和17年(1943年)。悪夢の太平洋戦争も開戦2年目、早くも戦局は傾いて
来た。アメリカ軍による初空襲が実施されたのもこの年である。
     小学校にも軍事教練が導入され、全国中等学校(現在の高校)野球大会
    は
中止になった。暗い時代であった。

      当時のプロ野球(職業野球と呼称された)は、春季リーグ戦と夏季リーグ戦、
     秋季リーグ戦の3シーズン制を採っていた。3シーズンの勝者が戦って、という
     ことはなく、総合の勝率で年間優勝が争われた。
      これは、そんな時代の話である。

      春季リーグ閉幕を一週間後に控えた5月20日、優勝をかけた巨人−南海戦
     (西宮球場)が行われた。南海は巨人に1勝リードされていただけに、絶対に
     負けられないゲームだった。
      南海のマウンドを守るのは、エースの神田武夫である。

      神田投手は、巨人の大投手・沢村栄治の後輩(京都商)にあたり、在学当
     時、全球団のスカウトから狙われるほどの好投手だったのだが、卒業を間近
     に控えて肋膜炎を患ってしまった。肺病持ちでは野球は出来まい。各球団は
     そう判断して、一斉に神田から手を引いたが、南海だけは交渉を続け、敢然
     と神田と契約した。
      そうした南海の態度に感動した神田は、病気をおして登板し、素晴らしい
     投球を披露する。昭和16年には25勝も南海にプレゼントしたのである。

      問題の巨人戦、咳の止まらない神田は、自ら先発を買って出た。既に春季
     リーグだけで13勝3敗という好成績を挙げてはいたが、勝つたび、投げるたび
     に胸は悪くなっていった。

      この日も神田は全力投球であった。時々、激しく咳き込み、大きな白いハン
     カチで口を抑えながら力投した。
      5回裏、セカンドに走者を置いて、4番・川上にセンターへ弾き返された。
     ホームをカバーしようとマウンドを駆け降りた時、またもや激しい咳に襲われ
     た。思わずしゃがみ込んだ神田がハンカチで口を抑えると、見る見る白地の
     ハンカチは真っ赤に染まった。喀血である。

      とても続投できる状態ではなかったが、6回表の南海の攻撃中、インター
     フェアの判定を巡ってゲームは40分ほど中断した。穿った見方をすれば、
     南海側が神田を休ませようとしたと思えないこともないが、仮にそうだとして、
     一体誰に責められようか。

      中断後、南海は神田を降板させようとしたが、神田自身が続投を申し入れ、
     そのまま完投したものの、結局、川上の一打が効いて惜敗した。
     この結果、南海は巨人に優勝をさらわれることになる。

      ひと昔前の野球漫画のような話であるが、実話なだけに重みを感じる。

      神田投手は、翌昭和18年7月27日、弱冠22歳で永眠した。


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