前漢齊悼恵王系図(2)   城陽景王系図(1)        
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前漢齊悼恵王系図2
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        諸侯に封じられなかった人物の場合ハイフン(-)
   {  }・・・歴任した諸侯王・列侯名
   諡号・人物名が太字になっている人物はその諸侯王・列侯の(実質的な)開祖を示しています
   ・・・・・・(破線)は、この図ではその先の系譜を省略している事を示しています

【解 説】 ここでは、齊悼恵王劉肥の齊王家から派生し、その王家は前漢の滅亡時まで存続する事になる城陽景王劉章について解説します。
[城陽王]
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城陽景王劉章は、高祖の長子である齊悼恵王劉肥の子として誕生しました。
時に、創業者である高祖が亡くなり、また後継の孝惠帝も即位後7年程で亡くなります。
時代は高祖の皇后で孝惠帝の母でもある呂太后が称制し実権を握る世の中となり、またそれに連れて呂太后の実家である呂氏一族の勢力も増大していました。
ここで呂太后は、更に呂氏一族の勢力を増さんが為、呂氏一族の中からも皇族劉氏の様に諸侯王を立てることを企みます。
しかしいきなり特別な理由もなく呂氏の諸侯王を立てると、大臣や諸侯王から反対されるかもしれないと思った呂太后は、皇族劉氏の中から幾つかの新しい諸侯王や列侯を誕生させる事によって、交換条件として呂氏一族の中からも諸侯王を立てることを認めさせようと考えました。
その為、齊王国の一部を分割(実質的には取り上げ)して、当時の齊王だった齊哀王劉襄の弟である劉章朱虚侯に、劉興居東牟侯に…の様に封じ、少し後更に齊王国の一部をまた分割し、皇族の劉澤琅邪王に封じるなどしました。
これは、先述した呂氏から諸侯王を立てる為、と言う事も当然あったのですが、有事の際に呂氏一族の前に立ちはだかる可能性の高い、皇族劉氏の諸侯王として最大の勢力を持つ齊王家の力を、今の内から少しずつ上手く削減しておこうと言う事と、更に呂太后自身が手元に置いて可愛がっていた劉章らに侯位を与えたい、と言った諸事情が複雑に絡んでいた結果だと思われます。
しかし、実際に呂太后によって列侯に立てられた朱虚侯章自身は、それと引き替えに呂氏一族から3人もの諸侯王が誕生してしまったことについて密かに苦々しく思っており、いずれ自分を可愛がってくれている呂太后が亡くなった後は、天下の実権を呂氏一族から皇族劉氏に取り戻そうと考えていたようです。
そして、その後呂太后が亡くなります。呂太后は当然自分が亡くなった後の事を懸念し、軍権を呂氏一族の手に掌握させていました。
呂氏一族は更にその軍権によってクーデターを起こし、天下を完全に皇族劉氏から呂氏一族の手に移そうと企み始めます。その際朱虚侯章は、自分の妻が呂氏一族の人間だった為この陰謀を知る事が出来ました。
陰謀の情報を得た朱虚侯章は、兄の齊哀王襄に連絡し、知らせを受けた齊哀王襄は呂氏一族討伐軍をおこします。
更に朱虚侯章は呂氏一族がこれに動揺し、首都に駐屯する軍の兵権を一旦手放した隙を狙ってこの軍を掌握し、大臣の太尉絳侯周勃や丞相曲逆侯陳平らと共に呂氏一族を悉く滅ぼすことに成功したのです。
天下は再び完全に皇族劉氏のもとに戻り、朱虚侯章としてはこの呂氏一族討伐のきっかけを作った兄齊哀王襄が後継皇帝として即位すれば、万事思った通りになるはずでした。またそうなれば朱虚侯章自身も趙王に封じられる予定だったようです。
しかし[齊王]の解説で述べたとおり、中央政府の大臣と皇族の琅邪王劉澤が協議した結果、齊哀王襄は外戚(母方の一族)駟氏(中でも叔父の駟鈞)の性格が悪く、これではやっと呂氏一族を滅ぼしたのに今度は駟氏一族がその二の舞になりかねないと判断し、代わりに当時存命している高祖の子の中で一番年長だった、代王劉恒を後継皇帝に推戴することに決定しました。朱虚侯章の希望は残念ながら覆されてしまったこと言う事になります。
朱虚侯章にとって更に悪いことに、後継として即位した孝文帝(代王劉恒)は、朱虚侯章が後継の皇帝孝文帝自身では無く齊哀王襄を強く推していたことを知り、朱虚侯章が期待していた趙王に封じられる件はその後沙汰止みとなってしまいました。
が、さすがに呂氏一族討滅の功労者朱虚侯章を全く賞しない訳にもいかず、朱虚侯章は以前齊王国から分割によって削られた城陽の地を以て城陽王に封じられることになります。同じく呂氏一族討滅に功労があった弟の東牟侯興居も、この時一緒に濟北王に封じられました。
こうして城陽王となった劉章ですが、実際は褒賞を削られたと言う不満はその後もずっと残りました。しかしその2年後、城陽景王章は薨去します。
一方、同時に諸侯王に封じられた濟北王劉興居はその後も不満が溜まっており、[濟北王]の解説で書いた様に遂には謀反を起こすまでになってしまいました。兄の城陽景王章も早くに薨去する事が無ければ、あるいは弟濟北王興居と同じ道を辿ったのかもしれません。
しかし幸か不幸か、その早逝の為に城陽景王の王家はつつがなく子孫に受け継がれていきます。
城陽景王の子城陽共王劉喜の時に、淮南脂、劉長が改易となったため一時的に淮南王に転封となると言う事が有りましたが、時の皇帝孝文帝が一旦断絶した弟淮南脂、劉長の王家を再興するため、結局また元の城陽王に戻されます。
また系図を見て分かるとおり、城陽共王喜のゥ王子は分家の列侯として沢山遺り、3代目の城陽頃王劉延、5代目の城陽惠王劉武なども多くの王子を列侯として輩出し、城陽景王の王家は前漢の歴代諸侯王の中でも、最も繁栄した王家の1つとなって行くのです。
(城陽王家の城陽荒王劉順以降の王については、「前漢齊悼恵王系図(3)」のページで解説します)

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