婚約者の前田暘とその母が滞していた山形県酒田市を訪ね、吹浦の海岸へ行く。
妻の里を訪ねることが多くなり、横光一家が疎開したゆかりの地、西目などへも行く。庄内を一人で転々とする生活が続く。湯野浜の新湯に滞在した後、加茂に間借りし、大山に移って間借りする。柳原の農家に住み込んだり、秋田県小砂川や象潟にも行ったりする。
山形県東田川郡東村(現、鶴岡市)大字大網字七五三掛の注連寺に行き、翌年の初夏まで滞在。一時、帰京するが、再び庄内を一人で転々とする。
東京を去って庄内に移り、一人で狩川から吉ヶ沢、湯野浜温泉に滞在。4月、遊佐町大字吹浦字布倉に妻と一緒に住む。11月、酒田市下内匠町に妻と一緒に転居、昭和32年3月頃まで住む。
4月、庄内の大山町(現、鶴岡市)馬町の山本清美方に移る。
(文章:森敦資料館ホームページ http://www.mori-atsushi.jp/ 「森敦略年譜」より)
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