ペトロ物語(43)
「天使に導かれるペトロ」
Jesus, Lover Of My Soul
旧約聖書 詩編40編6節
新約聖書 使徒言行録 12章1-19節
人生、いいこともある
 今日は「天使に導かれたペトロ」というお話しです。ヘロデ王の迫害によりまして牢に入れられ、鎖につながれたペトロについては先週お話ししました。先週お見えにならなかったかたは、今日の週報に要点を書いておきましたので、後でごらんいただければと思います。要するにペトロは、明日にでも引き出されて公開処刑される、そんな絶体絶命の時にあったのでありました。

 ところがその夜、つまりペトロが殺されることになっていた前の晩ですが、天使が牢の中に現れ、二本の鎖につながれて眠っていたペトロの脇腹をチョンチョンとつついて起こし、何人もの番兵が何重にも見張っていたにも関わらず、ペトロを無事に牢の外に連れ出して、またどこかに消えてしまったというのです。

 皆さんも、こんな風に、困った時に天使が現れて、私たちを苦難からサッと助け出してくれたらいいなあ、愉快だなあと思いませんか。ただ、多くの人はそんなのは夢物語で、現実にはありっこない話だと決めつけてしまっています。でも、本当にそんなことはありえないのでしょうか。私の友人が富山で牧師をしているのですが、ある時、彼からこんなメールをいただいきました。

 7月17日(日)〜18日(月)に当教会の夏期学校を、富山市の「呉羽少年自然の家」という施設を使って行いました。たくさん集まりすぎて、たいへんでしたし、他の団体とのトラブルもあって、疲れはしましたが、一方、それを主が慰めるかのように、すばらしい証しも与えてくださいましたので、おすそわけします。それは、2日目のことでした。2日目は午前中、舟造りをしました。模型の舟ではありません。ちゃんと乗ることができる舟です。その舟を、呉羽少年自然の家の先生の指導のもとに造りました。4隻つくりました。そしてそれを池にもっていって、浮かばせて、実際に乗ることにしていました。ところがその時、ひとりの男の子が、歯の矯正用の金具を落としたというのです。困った顔をしていました。大切な物なのでしょう。とりあえず、CS教師たちで捜そうとしましたが、そこは芝生の生えた広いグランドで、しかもその子は友だちと走り回っていて、どこで落としたのか、はっきり分からない。ただでさえ広い場所なのに、芝生や短い草が生えていて、ちょっと捜しましたが、とても見つかりそうもありませんでした。しかも、造った舟を池に持っていって乗って遊ばなければ時間がありません。それでわたしは、とりあえず池に行って舟で遊んで、そのあと子供たちもみんなで捜したらどうかと思い、先に子供たちといっしょに池に行きました。しかし、その男の子は泣いていたので、CS教師3人だけが残って、その子に「お祈りしよう」と言って、神さまが見つけてくれるようにいっしょにお祈りしたのです。その時、CS教師の一人は、「このように祈って見つからなかったらどうしよう」と正直に思ったそうです。そして目を開けて探し始めると、なんとすぐに見つかったのです。まさにそれは、神さまがそこにあるよと導いてくださって、そこに置いていてくださったかのようにあったそうです。それで、3人の教師たちは、その男の子といっしょに神さまに感謝の祈りをしようねということで、感謝のお祈りをしたのです。 おそらくその子にとって、このできごとは忘れられないこととなるでしょう。そしてCS教師にとっても、この夏期学校が神さまによって守られていたことを確信することができたできごととなりました。

 ただ広い草原の中に、小さな落とし物をしてしまった。いつ落としか、どのあたりで落としたか見当もつきません。男の子は先ほど楽しかった夏期学校が急に悲しいものになってしまって泣きじゃくっています。教会学校の先生たちは、男の子のために一生懸命に捜しますが、やはりみつからない。とうとう自分たちでは捜しきれないと思って、男の子と一緒にお祈りをします。そして、目をあけてみると、なんとその小さな落とし物は、足下にあったというのです。嘘のようホントの話しです。

