ーヒット・ノーラン(完全試合含む)というと、そうは滅多に出ないと思われているかも知れない。
確かに多くはないが、そう少ないわけでもないのだ。1リーグ時代にのべ21回17人2リーグ時代
    で、セントラルのべ33回30人パシフィックのべ26回26人もいる。

     まずは1リーグ時代から見て行こう。
     第一号は誰か。言うまでもなく沢村栄治投手(巨人)である。ついでに言うと、第二号も沢村なのだ。
    2回ともタイガース相手に達成しているのだが、タイガースはよほどくやしかったらしく、打撃練習で、
    バッティング投手にプレートより1メートル手前で投げさせて、沢村の速球に慣れようとした。これは後年、
    よく漫画のネタにもなりましたね。なお沢村は都合3回ノーヒット・ノーランをやっている
     過去2回は持ち味のストレートを活かしたものだったが、3度になった昭和15(1940)年7月6日の
    ゲームでは、往年の速球は影を潜め、新たに憶えたシュートを駆使しての技巧派投球だったらしい。

     実は、沢村以外にも2回達成した投手が2人いる。中尾輝三(巨人)亀田忠(イーグルス)だ。
    このふたり、中尾は左腕の上手投げだし、亀田は右のアンダースロー。違うタイプに見えるが、実は
    よく似た特徴を持っていた。速いタマを投げるがノーコンだ、という点である。
     中尾は昭和14(1939)11月3日のセネタース戦で最初のノーヒット・ノーランを記録しているが、この
    時に与えた四球がなんと10個。2回目の昭和16(1941)年7月16日の名古屋戦でも8個の四球を
    出している。
     一方の亀田も、昭和15(1940)年3月18日の対ライオン戦で最初に達成しているが、この時に9つ
    もの四球を出しているのである。亀田は、文字通りの「三振か四球か」の投手で、3連続四球で無死満塁
    というピンチを、後続の打者を3者連続三振に切ってとるというきわどいことを何度かやってのけている。

     中尾は、もちろんノーヒット・ノーラン2回の記録保持者なのであるが、もしかすると(というか、普通で
    あれば)2回とも記録にはなっていなかったはずなのだ。どういうことかというと、2試合とも、9回2死か
    らライト前に打球を飛ばされているからだ。じゃあなぜノーヒット・ノーランになったかというと、当時、巨人
    のライトを守っていたのが強肩豪打で鳴らした中島治康だったからである。中島は、ライト前でバウンド
    した打球を処理すると、2度とも二塁へ矢のような送球を送り、一塁走者を殺している。つまり、ライトゴロ
    にしているのである。

     なお、1リーグ時代には完全試合は出ていない。

     次に2リーグ以降を見てみよう。
    2リーグに別れたのは昭和25(1950)年だが、第一号はいきなりこの年に出ている。しかも日本で初
    めての完全試合でもあった。達成したのは藤本英雄(巨人)で、6月28日の対西日本戦のことだ。
     実は藤本は、この試合は登板予定がなかった。だからのほほんとベンチに入っていたのだが、先発
    予定だった中尾輝三が急病で、急遽お鉢が回ってきた。そんな状態だからコンディションの良いはず
    もない。だから、初回先頭打者に対し、いきなりカウント0−3にしてしまった。こりゃ今日はダメだ、と
    開き直ったのが良かったのか、続く3球ともにストライクを奪い、トップの平井を三振に切って取った。
    これで調子に乗った。
     この後は、得意のスライダーを駆使してパイレーツ打線を翻弄、あっというまに9回まで来てしまう。
    簡単に2死を取られると、西日本は最後の抵抗として、監督の小島利男自らが代打を買って出たもの
    の、結局カウント2−2から三振に打ち取られて記録達成。
     ちなみに、藤本は1リーグ時代にもノーヒット・ノーランを記録しており、ふたつの時代をまたいでノーヒ
    ットピッチングをした唯一の投手でもある。

     1リーグ時代の話で、四球を多く出したノーヒッターを紹介したが、2リーグ以降はそんな投手は
    見あたらない。いちばん多いのが6個で、これは昭和60(1985)6月9日の近鉄戦で達成した日本
    ハムの田中幸雄投手と、平成8年8月11日の巨人戦で達成した中日・野口茂樹投手の2人だ。
    9イニングで6個だから、そう多い方ではない。

