1月22日、長崎市銀屋町で誕生したが、戸籍上の生まれは、熊本県天草郡富岡町(現、苓北町)2715番地。敦(あつし)の名は、父が「徳を敦うせざれば危うし」ということから命名。父・茂(1861~1930)は雲耶山人と号した書家。母・静野(1882~1957)は結婚前、日赤の従軍看護婦。異母兄(長男・競、次男・静)2人、弟(四男・碩)1人の4人兄弟の3男。
この頃、朝鮮の京城に渡り、大和町に住み、黄金町へと転居。塾に通って『論語』の素読を習う。10月、弟・碩が誕生。
4月、京城府公立鍾路尋常小学校入学。翌年頃、京城府旭町に転居。
この頃(小学校6年生頃)、病気休学。
3月、1年遅れて京城府公立鍾路尋常小学校卒業。4月、京城公立中学校入学。数学が好きで打ち込み、柔道に熱中し、弁論を得意として政治家を志すが、古今東西の思想書や文学全集を耽読し、校友会誌に詩や小説を発表。同級に井上裕や小笠原長寛らがいた。先輩の中島敦に旧制高校受験の相談の手紙を出す。3年生、4年生のとき組長をする。
1月3日、父・茂(69歳)死去。3月、京城公立中学校卒業。旧制第一高等学校の受験に失敗。9月、京城日報社での文芸講演会に行き、講演後の交歓会で講師の菊池寛、横光利一らと話す機会を得、父の死もあって文学に傾斜する。夏冬の休みに上京して予備校の模擬試験を受ける。
4月、旧制第一高等学校文科甲類に入学。同級に太田克己、北川悌二ら、一年上に杉浦明平らがいた。この頃から、横光利一に師事。この時期、ジェイムズ・ジョイス、プルースト、ボードレール、ランボー、アンドレ・ジッドなどに心酔。この頃、母と弟が京城を引き払い、3年後に移して本籍とした東京市世田谷区北沢4丁目385番地に住む。
1月、「酉の日」を「校友会雑誌」に発表。2月、考へ方研究社主催の日土講習会第三四回出発式茶話会で、5分間演説をする。3月、旧制一高を退学。7月、本籍地の熊本県天草で徴兵検査を受けたが、徴集延期となる。
2月、本籍を東京市世田谷区北沢4丁目385番地に移す。3月、横光利一の推輓で「酩酊船」を「東京日日新聞」「大阪毎日新聞」に断続的に連載。この頃、北川冬彦、檀一雄、太宰治らを知る。12月、同人誌「青い花」創刊号発行。太宰、檀らとともに同人となる。この年、長野県松本市に移住。
7月、奈良東大寺に移る。兵本善矩を介して知った、上司海雲の住む塔頭勧進所に寄寓。東大寺戒壇院で行われた、松原恭譲の「華厳経五教章」の講義を聴聞する。この頃、東大寺近くの天満町に住む奈良女高師附属高女に通う前田暘と将来を約束する。
東大寺近くの瑜伽山の山荘に移る。この頃、叔母・細川武子から家購入のためにと貰った大金4千円を資金に、山荘を拠点にして捕鯨船などの漁船に乗ったり、樺太に渡って北方民族と生活したりする。
この頃、北川冬彦を介して鎌原正巳を知る。北川、鎌原の勧めで、小説、評論を書く。
4月、横光、川端康成らと『田舎教師』の舞台、埼玉県熊谷、行田、羽生を旅し、羽生明太郎のペンネームが生まれた。
4月、羽生明太郎の筆名で「朝鮮人参奇譚〈前篇〉」を「シナリオ研究」に発表。この年、婚約者の前田暘とその母が滞していた山形県酒田市を訪ね、吹浦の海岸へ行く。この初めての庄内行で、吹浦のすばらしい夕焼け、月山、鳥海山を知る。
(文章:森敦資料館ホームページ http://www.mori-atsushi.jp/ 「森敦略年譜」より)
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