大野の山里2
五箇村と周辺の集落
打波の集落や九頭竜川沿いの村、宝慶寺、御所が原
東勝原地図 下打波地図
寺月峠道は阪谷方面と結ぶ重要な通路で勝原に高等科
が無かったころは通学路であり、住民たちは峠越えをし
て、子供たちに高等科・補習科に学ばせています。
阪谷と五箇とは組合役場として行政が行われていて
西勝原に役場が出来るまでは、伏石まで足を運んだ
のでした。
下打波には規定誌があって、8ケ条の決まりがあります。
第5条には村の共有林では伐ってはいけない樹木が決め
られています。五重木(ごちょうぼく)といって5種類の木が
指定されてます。クリ、トチ、ケヤキ、ホウ、カツラの木で
それらは薪を採りに山に入っても、伐ってはいけないそう
です。
下打波地図 嵐地図
集落の中心にあるのは村のシンボルでもある大カツラで
ある。全国でも3番目に大きいカツラで県内の樹木の中
では最大である。幹周りは13mで泰澄大師(西暦712年)
が植えたとされている。雪解けが始まると集落に戻って
仕事に励むお年寄りの姿が見受けられ、トチ餅は隠れた
村の産物である。
桃木峠の登り口にある集落で、この峠を利用して多くの人
々が上打波と阪谷さらに大野市街地とを行き来しました。
峠の大杉は大野盆地からもよく見えます。ここの分校の児
童は夏場、山越えて隣の木野集落の小学校まで毎日30分以
上かけ歩いたそうです。嵐カブラはこの地だけで栽培され
てきた伝統野菜で漬物は、山里の寒さの中で寝かせていて
非常においしいものです.
木野地図 桜久保地図
ここは上打波の中心地でさらに五箇地区全体の中心地で
もありました。最もにぎわったのは昭和30年ごろ上打波
発電所が建設されていたときのようで、飲み屋まであり
ました。現在、冬は誰もいなくなり、道路は雪に閉ざさ
れて入ることすら難しい場所ですが、雪解けとともにオ
ウレン栽培や山仕事などに、大野の町から通っています。
昭和26年に子供の火遊びから起きた火事は1軒を残して燃
えてしまいました。地図はそれ以前の集落の様子です。隣
の木野と集落の活動は同じにしています。昔より有名な寒
水石は葉や枝などすべてを石灰の含んだ水が石と変化させ
る、全国でも数箇所しかない珍しいもので、市の天然記念
物に指定されていて、県道から眺めることができます。
中村地図 中洞地図
打波川に架かる前川橋を渡ると中村の集落になる。ここ
にもたくさんの人がいましたが、過疎が進むのは昭和30
年中ごろからある村人は医者がいないからと離れていき
ました。明治28.29年に襲った大水害は打波全体に大きな
被害をおよぼし、ちょうど国の北海道開拓の政策とも重
なり、このときにたくさんの人が北海道に移住しました
ので、今でも親戚の誰かが北海道にいるという人がほと
んどです。
全員、今ではこの地を離れ大野町に住んでいますが、そ
れでも毎月のように各家持ち回りで、お経さんなどをあ
げています。集落には畑が残り耕す老人もいます。裏山
はなだれ防止のためぶなの天然林が残っていて最近では
めずらしくなってきました。上赤谷とミノ又谷に挟まれ
た高台に位置する集落は、意外とわかりずらく、その反
面今でも趣が色濃く残るところです。
小池地図 仏原地図
最も奥にあたる集落で遅くまで学校の建物だけは作業員の
寄宿舎として残っていました。ここは石川県白峰とのつな
がりが強く集落の人のお寺はすべて白峰にあり、杉峠を行
き来していました。刈込池や三の峰の登山口にあたり、管
理人も常駐しています。ススタケのカンズメなどを作り
特産化をめざしたこともありましたが、昭和36年8月の美
濃大地震によって去っていきました。
仏原ダムで水没した集落ですがここの集落はダム建設で
保証金を貰い、無くなったのではありません。昭和30年
後半九頭竜ダム工事がはじまり途中の集落であるこのあ
たりは取り残されるとの危惧から話し合いの結果、地元
議員の仲立ちで木の本開拓地へ移り住みました。そこに
榎が生えていたので,集落名を榎と命名したそうです。
湯上地図 葛ケ原地図
国道沿いにある集落で、九頭竜川に面していた。仏原ダム
が出来道路も左岸に変わりましたが、法仙壁付近はなだれ
が多発しトンネル跡が見受けられます。バスも通っていた
当時の道で、ダムのえん堤付近は高く、急なのぼり坂にな
っていました。穴馬との街道筋にたたずんでいた小さな集
落で下打波地区に属してました。
村を去るとき、不要なものを周囲の空き地で燃やしていた
とき、その火の粉が飛び移り家が燃えてしまいました。村
人から、その茅葺の写真を見ながら話を聞いていると、そ
こには、時代の流れで移り住んでいった人の心がひしひし
と伝わってきます。冬場だけなだれを避けこの村を通る道
があったそうです。
御所ケ原地図 宝慶寺地図
経ケ岳の登山道でもあった高地林道の脇、高台に4軒の家
がありました。ここが御所ケ原で南六呂師集落の一部でし
た。林道脇を流れる唐谷川からこの集落へ水路を引き、水
力発電を行っていました。南六呂師はもとより、阪谷地区
全体の電力をここで賄う計画もあったそうです。
永平寺第二道場としても有名な宝慶寺はここのシンボルで
す。ここに通じる参道の脇には大きな杉の木立があり、人
も少なく静まり返っている。学校はこの入口にあった。最
後の生徒2名になったとき学校としては残って欲しいと親
に頼みましたが、友人がすべて町に出てしまい、廃校にな
ってしまいました。寺以外、現在住民は住んでいません。

現在の面谷

面谷鉱山のお話
面谷鉱山の発見時期は二つの説があり、その一つに康永年間(1352年-1345年)に清兵衛という猟師が山頂
で露出銅を発見したといわれている。面谷鉱山の全盛時代は、三菱合資会社が経営をしていた明治22年か
ら大正6年までであった。最盛期には600戸、3000人が住んでいたが、大正11年6月には全部の操業を中止
したのであった。ここは第一次世界大戦が始まると著しく発展したが、それが終わるとともに、日本の工
業製品は海外に売れなくなり、不景気となって銅の価格が大幅に下落してしまった。採算不能のため数百
年にわたって続いた面谷鉱山は閉山した。また同じころの大正7年10月も末になって、インフルエンザ
が大流行した。当時、面谷の人口は1000人程度でインフルエンザの死者は90余名におよび、1割ほ
どの人口を失ってしまった。このインフルエンザの大流行が終了をつげる大正8年ごろから面谷は日を追
うごとに人が減り、終焉となるのである。
                              
勝原古地図・荒島岳からの俯瞰図

あらたに見つかった勝原の地図
         中央右下、城ノ山と九頭竜川

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