福井県大野市の南に位置し、かって西谷村と境をする あたりに下若生子集落がありました。現在は真名川ダム 湖底に沈み、今の道からすると黄金に輝く真名姫像の下 あたりが下若生子になります。 炭俵を担いでいる写真はそこに住んでいたおばあさんか ら見せていただいたものです。元気な頃は3俵(45kg)を 担ぎ、モッカ平の奥まで往復6時間も歩いたそうです。 |
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下若生子にはののき・おもて・むかいと3班に分かれて いました |
上若生子には40数軒の家がありました。そのうち8割ぐら いの家では何らかの形で紙作りに関係していたそうです。 集落の下手には湧き水を利用した共同作業場があり、紙 原料の汚れをとって各家庭に持ち帰り漉いたそうです。 学校での100mタイムレース、運動場では狭くてできず 横にあった道路を利用してタイム測定をしたそうです。 |
この写真はS40水害後に写されたものです。又、下記の 地図のなかに薪棚(はるきだな)があります。これは村 人がたきもんを川原に積み上げておいたもので、川原の 材木や、上流から木を切って川に流し、拾い上げた木を 積み上げた場所です。 | |
上笹俣は往古、大佐々ノ命の御名代をとって名が付け られたという。下笹俣は分区である。時代ははっきりし ていないが、土井候以前であるようだ。 |
上笹又には37戸が水害前にはあったのだが,ここも川沿い の家が水害でかなり流されてしまいました。以前、中心地の 中島から地の利もよくて栄へ、神社には88段もの階段があ りました。べっちょが当番の家で夜どうし踊られていました。 |
中島は西谷村の中心地であって役場や学校はもちろんの こと、商店や旅館,散髪屋、そしてよく耳にするタクシー などもあった。笹生川ダムや雲川ダムの工事中には村の 下手にバイパスも造られて、多くの人で賑わっていたそ うです。 |
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くろとうどを村の人はくろっとと呼んでいました。集落の 万霊碑はおこ山の上に佇んでいます。馬車引きがどの村 でも一軒はあったといいます。荷物などは次の集落まで の受け渡しで、今の運送業と言っていました。 |
この集落の子供は小沢の学校まで通学していました。冬期 は道場を分校にして学んだそうです。先生は空き家に下宿 していました。 |
平成17年8月の旧盆に笹生川ダム建設に伴い、移住した 集落 本戸 小沢 下秋生上秋生 110戸が一同に集い 大野で50周年の懇親会が催されました。たくさんの懐か しい写真などが 会場を彩り和気あいあいと思い出話に 花をさかせていました。来賓者などにはこの4集落の地図 と上秋生にあった大和製材所の見取り図も添付して配布 しました。さるお岩が集落の下手の川沿いにあって絶壁と なっていた。壁下には地蔵さんもあった。明治10年生の祖 父さんの話によれば昔は岩の上を米俵を担いで歩いた. |
学校の運営費にと児童たちは夏休みに薬草ゲンノショウコ を採って、きれいに干したあと持って行きました。家族も 手伝います。学校では、それをまとめて大野市内の薬草問 屋へ売りました。上秋生では長井賢太郎、下秋生では奥島 ミドリの2軒だけが萱葺きの家で残りはくれぶきの屋根で あった。村人の仕事で多いのが炭焼きとお百姓さん、それ から山師,鉱夫で他に養蚕、大工、製材所、馬車引き、お うれん、先生などの仕事で生計をたてていたそうです。 |
巣原は大きな集落です。ここの学校は本校で温見などは ここの分校でした。道場は廃村になる少し前、別の場所 に建て替えられました。地図では住民の思いで深い前の 場所に書き入れました |
昔は上野に12軒あったそうです。13軒になると村が絶え ると言い伝えがあるそうです。 |
熊河(くまのこ)には養休寺というお寺があった。38年豪雪 の年にタイミングよく、大野市内の篠座に移転を済ませた 温見の金山が栄えていたのは永禄年間(1558ー1569) で、温見から熊河まで家が連なったといわれている。 |
温見の語源はアイヌ語からとされているが、古文書では 奥池田温湯と記されている。往時より湯が湧き出ると言 い伝えられている。温湯が温見に変化したものだろう。 老人に尋ねると,湯の沸いていた場所は温見川にあった そうだ。ここには温見断層が走っている。 |
清流に生息しているアジメドジョウは泥臭さもなくて美味で ある。盛夏に九頭竜川上流をもぐってみると川底を這いつ くばるように泳ぐ姿が眺められます。 |
アジメを捕まえるにはまずもって入札に参加して許可 をもらう事、そしてからいろいろな仕掛けを作って川 に置きます。いろいろな方法を各自が独自に作ってい ます。仕掛けが大雨で流されることもしばしばありま すのでこまめに巡回する必要があります。 |
この写真は温見峠にある地蔵さんである。鉄骨の骨組み が錆びてきたので色を塗っている温見の坂本さん夫妻で す。この国道157号が峠に通じる以前、山道は谷川に 沿ってありましたが国道が出来てからは、祠は反対の西 、 向きに変へ,位置も西へ数mずらして建て直したそうです 祠には寄付をした連名が刻まれた表札が2枚残っていま した。 17.7月 |
蝿帽子11面観世音菩薩は岐阜と福井県大野市をまたぐ 蝿帽子峠道の途中に祀られていました。縁起帳が残って いまして、それによれば明治初年頃、美濃の呉服商人 湧新が「越美国境蝿帽子峠は人里より4里も離れた山道 にして、冬は積雪丈余を越え、夏は深山の静寂、旅人の 寂寥、不気味を誘って行く手を阻む」との観音のお告げ により秋生よりの西ケ麓地籍に祭祀されたものである |
左の{コースキ}は雪下ろしに使う道具です。ところに よってばんば、ばんばこ、こすきなどさまざまです。 おもにぶなの木が使われています。山中で見つけた太い ブナの幹によき(まさかり)をコースキの長さで叩きいれ 幹の一部をはがし取り、目の通った木を倒します。当時 山には傷のついたブナが幾本も目に付いたそうです。 このコースキには表に縦縞 裏に斜めの溝が彫りつけられ ています。相当以前に温見で使われたもので、投げる時 横に雪がずれるために溝を彫ったものと思われます。 |