ペトロ物語(41)
「ヤコブの殉教、ペトロの逮捕」
Jesus, Lover Of My Soul
旧約聖書 コヘレトの言葉 9章1-2節
新約聖書 使徒言行録 12章1-6節
ワンパターンの救い
 ヘロデ王の迫害によって使徒ヤコブが殉教し、続いてペトロが捕らえられ、殉教の危機に瀕します。しかし、そこに天使があらわれ、幾重にも重なる厳重な警戒のもと牢屋に捕らえられていたペトロを、いとも簡単に救出し、ペトロは再びキリストの福音の伝道に身を投じたというお話しへと続いていくのですが、今日はヤコブの殉教、ペトロの逮捕という部分に焦点をあててお話しをしたと思います。

 これは、危機があって、祈りがあって、神の救いがあって、それを経験した人が神に捕らえられて新しい人生を生き始める。ある意味では、ワンパターンのお話しといえます。聖書には、病からの救われた人、悪霊から救われた人、罪深き生活から救われた人、人生の失敗や挫折から救われた人・・・いろいろな救いの物語が書かれています。しかし、突き詰めて言えば、今申しましたような、危機があって、祈りがあって、神の救いがあって、それを経験した人が神に捕らえられて新しい人生を生き始めるという形にみんな納まるのです。

 「わたしの人生の問題は、そんなワンパターンの救いでは納まらない。極めて特殊な、難しい問題だ」と思う人もあるかもしれません。確かに、わたしたちはみんな、それぞれに異なる事情を抱えておりますし、自分の問題は特別だ、誰にも分かってもらえない問題だ、誰にでも分かるようなありきたりの仕方では絶対に解決しないのだと思う気持ちは分かります。実は、聖書の中にも本当に様々な苦しみを抱えた人が出てくるのです。誰一人同じではないと言ってもいいでしょう。しかし、それにも関わらず、聖書が伝える救いの物語は、突き詰めると、ワンパターンの物語なのです。

 危機があって、祈りがあって、神の救いがあって、それを経験した人が神に捕らえられて新しい人生を生き始める・・・これは何を物語っているのでしょうか。それは、人生における凡ての問題は、ただ神様によってのみ解決されるということ、そして凡ての解決は神様によって新しい人生を生き始めるということにあるのだということなのです。特別な事情、特別な理由、特別な都合、いくらそういうものがあったとしても、それに関わらず、その問題を解決するのは神様しかおりません。他に救いはないのです。そして、神様は本当に驚くべき御力をもって、私達を救ってくださるのです。

 ただ、その救いというのは、艱難からの救出ということで終わりません。艱難からの救出という出来事を通して、生ける神様と出会い、その生ける神様と共に歩む新しい人生がそこから始まるのです。この新しい命をいただくこと、これこそが、本当の救いなのです。なぜならば、先週のお話しとつながるのですが、人間にとって問題なのは不幸ではありません。不安にこそあるのです。さらに言えば、その不安の源は、人間の神様に対する罪にあります。それが解決されない限り、「一難去ってまた一難」というように一つの問題が解決すれば、次の新しい問題で苦しむだけなのです。そういうものを、聖書では救いとはいいません。救いは、罪や不安に支配された人生から解放され、神様の愛と恩寵に溢れた新しい人生を生きるようになることにあるのです。
スケープゴート
 今日ご一緒にお読みしましたペトロの物語は、そういう典型的な救いの物語の一つの中にあります。しかし、この救いの物語はとても詳細に、生き生きと、それが記されているという点においては、貴重な物語だと言ってもいいかもしれません。そこで今日は、少し細かく聖書を読んでみながら、これを味わってみたいと思うのです。まずはヤコブの殉教の話しです。

 そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。(1-2節)

 「そのころ」とは、11章27-30節に、クラウディウス帝(ローマの皇帝)の時代に、大飢饉が起こったという話しがあります。この大飢饉で人々が、特に貧しい人々が苦しんでいる頃、という意味であります。

 こういう時に、人々を政治によって救わなければならないのが王様、ヘロデ王の仕事でありました。ところで、政治によって人を救うというのは、どういうことなのでしょうか? 私は政治家の仕事というのは、一言でいえば調整だと思っています。現実というのは理想からかけ離れています。政治家の仕事というのは、貧富の差がない社会であるとか、犯罪のない社会であるとか、そういう夢物語のような理想社会を実現することではなくて、理想からかけはなれた現実の中で、人々がなんらかの公平感をもって生活できるようにすることだと思うのです。貧しい人々や障害をもった人々、つまり弱い人々にもみんなと同じようなチャンスを与えるとか、賄賂とか談合のようなインチキを取り締まるとか、悪いことをした人には懲罰を与えるとか、そういうことが政治の役割なのです。

 たとえば飢饉の時には、ほっとけば穀物が市場原理でどんどん高くなります。そうすると、金持ちが穀物を独占するようになる。けれども、穀物というのは金持ちであろうと、貧乏人であろうと、すべての人が必要としているものであり、命に関わる特別なものであります。貧乏人はどんなに働いても食べることができず、金持ちは穀物を買い占め、それを高く売ってどんどん肥え太っていく。そんな社会の不公平を是正する、調整する、そこに政治が関わる必要があるのです。政治というのは無から有を作り出すことはできません。しかし、今ある現実の中で、いかに人々が命を、生活を守ることができるかということに苦心するものなのであります。

 旧約聖書で言えばヨセフが七年に及ぶ飢饉の際にすべての人に穀物が行き渡るようにしたように、あるいは日本でいえば二宮尊徳が天保の大飢饉で多くの餓死者が出る中、桜町の農民たちに一人の餓死者も出さないよう村人たちを守ったように、穀物が少ない時であるからこそ、富める者も貧しい者もなく、みんなが平等に、公平にそれを受け取ることができるように調整する。たとえ受け取るものがわずかでありましても、平等であり、公平であるならば、人々は納得するのです。

