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前回は、ユダヤのヘロデ王の迫害によって使徒ヤコブが殉教したお話し、続いてペトロもまたヘロデの手にかかって捕らえられ、殉教の危機に瀕したというお話しをいたしました。これまでもキリスト信者たちへの迫害はありました。殉教者も出ました。しかし、それらはユダヤ教の指導者たちによる迫害、つまり宗教的な対立、憎悪が原因の迫害であったわけです。けれども、ここにきて国家権力がキリスト教を迫害し始めたということが書かれているわけです。なぜ国家権力がキリスト教を迫害したのか? ヘロデはがキリスト信者たち、教会を迫害したのは、キリスト教が憎かったからではありませんでした。しかし、キリスト教を迫害するとヘロデに良いことがあった。ユダヤ教の指導者たちからの絶大なる支持を得ることができたのです。そのために、教会はスケープゴートとされたのでした。
それから同じようにヘロデの迫害を受け、捕らえられたヤコブとペトロでありますが、二人の運命は対照的でありました。ヤコブが捕らえられた時も教会は必死なる祈りを捧げたでありましょうけれども、彼は殉教しました。他方、ペトロは天使に導かれ、救われ、再びキリストの使徒として働くことがゆるされたのであります。なぜヤコブは死に、ペトロは救われたのでありましょうか。これはもちろん神のみぞ知ることでありますけれども、殉教するにしろ、救われるにしろ、キリストの僕としての使命を全うした。そのことが重要なのだということを先週はお話ししたのでした。
殉教というのは、一見すると敗北のようでありますが、実はそうではありません。イエス様は、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(『ヨハネによる福音書』12章24節)と言われました。ヤコブは主のために多くの実を結ぶ者となるために、「一粒の麦」となってこの世に散ったのであります。
今日お読みしました『使徒言行録』12章21-23節に、ヘロデ王の死について書かれています。
定められた日に、ヘロデが王の服を着けて座に着き、演説をすると、集まった人々は、「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けた。するとたちまち、主の天使がヘロデを撃ち倒した。神に栄光を帰さなかったからである。ヘロデは、蛆に食い荒らされて息絶えた。
人々がヘロデを神のごとく崇め、ヘロデも心地よく演説しているその時に、ヘロデは突然倒れました。それは人間の思い上がりを打ち砕く神の裁きであったと言われています。彼の死の様は非常に惨めでした。「蛆に食い荒らされて息絶えた」とは、彼の栄光がいかに虚栄であったかということを物語っているのです。
それに対して、ヤコブの尊い命を失った教会について、聖書はこう語ります。24節
神の言葉はますます栄え、広がって行った。
ヤコブの死は、「一粒の麦」でした。神の言葉が栄え、世界に広まっていくために捧げられた尊い命でありました。そして、それはイエス様がおっしゃってくださったように多くの実を結んだのであります。
そのようにして見ますと、ヤコブは決してヘロデに敗北したのではないということがお分かり頂けるのではないでしょうか。人間にとって大切なことは「いかに生きるか」ということだと思いますけれども、それは「いかに死ぬか」ということと表裏一体です。ヤコブの死は神による勝利を物語っており、ヘロデの死は神に対する敗北を物語っているのです。
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さて、今日は、牢に捕らえられたペトロの物語から、「ペトロの平安」というテーマでお話しをさせていただきたいと思います。ヘロデは十二使徒のひとりであるヤコブを殺すだけは飽きたらず、十二使徒の筆頭であり、信者たちの最高の指導者であったペトロをも殺そうとしました。そして、ペトロを捕らえ、二重、三重の監視の下、牢に閉じこめたのであります。牢の中のペトロは四六時中二本の鎖に繋がれ、そのすぐ脇で、二人の兵士が絶えずそれを見張っていました。また牢の戸口にも二人の番兵がおり、ペトロを見張っておりました。このように四人一組でペトロを見張り、四組の番兵が代わる代わる監視の目を光らせていました。牢の厳重さは、牢内だけのことではありませんでした。牢を出ましても、第一の衛兵所、第二の衛兵所があり、たとえそこを抜けて出しても、城壁に囲まれたエルサレムの町の中、とても逃げ切れるような状況ではありませんでした。つまり、ペトロはもう一巻の終わり、どうすることもできない状況にあったのであります。
しかし、面白いことが書かれています。6節を読んでみたいと思います。
ヘロデがペトロを引き出そうとしていた日の前夜、ペトロは二本の鎖でつながれ、二人の兵士の間で眠っていた。番兵たちは戸口で牢を見張っていた。
「ヘロデがペトロを引き出そうとしていた日の前夜」とあります。つまり、ペトロが民衆の前でさらし者にされ、ヤコブに続く殉教者となるはずの前夜であります。厳重な監視だけでも絶望的な状況なのでありますが、もうどんなチャンスも訪れる時間すらもない。そういう状況であります。その中で、ペトロはすやすやと眠っていたということが書かれているのです。