 私は、このメールをくれた友人と、時々このような日常にあった不思議な話をメールでやりとりしているのです。実は、私も最近ちょっと不思議なことを経験しています。それはですね、10年以上も音沙汰がなかったような人たちから次々と連絡があったり、再会したりということが続いているのです。高校時代、大学時代の友人であるとか、10年以上の教会を離れている人とか、教会にはいらっしゃいませんでしたがいろいろ電話などでカウンセリングした人とか、ここ3ヶ月ぐらいの間に、10人ぐらいの人と立て続けにそういう不思議な再会とか、電話とか、手紙とか、メールが私のところに舞い込んできたのです。

 先週、この教会にKさんという新来会者がこられましたが、この方もその一人なのです。礼拝の後、コーヒーサロンでお話しをしていますと、なんとこの方は17-8年前、私たち夫婦が新潟におりました時にたいへんお世話になった方のお孫さんだということが分かりました。当時、彼女は幼稚園生でありまして、私はちょっと覚えていなかったのですが、家内の方が彼女のことをよく覚えておりまして再会を懐かしんでおりました。よく話しを聴いてみますと、実は彼女は私を訪ねてきてくれたわけではないんですね。私が荒川教会にいるなんてまったく考えてなかったというのです。たまたま新潟から東京に出てきて、この近所にお友達がいらした。日曜日は学生時代にかよった三鷹の教会にいくつもりだったそうです。ところが寝坊をしてしまって、あわてて近所の教会を探して、荒川教会にいらしたというのです。こんな風に偶然がいくつもかさなりまして、先週、私はその方と懐かしいお話しをたくさんすることができたわけです。

 こういう偶然にしてはできすぎている体験というものを、実は皆さんもなさっておられるのではありませんでしょうか。ちょうど心の中で考えていた人に道でばったり出会ったとか、ちょっとしたタイミングで危機一髪の命が救われたとか・・・、

 わたしはよく人生の苦しみについてお話をします。しかし、今日は反対の話です。わたしたちに思いがけず訪れるのは苦しみだけではありません。人生には思いがけない出会い、喜び、慰め、励まし、助け、守りというものもあるのです。苦しみに比べて喜びというのはすぐに忘れる傾向があります。だから、人生は苦しみばかりだなんて思うかもしれませんが、よく思い返してみれば私たちの人生はほんとうに不思議な慰めや励ましによって守られているのです。詩篇40編を書いた信仰者は、それを数えてみて、このように語りました。

 わたしの神、主よ
 あなたは多くの不思議な業を成し遂げられます。
 あなたに並ぶものはありません。
 わたしたちに対する数知れない御計らいを
 わたしは語り伝えて行きます。(『詩篇』40編6節)


 「多くの不思議な業」、「数え切れない御計らい」、私の人生には、ほんとうに不思議なことがいっぱいある、できすぎていることがいっぱいある、きっと私はそれだけ大きな神様の愛に囲まれているんだと言うことなのです。

 この詩篇の信仰者は、人生のなにもかも恵まれているからこんなことを言っているのではありません。13-14節をみますと、この信仰者はたいへんな苦しみの最中にあることがわかります。

 悪はわたしにからみつき、数えきれません。
 わたしは自分の罪に捕えられ
 何も見えなくなりました。
 その数は髪の毛よりも多く
 わたしは心挫けています。
 主よ、走り寄ってわたしを救ってください。
 主よ、急いでわたしを助けてください。
 (『詩篇』40編13-14節)

 苦しいことも数え切れないと言っています。その数は髪の毛よりも多いと言っています。だけど、それだけじゃないんだよなあ、今までの人生を振り返ると、ほんとうに不思議な守り、不思議な助けがたくさんあった。その度に神様の愛を感じてきた。神様がわたしの人生を支えてくださっているということを感じてきた。今は本当に苦しいけれども、そのことを忘れないようにしよう。そのことを信じよう。きっと、この信仰者はそんな気持ちなのです。

