ロ野球考古学というコーナーのキモともいうべき事件が、この「江川事件」である。
元々、「プロ野球考古学」は、選手の神田投手の話と、事件の「江川事件」のことを
    書きたいから作ったようなコンテンツなのだ。ホントはもっと引っ張っておきたいなと
    思ったんですけど、掲示板でリクエストが出るやいなや、メールでも「是非やってく
    れ」という要望が舞い込み始めたので、さすがに黙殺することができなくなったので
    あります(^^;)。
     ま、それはさておき。

     江川卓。その類い希なる投手としての才能は、10年に一人とも20年に一人とも
    噂された。作新学院時代、無安打無得点試合12ゲーム(うち完全試合2)を達成
    し、高校通算防御率なんと0.50。しかし勝ち運には恵まれず、昭和48(1973)年
    の春・夏の甲子園に出場したものの、優勝はかなわなかった。だが、センバツでは
    大会60奪三振(4試合)という驚異的な記録を作り、怪物の名を欲しいままにした。

     当然のようにドラフトの目玉となった江川だが、彼自身は巨人入団に固執していた。
    江川も野球が好きだったかも知れない。が、それ以上に巨人が好きだった。
    当時のドラフトは完全ウェーバー制。簡単に説明すると、その年の日本シリーズで優勝
    できなかったリーグの最下位チームから順番にクジを引く制度である。ただし、そのクジ
    は予備抽選と呼ばれ、次の本抽選のクジを引く順番を決めるなだけのだ。そのクジの
    上位者から、今度は選手指名に絡む本抽選のためのクジを引くという、なんともまどろ
    っこしいというかしつこいというかもったいぶった制度だったのだ(^^;)。
     逆指名はもちろんのこと、複数球団指名による抽選ということもない。

     江川はもちろん巨人指名を願っていたが、上記の制度では巨人に指名される確率は
    1/12に過ぎない。巨人が指名権を得れば何の問題もなくプロ入りであるが、そうで
    ない場合の対策を講じる必要がある。そこで江川側は、慶応大学進学を表明した。
    もちろん巨人が指名すれば進学は取りやめである。進学ではないのか、と追求されれ
    ば、「巨人側の誠意に負けて」とでも言っておけばいいのである。しかし、世の中それほ
    ど甘くはない。昭和48(1973)年度ドラフトで指名権は阪急が獲得した。

     江川は失望した。そして予定通り、慶大進学を改めて表明、阪急との交渉は一切受け
    ないとした。しかし、そこで引き下がっては指名した意味がない。阪急は全力を挙げて
    江川攻略に討って出た。が、江川家のガードも堅い。再三に渡る入団交渉要請を拒絶、
    阪急サイドを会おうともしなかった。そんな中、明けて昭和49(1974)の元旦、江川を
    担当する阪急の丸尾チーフスカウトは、新年の挨拶をすべく栃木県小山市にある江川家
    を訪れた。午前6時、江川家玄関前に立つとチャイムを押したが反応はない。その後も
    何度か声をかけたが、江川宅からの返事はなかった。2時間頑張った丸尾スカウトは、
    大声で「江川さん、新年のご挨拶にあがりました」と叫んだ後、江川家を後にしたという。
    厳冬1月の北関東。それも早朝6時。恐らく気温は氷点下だったろう。これもスカウトの
    仕事かも知れないが、ご苦労な話である。
     江川サイドの態度にハラを立てた人も多かろうが、江川の方は「一切、阪急の人間とは
    会わない」と言っており、終始その姿勢を崩さなかっただけなので、このことだけで江川を
    どうこう言うのは誤りだろう。ただ、人間の感情として、仕事とはいえ寒い中をわざわざ
    正月まで訪ねてきた人に対する態度ではない、という気持ちもわからないではない。

     さて、慶大進学を目指した江川であるが、ものの見事に受験失敗。しかたなく、同じ
    六大学の法政大第二法学部に入学した。法政にとっては朗報だった。甲子園のスター
    であり、話題性も充分、もちろん投手としての能力も申し分ない。江川は法政の期待通り、
    エース兼5番打者として大車輪の活躍を見せた。大学4年間で通算47勝を上げ、法政
    の4連覇に大きく貢献した。江川は怪物の名に恥じぬ、素晴らしい成績を残した。

     そして迎えた昭和52(1977)年秋。江川自身、2度目となるドラフト会議を待った。
    もちろん江川の巨人志向は変らない。ドラフト前に、「巨人以外は入団しない」と宣言した。
    無論、巨人サイドに異論はない。クジさえ引けば江川を指名すると公言している。

     結果。またしても江川はクジに嫌われた。今度、江川の交渉権を獲得したのは新生・
    クラウンライター・ライオンズであった。このクラウンという球団、名門・西鉄の末裔に
    当たるわけだが、西鉄が「黒い霧事件」をきっかけに球団経営の意欲を失って、太平洋
    クラブ(ロッテの中村オーナーが代表株主。顧問に岸信介)にチームを売却、そのわずか
    2年後に経営権を移譲されたのがクラウンライターである。

     江川にとっては、まったく間尺に合わない話であった。巨人どころか、経営がフラフラして
    いるような球団である。入団の意志はまったくなく、即座に入団拒否の声明を発表した。
    この時点では、巨人を熱烈に志望していながら2度の不運、ということで同情論も多かった
    が、江川に一言多かった。入団拒否の会見で、「僕は関東の人間です。九州はあまりに
    遠く、馴染みがない。九州へ行ったら、僕のプレーを見てもらえなくなる」と言ってのけ
    たのである。これを聞いた九州人はカチンと来た。当たり前である。地元チームの指名を
    拒否されただけでなく、九州は田舎だから行きたくないと言われたようなものである。
    おまけに、「僕のプレーを見てもらえなくなる」とは何事だ。自分を何様だと思っているのだ、
    と、猛烈な反発を買った。
     そんな騒ぎをよそに、江川は作新学院職員の身分を得、野球留学と称してアメリカへ
    旅立った。もちろん、体を鈍らせないこともあったろうが、クラウン側の入団交渉から逃げる
    ためである。そして来年(昭和53年)のドラフトで、巨人が指名権を得るのを待った。


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