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小さなアイヌ語教室 モシ

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■ アイヌ語花開く未来 ■

アイヌ語の死滅と再生

動物にも植物にも絶滅危惧種といわれるものがあります。
同様に、言語の世界では危機に瀕する言語(危機言語)という言葉があります。
このままでは文化の根源である言葉が死滅するという状況にある言語たちです。
「我が」アイヌ語も、そう呼ばれる言語の一つとみなされています。

アイヌ語は、話すこと・語ることを本質とした言語でした。
書くこと・記録することがごく新しい便宜的な手段として生まれた以上、話す・語るということによりアイヌの世界を体得する話者の存在はとても大きな意味を持つのです。

日本や日本人による差別と同化の姿勢の中で、アイヌの家庭の中でもアイヌ語を話すことが子供たちの将来のためにならないとされ、アイヌ語は日陰に追いやられてしまった言語としての歴史を負うことになります。
結果として、その先に待つもの。
一人の話者(英語で言う native speaker)の生命のともしびが消えるたびにアイヌ語の語彙は確実にやせ衰え……。
優れた話者ですら、親から聞いた言葉を記憶の底から手繰り寄せることはできたとしても、そこに多くの意味不明の言葉の存在を確認することになるのです。

いまや、過去の豊かなアイヌ(語)の世界を「再現する」ことは、文字通りの意味では明らかに不可能です。
多くの方々の、アイヌ語を忘却と死滅の淵から救い出す努力=主に、《アイヌ語の復興(発掘と整理)・話者の復活の努力》にもかかわらず、です。

         言葉が死ぬとき、精神も失われる。

とすれば、《復興》された既存のアイヌ語の体系と(そこから得られる)精神を大切にしながら、さらに新しい歩みを開始しなければならないのではないかと思います。
その際、最も留意する点は、過去に根ざしつつも現在と未来に開かれた言語に脱皮する必要性だと感じます。
現在までの《アイヌ語の復興と復活の努力》では十分に達成されていない点であり、そうした視点からの言語の変革を計らないと、過去の文化遺産としてのアイヌ語は存在するが、結果として死滅同然の言語として存在を許されているに過ぎず、本当の意味の《復活》=再(び)生(命力を持って生きる)にはならないと考えます。

以上の視点から思いつくこととしては、例えば、
        @共通語への目配り…… aynu による aynu のための共通語
        A単語・語彙、表現の拡充・創造
            ※旭川市の大学やアイヌ語教室で行われている試みは面白いと思います
        B…………
等々があります。

私個人としては、まず aynu itak を習得することが課題ですが、さらに、それが精神を伴った言語としてのa=kor itak に育つこと・育てることを願っています。それが個人のレベルで「aynu=人間」としての私とアイヌ語とを死滅から再生へつなげる道になりそうな気がするからです。

小さなアイヌ語教室