今 |
の横浜ベイスターズからは想像もつかないであろうが、昭和30年代の
大洋ホエールズ(横浜の前身)は、それはそれは打てないチームだった。
三原監督の元、エース秋山を擁して優勝したときも、投手陣におんぶにだっこ
状態だったのだ。これが昭和50年代まで行くと、松原やシピン、福島といった
強打者を備えた打撃のチームになったんですけども、逆に投手陣に人材がいな
くて苦しんでいた。なかなかうまく行かないもので。
ちなみに、上記の福島という選手は捕手で、女子プロゴルファー・福島晃子の
実父であります。
話を本題戻しますと、1963(昭和38)年の5月26日、甲子園球場で行われた
阪神−大洋のWヘッダーが、そのゲーム。
まず第一試合。タイガース先発はエースの小山正明。ホエールズは初回、二死
後、3番の近藤和彦がライトスタンドに放り込んで1点を先制した。が、その後は
小山の緩急自在なピッチングに翻弄され、以降ノーヒットに封じられてしまう。
この間に阪神打線も奮起して3点を奪い、見事に逆転。大洋は1−3で破れた。
続く第二試合。阪神のマウンドに登ったのは小山と並ぶエースのバッキーだ。
第一試合の小山の投球に影響されたこともあろうし、バッキーそのものの調子も
上々で、ホエールズ打線は手も足も出ない。ヒットどころか四死球やエラーの走者
も出ず、完全試合ペースで9回まで来てしまった。そしてこの回も先頭打者が
簡単に打ち取られ、こりゃだめかと思われた矢先、8番の土井淳捕手がかろうじ
て四球で出塁した。
これで完全試合は消えたが、まだノーヒットノーランや完封は残っている。のだが、
バッキーはパーフェクトを逃してガックリしてしまう。ここで大洋打線はすかさずバント
攻撃である。阪神打線を無失点に抑えている投手の稲川誠がそのまま打席に入り、
三塁前にバントを転がすと、タイガースのヤシック三塁手はうまくさばいたものの、
セカンドへの送球が大きく逸れてしまった。これで一死1、3塁のチャンス、しかも
打順はトップに戻った。
しかし、一番の島田幸雄一塁手はピッチャーゴロ。この打球で三塁走者の土井が
飛び出してしまい、バッキーに刺された。これで二死2塁となった。以前、ノーヒット。
そして2番の浜中祥和二塁手は、2−2と追い込まれた5球目を叩くとボテボテの
打球がニ遊間に飛んだ。ショートは名手・吉田義男である。万事休すかと思った瞬間、
なんとこの打球がセカンドベースに当たってしまうのである。慌てて吉田が拾ったが、
この間に二塁走者の稲川が先制のホームイン。これが決勝点になってしまうのだ。
この浜中の打球はもちろんヒット。だが、この試合はこのヒット1本のみである。
つまり、このWヘッダーで大洋は16イニング連続ノーヒットの上、18イニングで
わずか2安打で1勝1敗としているのである。運もあろうが、投手がしっかりしていた
ということと、試合運びがうまいという証明でもあろう。この時代の阪神と大洋は同じ
ようなチームカラーだったので、上記のようなゲームが連発したそうである。
戻る