 どうぞ、みなさんも数えてみてください。わたしたちは苦しいことを数えることはなれていますから、すぐにあれもこれもと思い出しますが、神の恵み、神の守り、それを数えるのです。幼き日より今日に至るまで、どれほど神様の不思議な御業によって守られてきたか、どれほど助けられてきたか、どれほど幸せをいただいてきたか。そして、そんな神様の愛を、苦しみの最中にあっても忘れないで、主に感謝しつづけなければならないのではないでしょうか。そうすると、ああ、神様は今度もわたしを守ってくださるはずだと、深い信頼が生まれてきます。そして、それが希望となり、忍耐して待ち望む力になるのです。 
天使の導く信仰生活
 さて、天使の話しです。天使は牢に鎖でつながれたまま眠っているペトロの脇腹をチョンチョンとつついて、「急いで起きあがりなさい」と、彼を起こします。ペトロが目を覚ましてみると、二重の鎖があっさりと外れていた。寝ぼけ眼で事態を掴みきれないでいるペトロに、天使は「帯を締め、履き物を履くんだよ。それから上着も忘れずにきなさい。さあ、用意ができたら、わたしについてきなさい」と、まるで母親が子どもに出かける支度をさせるようにいちいち指図をします。ペトロを言われるままに、天使についていきますと、脇にたっていたふたりの番兵も、牢の戸口に立っていたふたりの番兵も、それから牢の外にある第一の衛兵所、第二の衛兵所に詰めいてた番兵も、何も見えていないかのように天使とペトロを素通りさせてしまうのです。ペトロは天使に導かれている間、ずっとそれが夢だと思っていたようです。

 それで、ペトロは外に出てついて行ったが、天使のしていることが現実のこととは思われなかった。幻を見ているのだと思った。

 天使の導き、天使の救い、そんなことは現実のこととは思われない、夢のような話だと思うのは、私たちだけではなく、ペトロもそうでした。それだけではありません。ペトロのために熱心に祈り続けていた教会の信者たちも、ペトロが救われて自分たちのもとに帰ってきたとき、とても信じられなかったのです。

 こう分かるとペトロは、マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家に行った。そこには、大勢の人が集まって祈っていた。 門の戸をたたくと、ロデという女中が取り次ぎに出て来た。ペトロの声だと分かると、喜びのあまり門を開けもしないで家に駆け込み、ペトロが門の前に立っていると告げた。人々は、「あなたは気が変になっているのだ」と言ったが、ロデは、本当だと言い張った。彼らは、「それはペトロを守る天使だろう」と言い出した。しかし、ペトロは戸をたたき続けた。彼らが開けてみると、そこにペトロがいたので非常に驚いた。

 人々は、エルサレム市内にある大きな屋敷に集まって祈っていました。この屋敷はマルコの母マリアの家であったと書かれていますが、このマルコはバルナバのいとこでもあります。女中までつかっていたんですから、かなりの資産家だったのでありましょう。しかし、そのすべてを教会に捧げて、自分の家を教会の集会所としていたのです。迫害の最中ですから、人々は家には鍵をかけて、中に隠れるようにして集い、ペトロのために祈っていました。そこへペトロがやってきて戸を叩くのですが、誰もそれを信じられなかったということが書いてあるのです。神の救いを信じて祈っていたのですから、「ああ、神様は祈りをきいてくださったのだ」とすぐに大喜びをしてもよさそうなものですが、現実に起こった神の奇跡は、私たちの創造力や信仰させも超えて大きな神様の御業だったのです。

 先ほどご紹介した歯の矯正器具を落としてしまった男の子と、その子のためにお祈りをした教会学校の先生もそうですね。神様を信じてお祈りはするんだけど、まさかお祈りが終わったら、目の前にそれが現れるなんて思えなかった。もしかしたら、お祈りをしている間に天使がそれを運んで目の前に置いてくれたのかもしれません。神様が働かれるときには、それぐらい考えられないこと、不思議なことが起こるのです。

 天使の話は、聖書にいろいろありますが、わたしがいつも思い出すのは、サムソン誕生の物語です。サムソンというのは、旧約聖書に登場する怪力の男です。乱暴者で、女たらしで、聖書ではちょっと珍しいタイプの人物です。彼の両親はもともと子どもが授からないで悩んでいた夫婦でした。しかし、天使が現れ、「神様があなたがたに男の子を授けてくださる。彼はペリシテ人の手からイスラエルを解放する先駆者となるだろう」と告げます。こうして生まれたのがサムソンだったのでした。ところで、夫婦は天使が現れたときに、それが天使だと分からず、天使に向かって「あなたの名はなんというのですか」と聞きます。すると天使は「それは不思議という」と答えるのです。

