前漢帝王系図    前漢(西漢)前 202年〜後  8年 
       12代  214年 
系図内の人名をクリックすると、皇帝なら外戚関係図諸侯王なら各王家の系図リンクします(詳細図がある人物のみ)

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凡例:青文字の人物は皇帝(廃帝も含む)  数字@は即位順(諡号・人物名が太字の人物)
   緑文字の人物は諸侯王(後に王位を廃された場合も含む)
   [  ]・・・諡名。諡名が無い場合ハイフン(-)
   (  )・・・諸侯王・列侯名。転封している人物の場合最後に封じられた号
        (一部「太子」やそれ以外の通称についても記している)
        諸侯に封じられなかった人物の場合ハイフン(-)
   {  }・・・歴任した諸侯王・列侯名

【解説】 前漢(西漢)滅亡後、西楚との戦いに勝利した劉邦(漢高祖)によって建国された大帝国です。
首都は長安(現在の西安)。通常の数え方では高祖劉邦が即位し孺子劉嬰が王莽により退位するまで皇帝12代、210年間存続しました。(少帝・廃帝は代に含まず)
前漢は諸皇帝の代によって時期を大まかに分類することが出来ます。
ただこの分類とは別に、反乱・変事・外征などがあり、その主なものも一緒に挙げると次のようになります。
高祖    創業期 異姓諸侯王排斥による反乱/匈奴の侵略
惠帝・少帝 呂后専横期 呂太后専制による劉氏諸侯王排斥/
呂太后死後の帝位を巡る変事
文帝・景帝 休息期   呉楚七王の乱(景帝期)
武帝    隆盛期   匈奴・西域等に対する外征/巫蠱の乱
昭帝・宣帝 中興期   燕王・上官氏の反乱/廃帝即位・廃位時の変事(昭帝期)/
霍氏の反乱(宣帝期)
元帝・成帝 沈滞期   (特に大事件は無し)
哀帝・平帝 王莽専横期 新キ侯 王莽専制による哀帝・平帝の外戚排斥が原因の変事
各皇帝・諸侯王の解説については、皇帝なら「外戚関係図」諸侯王なら「各王家の系図」に記載してあります。
【資料】 和刻本『漢書』(汲古書院)の諸表・本紀・列伝を基本とし、『漢書』(筑摩書房)『史記』(平凡社)『史記列伝』『史記世家』(共に岩波書店)等々で追加・補正しました。
基本を『史記』とせず『漢書』にしたのは、単に『漢書』の方が前漢の、特に系図作成に関する資料が体系化され、全て揃っているので都合が良かったからです(^^;。
(『史記』は当然ですが武帝期前後迄しか資料が有りません)
漢書』『史記』お互いに人物名などに相違が見られ、また共に誤りの記述が有るのは認識しているのですが、残念ながら私は専門家(中国史の学者)ではないので、詳細な確認・考証についてはその為の資料が無く出来ないことをご理解願います(^^)。
ですので明らかな誤記に関する、専門家の方のご指摘は何時でも歓迎です(出来るだけ優しく指摘して下さいね(笑)。糾弾調に指摘されると…泣きます(^^;)
【備考】 系図中の人名・王号・諡号の字については、旧・新字体が有りますが、結構私の気分で(^^;;;どちらかに決めています(例えば「孝惠帝」の「」は「」でも良かった。で、「齊悼恵王」の時は「」の方を使っているし(^^;;;)
それ以外の同じ字については、出来るだけ旧・新字体のどちらか一方で統一するように心懸けました。(あまり神経質にならないでご覧になって下さい(^^;)
 
また系図中の兄弟に関してですが、必ずしも左から長幼の順番に並記されているという訳ではありませんのでご承知下さい。
これは主に図の構成上の理由(皇帝は出来るだけ左端に記したいとか、系図GIFファイルのサイズを出来るだけ小さくしたい等)からこの様に記載されているだけです(中には当然兄弟の長幼関係が分からない(資料がない)場合も含んでいます)。
 
系図中の「」についてですが、人名・王号・諡号の部分に有るものはその字が不明や判読困難だったものです。また、系図そのものの部分に有る場合は、その部分の系図に疑問があると言う事です。
特に孝惠帝の子供について、少帝2人・王5人となっていますが、当時は呂太后による専制の時期で、後継者の問題からこれらが虚偽で有る可能性は十分に有ります。
しかし、『史記』などにも一応記載されており、折角なので(笑)とりあえずこの系図にも表記することに致しました。
 
あと、資料では「常山王」となっている王号を一部系図では「恒山王」に変えて表記しています。
これは、「恒山王」の「」の字が孝文帝の諱であり、漢代ではこれ以降「」の字を使用することが出来なくなった為、『漢書』等ではそれ以前の「恒山」を代わりに「常山」と表記されたからです。
ただ、孝文帝即位後に封じられた「常山王」は、孝文帝の諱を当然考慮した王号名のはずなので、この系図でもそのまま表記することにしています。
 
最後に皇帝諸侯王・列侯の「諡号(しごう・おくりなの事)」について、諡号が無い([ − ]になっている)王侯が存在しますが、それは大体以下の理由からです。
その諸侯王(列侯)が薨去した際、後継ぎとなる人物(太子)が居なかったため断絶し、国が除かれた場合
後継ぎが居ないため断絶した場合、諡号を贈るはずの子孫が居なくなってしまったからで当然といえます。
ただ、それが初代の王になるべき人だった場合、皇帝から哀悼の意味を込めて「哀王」や「幽王」「靈王」等の諡号が贈られることが有ります。
その諸侯王(列侯)が皇帝(中央政府)に対し謀反をおこしたり重罪を犯して処罰され、国が除かれた場合
重罪を犯して処罰された場合、大体そこで諸侯王家(列侯家)は取りつぶされ、場合によってはその一族が全て処刑されてしまう事も有りますから、この場合子孫が諡号を贈る資格がないか、贈るべき子孫も処刑されている(^^;かのどちらかです。
ただ諸侯王と違い、その数も相当数存在した列侯の場合、酎金の律に触れ侯の位を剥奪された者も多かったようです。
(酎金というのは、皇帝が宗廟に御神酒を供える際に、諸侯が規定の質・量の金を奉納する事です。実はこの制度、列侯が多くなったりした際、些少の不備を口実に諸侯を潰したりその領地を削減したりする、中央政府の「対諸侯政策」に利用されていたようです)
帝国(前漢)自体が滅亡し、その下に存在する諸侯王家・列侯家も自然消滅的に無くなってしまった場合
これは諸侯王(列侯)の身分を保証してくれる帝国(中央政府)が無くなってしまうのですから、自立するならともかく、普通はその下の諸侯も無くなってしまうのが当然と言うわけです。
前漢が新(王莽)に乗っ取られる際には、諸侯王は概ね王から公に一等下げられその後に取り潰され、また列侯はそのまま取り潰されたようです。

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