前漢齊悼恵王系図(4) | ||
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【解 説】 | ここでは、齊悼恵王劉肥の齊王家から派生し、その王家は前漢の滅亡時まで存続する事になる川懿王劉志について解説します。 |
[川王] (1) |
川懿王劉志は、高祖の長子である齊悼恵王劉肥の子として誕生します。 この人物が王に立てられた経緯については[齊王]の解説で述べたとおり、先ず安キ侯に立てられた後、齊王本家が一旦断絶した際に齊王本家再興と時を同じくして濟北王に封じられました。 それまで兄弟で呂氏一族討滅に功績のあった東牟侯劉興居が濟北王に立てられて居たのですが、謀反を起こし自滅してしまった為その後釜という形で入ったことになります。 さて、この濟北王劉志と同時に立てられた齊悼恵王肥ゆかりの六王ですが、なんとその内4人の王(濟南王劉辟光・川王劉賢・膠西王劉・膠東王劉熊渠)が当時の中央政府の「対諸侯政策」に不満を持ち、呉王劉・楚王劉戊らと共に「呉楚七王の乱」を起こし中央政府に対し大々的に反旗を翻したのです。 実は、濟北王志もこの乱に七王側として参加する密約を交わしていました。そこで王国内での戦闘に備え王キの城壁の修理をしていたのですが、呉王らの挙兵が突然だった為これに間に合わず、また濟北王家の家臣の強い諫めもあって結局出兵を果たせない内に「呉楚七王の乱」は中央政府側の勝利の内に終結したのです。 しかし、これが逆に濟北王志にとって良い方向に働きました。時の皇帝である孝景帝は今回の乱に懲り、またその原因がやや強硬に進めた対諸侯政策(諸侯勢力削減)に有った事を痛感していた為に、結果的に反乱軍を興さなかった濟北王をお咎めなしと言う事にしたのです。 そして濟北王は、「呉楚七王の乱」によって取り潰された川王賢の故地に転封となりました。そしてやがてこの地で薨去したため、最後は川王として生涯を終えました。これが川懿王と言うことになります。 川懿王志は沢山の子を分家の列侯として遺し、また川王本家も栄えたのでした。 (川王家の川靖王劉建以降のゥ王については「前漢齊悼恵王系図(5)」で解説する事にします) |
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