これは本当に不思議なことです。私たちは、ちょっと嫌なことがあったり、心配事があったりすると、もう心が騒いで眠れなくなってしまいます。それが重症になると不眠になってしまいます。ところがペトロは、よほど剛毅な人間のようで、明日は確実に殺されるであろうという日に、まるで何事もないかのように眠っていた、というのです。
これが、イエス様が私達に与えてくださる平安なのです。イエス様は十字架におかかりになる前夜、「わが平安を汝らに遺す」と、弟子たちに約束してくださいました。『ヨハネによる福音書』14章27節に、
「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」
とあります。イエス様の平和、平安とは何か? それは神の子だけがもつことができる平和、平安です。神の子は、この世のどんな力よりも強い神の愛に守られています。この愛は、どんなことがあっても揺らぐことがありません。それが神の子のもつ平和です。平安です。
それに対して、私達が普段、拠り処にしているような平和、守ろうとしている平安というのは、言ってみればガラスの平和、ガラスの平安ですね。少しでもぐらぐらするような事があれば、たちまち粉々に壊れてしまう。家も、財産も、健康も、家族も、仕事も、いつ私たちから失われたっておかしくないのが人生です。しかし、イエス様の平和、平安、つまり神の子の平和、平安をいただけば、この世のどんな嵐の中でも大船に乗った気で生きていくことができるのです。
パウロはこのように語っています。
もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。・・・これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。(『ローマの信徒への手紙』8章31-39節)
「主キリスト・イエスによって示された神の愛」、これを私たちが信じ、受け入れて、心にしっかりと持つならば、何があろうとなかろうと大丈夫だという不思議な平安が、私達を守ってくれるというのです。
まだ二十代の頃、私は「クリスチャンというのは神様の愛に守られているのだから、どんなことがあっても、祈れば成功する」と信じておりましたし、いつも神様の力によって成功する自分を信じることが信仰であり、どんな状況の中でもそれを思い描くことが希望だと思っていました。多分、そんな説教をしたのでありましょう。礼拝の後、ある婦人がわたしに近づいてこられて、穏やかな口調でこう話しかけてこられました。「先生、わたしはいつも最悪の事態に陥った自分のことが思い描いてしまうのです。これは不信仰ですかねぇ」と。
もしこの方が教会に来て間もないような方でしたら、私は「神様を信じれば、きっとあなたも最高のことばかりをイメージできるようになりますよ」と答えていたかもしれません。ところが、このご婦人は、どう見たって私なんかよりずっと信仰も篤いし、祈りも深い方なのです。その時、わたしは何と答えたか覚えておりませんけれども、わたしはこのご婦人のおっしゃったことが頭から離れず、今日まで歩んできました。そして、今になってようやくこのご婦人のおっしゃったことが分かるようになってきたのですね。神様の愛を信じる生活というのは何でもかんでも願いがかない、思い通りにいくと約束された生活ではありません。祈りが聞かれない時もある。思いがけない試練が襲ってくる時もある。大きな過ち、罪を犯して、もう駄目だと打ちひしがれてしまう時もある。そういう時にもなお、神様の愛が私を離れることはないのだ、守っていてくださるのだと信じること、それが神様の愛を信じる生活です。
こんな話しを聞いたことがあります。ある信者が病気になって、牧師が見舞いにきてくれました。牧師の祈りを聞いた後、その方は「先生、わたしは大丈夫でしょうか」と聞きました。すると、「大丈夫です」という自信に満ちた牧師の答えが返ってきたので、「ああ、よかった。神様はわたしを癒してくださるんですね」とうれしそうに言うと、牧師は「それは分かりません。でも、あなたの病気が治っても、治らなくても、あなたは大丈夫です。神様の愛があなたを離れることはありません」と言ってくださったというのです。
これが本当の平安です。イエス・キリストが私達に与えてくださる平安とは、こういうものなのです。ですから、ペトロは助かると思って安心していたのではないと思いますね。生きるにしても、死ぬにしても、神様の愛が私と共にある。だから、恐れない。神様の愛の中で安んじていることができる。私達も、こういう平安に生きる者でありたいと願うのです。 |
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今日はもう少しこの平安にについてお話しをしたいのです。神の子の平安、どんな時にも神様の愛によって守られている平安、この平安をいただくためには、必ずイエス様の十字架を知る必要があります。イエス様が私達のすべての罪をゆるすために、御自分の命をささげてくださったことを知る必要があるのです。