     では2リーグ以降、目につくノーヒット・ノーラン記録を見てみよう。
    最多記録はというと、広島の外木場義郎投手の3回だ。これは伝説の沢村と並ぶ日本記録でもある。
    外木場はノーヒット・ノーランの申し子といも言うべき存在で、最初は昭和40(1965)年の10月2日、
    甲子園での阪神戦で達成しているが、これはプロ入り2試合目の先発で、プロ初勝利が大記録と
    なったわけだ。さらにその3年後、昭和43(1968)年9月14日の大洋戦(広島)では2度めを記録、
    しかもこの試合は完全試合でもあった。奪三振16というのも、ノーヒット・ノーランでは最多記録になって
    いる。3度めは昭和47(1972)年の4月29日の巨人戦で記録した。
     外木場のすごいところは、出した走者がほとんどいないということだ。最初の試合では2四球のみ、
    次は完全試合だから無走者だし、3度目は1四球1失策の2人だけ。相手としては、まさに「手も足も
    出ない」状態だったろう。

     他に2回以上記録しているのは金田正一(国鉄)のみ。昭和26(1951)年9月5日、大阪球場の
    阪神戦で最初に記録、2度目が昭和32(1957)年の8月21日、中日球場での中日戦で、これは
    完全試合になったのだが、これが大荒れ。8回を終わって0−0だったが、9回に国鉄は3安打を集め
    てようやく1点をもぎとった。その裏ドラゴンズは、先頭打者の7番・川口汎夫に代えて、ベテラン捕手
    の酒井敏明を起用した。たちまち金田は2−1に追い込んだが、4球目のインハイの速球を酒井を
    ハーフスイングした。審判の判定は「ストライク!」
     酒井はもちろん、服部受弘主将や主砲の西沢道夫、はては天知俊夫監督も猛烈に抗議した。
    ファンも黙っておらず、グラウンドになだれ込んで稲田球審を取り囲んだ。この騒動は20分ほどで
    収まったが、稲田球審が場内アナウンスで説明すると、またファンが騒ぎ出した。今度は収拾が
    つかなくなり、とうとう中日の天知監督がお願いする形でファンを説得、ようやく試合再開となった。
    都合43分の中断で、さぞや金田もイライラしたろうが、8番の牧野茂、代打の太田文高を3球三振
    に仕留めて試合を締めた。

     外木場はプロ入り2試合目でノーヒット・ノーランを記録したが、上には上がいる。前年、甲子園で
    大活躍し、ドラフトの目玉となり、激しい争奪戦の結果、本人の希望通り、中日がクジを引き当てて
    入団した新人・近藤真一投手。彼は昭和62(1987)年の8月9日の巨人戦(ナゴヤ)で先発、プロ
    入り初登板したが、このゲームで快投、巨人打線をノーヒット・ノーランに封じ込んだ。速球と大きなカーブ
    を武器に、13三振を奪う力投で花を添えた。
     実は筆者もこのゲームをTV観戦していたのだが、今以上に熱烈なドラゴンズファンだっただけに、
    緊張と期待のないまぜになった気持ちで見ていたことを憶えている。最後の打者は篠塚で、カウント
    2−2から大きなカーブに手が出ず、見逃しの三振に倒れてのゲームセットだった。印象的だったの
    は、サードの落合博満で、確か8回だったと思うが、三塁前のボテボテの打球を必死の形相でダッシュ
    して捕球、見事に一塁で刺したプレーをした。お世辞にも守備がうまいとは言えない落合にとって、
    目一杯のプレーだったろう。

     他に、ノーヒット・ノーランでの印象的な試合をいくつか取り上げよう。
    まずは江夏豊(阪神)のこの記録。昭和48(1973)年8月30日、甲子園にドラゴンズを迎えての
    首位決戦。ここで史上唯一となる延長戦ノーヒット・ノーランおよび自らのサヨナラホームランというとてつ
    もないことをやってのけた。詳細はこちらへ。