 私たちが経験する不思議、それは天使の業かもしれない。わたしはそう思っています。サムソンの両親が、天使を天使だと思っていなかったということも興味深いことです。天使というと白い衣を着て、頭に輪っかがあったり、背中には翼があったり、そういうイメージがありますが、それは後の世の人たちが造り上げたイメージです。聖書に出てくる天使は、時には光に包まれていますが、ときには埃にまみれた旅人の姿であったり、まったく姿が見えないということもあります。つまり、私たちは天使に出会っていても、まったく気づかないということは十分にありえるのです。しかし、天使の名は不思議です。私たちの身の回りには、ほんとうに不思議が溢れている。その中に天使が隠れているのではありませんでしょうか。ペトロも天使が離れたあとに、ああ、天使だったんだと気づくのです。

 第一、第二の衛兵所を過ぎ、町に通じる鉄の門の所まで来ると、門がひとりでに開いたので、そこを出て、ある通りを進んで行くと、急に天使は離れ去った。ペトロは我に返って言った。「今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、わたしを救い出してくださったのだ。」

 天使の導く信仰生活、天使の救いを経験する信仰生活、それは夢物語のようではありますが、現実の中にそういう夢のような話しが起こる。そして、神様に驚かされ、驚くべき感謝、讃美に溢れて歩む、それが信仰生活なのです。
天使は離れた
 今日のお話しには、もう一つ、見落としてはならない事があります。天使が牢の中にいるペトロを外に連れ出した後、「急に天使は離れ去った」と書かれていることです。よく守護天使などといって、いつも自分を離れないで守ってくれる天使がいるなんてことを言う人がいます。15節に、教会の人たちが「ペトロを守る天使」なんてことを言っていますから、そういう考えは昔からあったのかもしれません。しかし、そんなのはまったくキリスト教信仰とは関係ないと思います。天使は仕事をしたら、また神様のもとに帰るんです。
 
 そもそも守護天使などというように、天使が自分を守ってくれるという考えというか、信仰がまったくおかしいのですね。天使は、神様の言われた仕事をするだけなのです。天使が守るのではなく、神様が守ってくれる。イエス様が守ってくれる。そのために、私たちに天使を遣わしてくださる。それが聖書的な正しい考え、信仰です。

 『ヨハネの黙示録』というのは、殉教したヤコブの弟であるヨハネがパトモス島で、天使に示された幻など書かれているのですが、ヨハネはその天使を礼拝しようとすると、天使はヨハネに「わたしではなく、神様を礼拝しなさい」と言ったと記されています。

 わたしは天使を拝もうとしてその足もとにひれ伏した。すると、天使はわたしにこう言った。「やめよ。わたしは、あなたやイエスの証しを守っているあなたの兄弟たちと共に、仕える者である。神を礼拝せよ。」(『ヨハネの黙示録』19章10節)

 天使というのはあくまでも神様に仕える者、イエス様に仕える者なのです。私たちを愛し、私たちを守ろうとし、救おうとしてくださっている神様、イエス様が、その御業のために遣わしてくださるのが天使であります。ペトロも、天使が救ってくださったとは言っていません。主が、天使を遣わして、わたしを救ってくださったと言っているのです。

 それにしましても、主が天使を遣わしてくださるということ、これは本当に素晴らしいことですね。神様は私達を愛してくださるだけではなく、愛の御業を行うために、天使を遣わし、本当に考えもつかないような方法やタイミングで、私たちを慰め、励まし、救ってくださるのです。

 わたしの神、主よ
 あなたは多くの不思議な業を成し遂げられます。
 あなたに並ぶものはありません。
 わたしたちに対する数知れない御計らいを
 わたしは語り伝えて行きます。(『詩篇』40編6節)


 このような信仰をもって、私たちも歩んで参りたいと願います。 
目次

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

お問い合せはどうぞお気軽に
日本キリスト教団 荒川教会 牧師 国府田祐人 電話/FAX 03-3892-9401  Email:yuto@indigo.plala.or.jp