なぜなら、私達はしばしば自分は神様に愛される値打ちがないものだと思ってしまうからです。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」と、御言葉は伝えています。それは分かるのです。神様が味方になってくださるならば、何も恐いものはありません。しかし、自分は本当に神様に味方をしてもらえるような人間なのだろうか。ペトロなら、わかる。でも、わたしは駄目だ。そんな風に思ってしまったら、「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」という言葉も、自分には何の力ももたらさいものになってしまうのです。
実は、ペトロははじめから剛毅な人間ではなかったし、このような平安を生まれつきもっていたのではありません。慌てたり、恐れたり、逃げ出したり、ペトロはもともとそのような当たり前の人間でありました。では、そのような当たり前の人間がどうして、このような強い心をもった人間となることができたのか。それはひとえにイエス様の十字架の愛を知る者となったからなのです。
ペトロの人生における最大の失敗は、愛して止まぬイエス様を裏切ってしまったことでありましょう。ペトロは、イエス様に対する愛について、誰よりも深いと自信をもっていました。十字架の前夜も、ペトロは「決してあなたを離れたりはしません」と、声を大にして誓いました。しかし、いざイエス様が十字架にかけられようとすると、ペトロは怖じ気づいて、「わたしはあんな人は知らない、私は何の関係もない」と言って、イエス様の前から逃げ出してしまったのであります。一生の不覚というのは、こういうことをいうのでありましょう。
ペトロはこの一件で今までのすべてを失ってしまったような喪失感にひたります。いままでイエス様に誓ってきた愛と信仰のすべてが偽りとなってしまった。二度とイエス様の弟子を名乗る資格はなくなってしまった。どんなに自分を責めても失ったものを取り戻すことはできません。ペトロは田舎に帰り、イエス様に出会う前の生活、漁師に戻ろうとします。しかし、それもうまくいきません。
そんなペトロに、復活されたイエス様がお会い下さるのです。イエス様は、「お前は私を愛しているか」と、ペトロに問われました。ペトロは心の中で叫びます。「はい、主よ。わたしはあなたを愛しています」と。しかし、彼はそれを口に出して言うことができないのです。それを言う資格のない者であることが自分にはよく分かっているからです。ペトロは小さな声でやっとこう答えました。「私の心をあなたはご存じです」と。するとイエス様はうなずきながら、「わたしの羊を養いなさい」と言ってくださったのでした。そういうやりとりが三度も繰り返されました。それによってペトロは、イエス様がわたしのすべての罪をゆるし、私をなおも弟子として愛し、信じてくださっているのだということを知ったのです。
みなさん、私達もペトロのような経験をしたのではありませんでしょうか。まさか自分がそんなことをする人間だとは思っていなかった。自分はもっと強くて、賢い人間だと思っていた。しかし、気がついてみたら、まさしく自分はそんな自分が最も軽蔑するような愚かで、弱くて、卑怯な人間だった。私もそうです。本当に自分の罪深さを思います。今まさにそういう自分の罪深さに恐れおののいています。しかし、イエス様の十字架を仰ぐとき、こんな愚かで、罪深い者を、なお見捨て給うことなく愛してくださるお方がおられる。私の命のために、御自分の命を投げ出してくださるお方がおられる。その大きな愛を知って、魂が救われるのです。わたしがどんな人間であっても、イエス様は変わることのない愛をもって私を愛してくださっているのだ。こんな私でも神の子とされているのだ、という喜びが溢れてくるのです。
私たちは困ったことがあると「どうしようか」と心が騒ぎ、何か失敗をすると「もう、わたしは駄目だ」と深く落ち込んだりいたします。しかし、わたしのすべての罪を赦し、なお愛してくださるイエス様、そのお方によって示されている神様の愛。このことを知るとき、私達はほんとうに、自分は大丈夫なんだという平安を戴くことができるのです。十字架の前夜、イエス様が「わが平安を汝らに与ふ」といわれたのは、この平安なのです。この平安は、自分が何ものであっても与えられる平安なのですから、決して揺らぐことのない平安です。イエス様の十字架を仰ぐとき、私達はどんな自分であろうと、どんな困難があろうと、このような平安に生きることができるのです。
今日は牢の中で眠るペトロの話をいたしました。明日は殺されるという前夜のことであります。そのような時にも、イエス様の十字架の愛によって与えられた平安はゆらぐことがありません。私達が日々、恐れたり、心騒がせたりするのは、この平安のうちに身を横たえていないからではありませんでしょうか。十字架の愛を信じましょう。愛される値打ちもないような私たちを、それで愛してくださるのがイエス様の十字架の愛なのです。そのような確かな愛の中で、私達も世にはなき神の平安を戴きながら、試練の中を歩む者でありたいと願います。
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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