前漢齊悼恵王系図(1) | 高祖子(母:曹姫) | |
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【解 説】 | 高祖の子として王に封じられ、前漢の諸侯王家としては一番子孫が栄えた齊悼恵王劉肥と、そこから派生した諸王家(城陽景王・川懿王・膠東王・膠西王・濟北王・濟南王・川王)について解説します。 |
[齊 王] |
齊悼恵王劉肥は高祖の長子(長男)です。その母である曹姫は、高祖の正妻(後の皇后)である呂后が高祖と結婚する以前から高祖の妾となっていたようです。 側室の子であり、しかも皇后である呂后にも男子(後の孝惠帝)が誕生していた為、世継ぎである皇太子にはなれませんでした。 しかし、高祖が天下を統一し皇帝に即位した当時、劉氏一族の中で高祖が頼みに出来る人物は、末弟の劉交(後の楚元王)・従兄弟の劉賈(後の荊王)と、自身の子の中では年長である劉肥位しか居なかったのです。 当時、高祖は天下を統一したものの、その為に大功臣である韓信を齊王に、彭越を梁王に、英布(黥布)を淮南王に封じていました。 特に、軍事的天才としてその名が全国に轟いていた韓信が初めに封じられた齊国は、土地が肥沃で重要な産物も豊富、そして何より人口が多かった為、後々の事を考えると万が一のおそれがあると判断した高祖は、統一直後に漢の上将軍でもあった齊王韓信の兵権を取り上げ、同等であるが南寄りで都から更に遠くなる楚王に転封しました。 (楚国には韓信の故郷である淮陰が含まれていたと言う理由もありました) そしてその後釜に、高祖は自分の一番の身内である長子の劉肥を齊王に封じたという訳なのです。 その封国は戦国時代の旧齊国の版図とほぼ同程度で、国内に6郡以上を含むほどでした。当然、劉氏の歴代諸侯王の中でも最大の王国だったのです。 さてその後、高祖が崩じ、齊悼恵王肥の異母弟にあたる孝惠帝の代になると、その母である呂太后が実権を握るようになります。 呂太后は自身と実家の呂氏一族の勢力を拡大せんが為、皇族である劉氏の王でも自分の意に添わない者は次々と毒殺や幽閉を行っていました。 当時諸侯王の中で最大の王だった齊悼恵王肥も、非公式な場において孝惠帝が(君主であるにも関わらず)齊悼恵王肥に対して兄として礼遇した際、そのまま(臣下としてその礼遇を辞退せず)兄としての態度を取った為、それを見た呂太后は立腹し、その場で鴆毒入りの酒により毒殺しようとしました。 しかし何とかその毒酒を飲まずに退席出来た齊悼恵王肥はその後、家臣の策によって何とか呂太后のご機嫌を取り結ぶ事によって難を逃れる事が出来ました。 最大の諸侯王であった齊悼恵王肥ですら、場合によっては命が危なかった事からも、当時の呂太后の影響力が相当強力だったことが伺える話です。 こうやって難を逃れた齊悼恵王肥はその後自国に戻って平穏に過ごし、しばらく後に薨去しました。 齊王の王位は子の齊哀王劉襄に継がれます。折しも呂太后が亡くなり、誰が正統な後継の皇帝かはっきりと決まってい居ませんでした。また専横を強めていた呂氏一族は、これを機に変事をおこし皇帝の座を劉氏から呂氏へ奪おうという企みも出始めたようです。 齊哀王襄はこの様な状況を都にいる弟の朱虚侯劉章からの情報で知り、自分の父齊悼恵王肥が高祖の長子であり、「自分は高祖の嫡長孫として皇帝に即位する資格あり」と考え討伐の軍をおこします。そしてこれが、結果的には呂氏一族滅亡への動きに繋がりました。 しかし残念ながら中央政府の大臣の協議の結果、齊哀王襄は母方の外戚駟氏一族の性格が悪く、これでは呂氏一族の二の舞になりかねない(^^;と判断され、後継皇帝の座は当時存命している高祖の子の中で最年長であり、外戚の薄氏一族の性格に問題なしと認められた代王劉恒に決まりました。これが孝文帝です。 結局皇帝の座につけなかった齊哀王襄の薨去後、王位は子の齊文王劉則へと受け継がれますが、この齊文王則は子が居ないまま薨去し、ここで一旦齊王家は断絶します。 しかし、時の皇帝である孝文帝は、自身の長兄であった齊悼恵王肥を偲び、また自分が居なければ皇帝になる可能性もあった甥齊哀王襄の齊王家が断絶しているのを哀れに思って、元の齊国の領地を分割し齊悼恵王肥の主だった子を諸侯王にする事にしました。 その際、齊王本家の齊文王則の後を継ぐ形で齊王に封じられたのが楊虚侯劉將閭で、これが齊孝王にあたります。 