     次は巨人の堀内恒夫投手。昭和42(1967)年の10月10日体育の日。すでに巨人の優勝が決ま
    っており、消化試合ではあったが祝日の巨人戦ということでお客の入りはそこそこ。行なわれたのは
    カープとのダブルヘッダーであった。巨人・先発は入団2年目で早くもエースの貫禄を持った堀内。
    初回にいきなり2四球を与えてしまったが、後続を切り取って調子に乗った。以降、2つ四球を出しただ
    けで記録を作った。だが彼のすごいのはピッチングだけではない。この日、堀内の好投に報いんと打線
    も奮起、大量11点を奪ったのだが、堀内自身も大きく貢献していたのだ。4打数4安打はともかく、3打席
    連続ホームランの4打点はお見事。広島投手陣は顔色なしだったろう。打線はノーヒットだわ、相手投手
    には3連発されるわ、で、カープにとっては踏んだり蹴ったりだ。

     そして佐々木吉郎投手(大洋)。昭和41(1966)年の5月1日、広島球場に乗り込んでのカープ戦。
    ダブルヘッダーの第一試合を3−5で落とした大洋・三原脩監督は、第二戦に佐々木を起用した。
    佐々木は前年0勝、無論、今年もまだ勝っておらず、三原監督としてはいけるところまで、という程度の
    気持ちだったろう。その佐々木、カープの上位打線、トップの大和田をセカンドフライ、2番の古葉をレフト
    フライ、3番・興津を三振に仕留めた。「今日は悪くないな」と三原さんは判断したのか、少し様子を見よう
    ということになった。それが、あれよあれよというまにカープ打線を翻弄し、気が付いたら完全試合だった
    という感じだったらしい。投球数わずか102球、7奪三振。ちなみに佐々木は実に585日ぶりの勝ち星
    だった。

     メジャー・リーグには、なんと2試合連続ノーヒット・ノーランという凄まじい記録を持つ投手もいる。
    レッズに所属したジョニー・バンダミーアというサウスポーだ。先発ローテーションに入ったのは1938年
    のことだから戦前の話だ。その年の6月11日のブレーブス戦でまず達成。中3日の6月15日のドジャース
    戦でも続けて記録した。さすがに疲れがあったのか、最終回の3連続四球も含めて8四球を与えている
    が、見事無安打に抑えている。

     華々しい記録だけに、あと一歩で涙を飲んだ投手もいる。あと1人で完全試合を逃したのは、昭和25
    (1950)年の田宮謙次郎(阪神)投手、昭和27(1952)年の別所毅彦(巨人)投手、そして昭和
    37(1962)年の村田元一(サンケイ)投手の3人だ。
     特に有名なのは別所の記録で、27人目の打者が代打で出てきたブルペン捕手で、おまけにプロ通算
    4年で9打数1安打という神崎安隆捕手なのだ。つまり、神崎のプロ唯一のヒットが別所の記録を阻んだ
    ことになる。しかも、ボテボテのショート前のゴロで、前日の雨も手伝ってグラウンドは柔らかく、名手・平井
    を持ってしても内野安打を防ぐことが出来なかった。
     村田元一投手をいう名、記録に詳しい方なら憶えがあるかも知れない。昭和34(1959)年4月26日に
    巨人・王貞治一塁手が初ホームランを打った投手でもあるからだ。この村田、他にも面白い記録があって、
    昭和41(1966)年10月11日にプロ100勝目を挙げているのだが、実は99勝目を挙げたのが10月10
    日、つまり前日なのだ。2日で99勝、100勝と勝った非常に珍しい記録である。日本では2人しかおらず、
    もうひとりは南海の佐々木宏一郎投手で昭和46(1971)年に記録した。しかも面白いことに、村田はあと
    1人で完全試合を逃したが、佐々木の場合は見事に完全試合を達成している。昭和45(1970)年のこと
    で、近鉄に移籍していた佐々木は、古巣ホークス相手に偉業を成した。

