く。5月、対談「森敦の問答縦横」を「サンデー毎日」に連載開始。昭和51年まで100回連載。同月、文化放送の人生相談にレギュラー出演。昭和53年まで出演。同月、『鳥海山』(河出書房新社)刊。7月、佐藤富子と養子縁組をする。9月、「弥助」を「文芸」に発表。10月~昭和50年2月、「意味の変容」(『意味の変容』先駆稿)を「群像」に連載。11月、『文壇意外史』〈のち『星霜移り人は去る-わが青春放浪-』に改題〉(朝日新聞社)刊。

1975年(昭和50年)63歳

 4月、妻・暘(57歳)死去。5月~昭和51年12月、「私家版 聊齋志異」を「潮」に連載。9月、「文学界」で文芸対談を行う。昭和五六年まで随時、文芸雑誌で文芸対談をする。11月、「組曲・月山」(森敦文章、新井満作曲・歌唱)を発表、昭和51年にLP、昭和63年にCDとなる。

1976年(昭和51年)64歳

 1月、檀一雄死去。

1977年(昭和52年)65歳

 1月、東京都新宿区市谷田町に転居、死去するまで住む。

1978年(昭和53年)66歳

 9月16日~10月7日、慢性肝障害のため東京厚生年金病院に入院。

1979年(昭和54年)67歳

 3月、『私家版 聊齋志異』(潮出版社)刊。10月、映画「月山」(村野鐵太郎監督、高山由紀子脚本)を岩波ホールで上映。同月、『月山・鳥海山』(文春文庫)刊。11月、『星霜移り人は去る-わが青春放浪-』(角川文庫)刊。

(文章:森敦資料館ホームページ http://www.mori-atsushi.jp/ 「森敦略年譜」より)

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