しかしこの時の齊国は、齊悼恵王肥の頃の領地を分割したものであり、もう以前のような広大さは当然ありません。 更に時は孝文帝の子孝景帝の御代になり、中央政府は政策として諸侯王や列侯の整理縮小を行い始めました。齊孝王將閭と同時に封じられた諸王も例外ではなく、些細な罪科を理由に領地を削減された諸侯王・列侯が多く出たのです。 そして、やがてその政策に我慢出来なくなった呉王劉・楚王劉戊らが中心となって、「呉楚七王の乱」という大規模な乱が勃発します。 ここで齊孝王將閭に取って不運だったのは、自分と同時に王に封じられた周辺王国の多く(濟南王劉辟光・川王劉賢・膠西王劉・膠東王劉熊渠)が、この「呉楚七王の乱」に呉楚七王側として参加した事でした(ちなみに、呉楚七王のもう1人の王は趙王劉遂)。 齊孝王將閭はこの呉楚七王の側につかず、国内の守備を固めた為、周辺の呉楚七王側の軍に包囲され、一時は降伏して七王側に組みせんかと言う状況まで追い込まれますが、最終的には中央政府側が勝利し、齊孝王將閭にとっても安堵の時が訪れるはずだったのです。 しかしその後、危機的状況の際に一時的にだったにせよ七王側に組みしようとしていたことが告発され、齊孝王將閭は中央の討伐を恐れ、自殺してしまいます。 ただ、呉楚七王の反乱に懲りた孝景帝は、齊孝王將閭は呉楚七王側に攻撃されやむなく一時的にのみ従おうとしただけである、と寛大な態度を見せ齊孝王の子に後を継がせました。これが齊懿王劉寿です。 齊王家はその後齊懿王劉寿の子齊脂、劉次昌に受け継がれますが、この齊脂、次昌が自身の姉と姦淫(^^;していたのを齊国相の主父偃に告発され自殺し、ここに齊王本家は断絶し、再び立てられる事はありませんでした。 |
([濟北王]) |
さてここからは、齊悼恵王肥の子で齊王本家から派生したゥ王家について解説します。 まず最初に齊王本家から派生したのは、濟北王劉興居です。 劉興居は初め、齊悼恵王の子と言うことで東牟侯に封じられていたのですが、[齊王]の齊哀王襄の部分で解説したとおり、時の権力者呂太后の死後更に専横を増そうとしていた呂氏一族をクーデターによって倒し、劉氏の天下を回復した時の首謀者の1人でした。 その為、孝文帝の即位後東牟侯興居は同じく首謀者だった兄の朱虚侯劉章と共に、それぞれ濟北王、城陽王に封じられました。(城陽王劉章に関しては別のページで解説しています) しかしこの2人の王は、皇帝の座に長兄の齊哀王襄が即位していれば、もっと良い待遇を受けていた(それぞれ東牟侯興居は梁王に、朱虚侯章は趙王に封じられる予定だった)だろうと密かに悔しがりました。 そして、この感情がやがて恨みに発展していった濟北王興居は、北方に匈奴が侵略した際孝文帝自らがこれを討伐する為に都を空けると聞いて、遂に謀反を起こす迄になったのです。 が、これを知った孝文帝は親征を止め濟北王興居の討伐軍を出した為、濟北王興居は捕らえられ、自殺しました。当然この濟北王の王家は断絶となりました。 |
([膠東王]) ([膠西王]) ([濟南王]) ([川王]) |
次に、上記の[齊王]齊孝王將閭の部分で解説した様に、齊王家は齊文王則の代で一旦断絶するのですが、その後中央政府はその封国を分割して齊王本家を復活させ、更に一族の中から分家として派生する諸侯王家を誕生させました。 それが濟北王劉志(後転封され川懿王となる。この時既に前述した濟北王興居は謀反に失敗し自殺している)・濟南王劉辟光・川王劉賢・膠西王劉・膠東王劉熊渠の5人の諸侯王で、齊孝王將閭と併せてこの時同時に6人の諸侯王が誕生したことになります。 ところが、この5人の諸侯王の内、濟南王辟光・川王賢・膠西王・膠東王熊渠の四王は、当時の中央政府の諸侯整理政策によって領地を削減された為これを恨み、「呉楚七王の乱」を起こしてしまいました。 そして[齊王]の解説でも書いたとおり、この「呉楚七王の乱」は結果的に中央政府の勝利するところとなったので、呉楚七王側として反乱に参加したこの四王も捕らえられ、処刑されました。 結局この王達は、諸侯王に封じられたから僅か11年しか存続しなかった訳なのです。 (結果的に唯一反乱に参加しなかった濟北王志(この「呉楚七王の乱」で川王賢が処刑され国が除かれた為、後に川王に転封となる)については、別のページで解説することにします) |
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