     9回2死から大記録を逃した投手はのべ17名で16人である。つまり、1人で2回もチャンスを逸した投手
    がいたのだ。その名を仁科時成(ロッテ)という。アンダースローの好投手だった。昭和58(1983)年の
    8月20日と昭和59(1984)年の5月29日、つまり2年続けてのことであり、しかも相手はともに近鉄だ
    ったのも興味深い。しかも最初は9回2死から、最後の打者として迎えた仲根政裕一塁手を2−1と追い込
    んだ4球目、ファールチップした打球を捕手がこぼしてしまった。その直後、一二塁間を抜かれてしまう。
    そして2度めは9回2死から、トップの平野光泰中堅手がセンターへ打ち返しておじゃんになる。しかしこれ
    も伏線があるのだ。9回1死からショートゴロ失策で一人走者が出ている。これさえなければ平野まで打順
    が回っていない。

     では、ノーヒット・ノーランで得点されてしまったらどうなるのか。残念ながら日本では記録として認められ
    ていない。故に私もうろ覚えで申し訳ないのだが、確か阪神の村山実が巨人戦でノーヒット2ラン(つまり
    ノーヒットに抑えながら2失点)を記録していると思ったが、錯覚かなあ???
     ちなみに、アメリカだと例え失点しても無安打に抑えればノーヒッターとして記録ブックに名前が残る。

     極めつけだが、なんとノーヒットに抑えて負けた投手も存在する。南海の宮口投手だが、詳細はこちら
    メジャーでも同様の記録がある。1990年、ヤンキースのアンディ・ホーキンスはホワイトソックス戦で好投、
    7回までノーヒット・ノーランに抑えていた。が、8回に2つの四球と4つものエラーが絡んで一挙に4失点、
    4−0で負けている。さらに1992年にはレッドソックスのマット・ヤングが記録した。インディアンス戦に
    先発したヤングは、初回に四球で出した走者に走られ、エラーも絡んで1失点。3回には2つの四球と
    フィルダースチョイスで1失点。味方は1点しかとってくれずに負け投手である。

     ノーヒット・ノーランを逃したのは残念だろうが、勝利投手になればまだ救いはある。
    ところが、最後の打者となるべき選手に初ヒットを許し、挙げ句敗戦投手になった泣くに泣けない投手が
    2人だけいる。
     まずは阪神・バッキー投手。この詳細はこちらへどうぞ。
    もうひとりは中日の佐藤公博投手。昭和41(1966)年の9月26日の後楽園・巨人戦で佐藤は好投、
    ノーヒットに抑え続けた。しかし味方打線も沈黙、0−0のまま9回へ入る。ここでドラゴンズは3安打を
    集め、待望の先取点を挙げて、これが決勝点になると信じた。しかしドラマはここから始まった。
     9回、簡単に2死まで奪った佐藤は、記録まであと1人となる。打席には3番に入った柴田勲中堅手
    だが、佐藤の投じる101球目を叩き、左中間を破ってしまった。ガックリする佐藤。しかも次は4番の王
    である。リードはわずかに1点、ノーヒット・ノーランどころか、ここで王に打たれたら同点、逆転だ。
    1塁が空いている。ウィニングランとなるのを覚悟して王を敬遠した。迎えるは5番の森昌彦捕手。
    この日は5番に入っていたが、そうは打撃に期待できない森と勝負するのは妥当策と思われたが、森
    は中日ベンチの期待を打ち砕き、右中間スタンドへサヨナラ3ランを打ち込んだ。

     メジャーの方ではどうか。かつてトロント・ブルージェイズにデーブ・スティーブという投手が在籍した。
    彼は1989年の9月24日インディアンス戦、同月30日のオリオールズ戦で、2試合続けて9回2死から
    初安打を許してノーヒッターを逃している。実は、その前の試合でも1安打完封しており、3試合続けて
    1安打完封という、ものすごいというか運のない記録を作っている。
     さらに恐れ入ったことだがこのスティーブ、同じ年の8月4日には完全試合ペースでゲームを進めながら
    9回2死からロベルト・ケニーに2塁打されて逃している。なんと1シーズンに4回も大記録を逸している
    というのがすごい。まだある。5年前の1984年には8回までノーヒット・ノーランに抑えたものの、9回に
    2アーチを浴びたこともある。
     ここまで運がないともうチャンスはなさそうに思えるが、スティーブ君は根性があった。なんと翌年(90
    年)の9月2日インディアンス戦で見事にノーヒット・ノーランを達成した。彼にとっては5度目の正直と
    いったところだろう。


      戻る