 しかし、悪い政治というのがあります。政治的な無能を隠すため、それに対する人々の不平不満、怒りや憎しみをかわすため、スケープゴート(生け贄)をたてるんですね。北朝鮮が民衆の不満を逸らすために、日本やアメリカを敵国視するように民衆を教育するというのも、スケープゴートです。政治がうまくいかないときほど、そういうことをするわけです。

 ヘロデ王がクリスチャンを迫害したというのも、きっとそういう理由だと思います。今までもクリスチャンへの迫害はありました。しかし、それはユダヤ教によるキリスト教への迫害で、極めて宗教的な問題だったんですね。ここではじめて、この世の権力によるクリスチャンへの迫害が出てくるのです。

 なぜ、この世の権力がクリスチャンを迫害したのか? クリスチャンというのは決して反社会的な活動をしていたわけではありません。たとえばペトロは、アジアの諸教会に宛てた手紙の中で、こんな風に書いています。

 主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです。(『ペトロの手紙1』2章13-15節)

 あるいは、パウロはローマにある教会に宛てた手紙の中で、こう言っています。

 人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。(『ローマの信徒への手紙』13章1-2節)

 ペトロとパウロ、この二人は、イエス様にはじまるキリスト教を一世紀足らずの間にローマ帝国の隅々まで広げて、ユダヤ教という殻をやぶり、世界宗教へと伸展させた立役者でありますが、この二人が揃いも揃って信者たちに命じているのは、この世の権力もまた神に由来するものなのだから、それに従いなさいということなのです。この世の権力が、神の国に逆らう時だってあるのは承知の上で、彼らはこういうことを言っているのです。

 では、この世の権力が目に余る過ちを犯す時、そういうことをいつでも起こりえることですが、その時、クリスチャンはどうしたらいいのでしょうか。ペトロとパウロは、この世の権力には逆らい得ないのだから、どんな時も追従しなさいといっているのではありません。クリスチャン、あるいは教会というのは、この世において預言者的な役割を果たすように召されているのだと思うのです。預言者というのは、未来を予言するというのではなく、神の言葉を伝える人です。誰に対しても、どんな時においても、それを人々が聞こうとしようがしまいが、神の言葉を伝えるのです。この世の権力に対して、「然り、然り。否、否。」というのです。そのために自分の身がどうなろうとも、神の言葉を世に伝えるということに自分を捧げる。それから先のことは神様御自身がなさることである。それが預言者の生き方なのです。

 いずれにせよ、ペトロの手紙やパウロの手紙の中にある勧めの言葉をみますれば、教会というのは決して反社会的な存在ではありませんでした。この世の制度は、神の制度に反するから革命を起こせ、戦えとか、あれは悪い王様だからやっつけろとか、ペトロはそういう過激なことは言っていないのです。それどころか、この世の権力や制度に従えと勧めているわけです。そうしますと、この世の権力がこれを迫害する理由は少しもないはずなんですね。しかし、政治というのは、正しさより数が物を言う世界でもあります。少数派のクリスチャンをスケープゴートにすれば、多数派のユダヤ教徒たちを自分の味方にできる。ただ、それだけのために、ヘロデ王はクリスチャンを迫害し、使徒ヤコブを殺してしまったというわけです。

 そして、それがユダヤ人に喜ばれるのを見て、更にペトロをも捕らえようとした。それは、除酵祭の時期であった。ヘロデはペトロを捕らえて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。過越祭の後で民衆の前に引き出すつもりであった。3-4節

 十二使徒のひとり、しかもイエス様がいつも側においていたペトロ、ヤコブ、ヨハネという三人のうちの一人であるヤコブを殺害したことが功を奏し、ヘロデ王は飢饉に対する失政にもかかわらず、「ユダヤ人」・・・これは貧しいユダヤ人ではなく、宗教的な指導者たち、有力者たちのことを意味すると思いますが、そういう人たちからの絶大な人気、支持を得ることができたヘロデ王は、これに味をしめて、ペトロを殺せばもっと自分は支持されるだろうと読みます。そして、実際にペトロを捕らえて、牢屋に入れてしまった。

 ユダヤ人の祭りが終わったら・・・祭りには大勢の人がエルサレムに集まってきます、そういう人たちの前で、これを見せ物にして、殺してしまおう。そうすればユダヤ人の有力者たちが喜ぶだろうと踏んだわけです。飢饉に対する政策は何も考えられなくても、こういうことだけには悪知恵が働く。何が正しいことか、何が人々を救うことになるか、そんな事は少しも考えないで、どうしたら自分を守ることができるのか、どうしたら自分の思いを実現できるのか、そんなことばかりを考えている、それがヘロデ王でありました。 
殉教の心
 殉教したヤコブ、そして捕らえられ、その命は風前の灯火となったペトロにしてみれば、ヘロデ王の人気取りのための生け贄とされてしまったのでありまして、まったく理不尽な話です。この世的で遣われている言い方をすれば、「死んでも浮かばれない」ということになりましょう。

 しかし、使徒ペトロやヤコブもそんな風に考えていたのでしょうか。使徒ヤコブはヘロデ王の手にかかって、十二使徒の中の最初の殉教者となってしまいました。まだ若かっただろうと思います。弟のヨハネは、使徒たちの中で一番長生きをし、最後はパトモス島で過ごしました。彼がそのパトモス島でしたためた『ヨハネの黙示録』に、こういう自己紹介文を書いています。

 わたしは、あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである。(『ヨハネの黙示録』1章9節)

 「苦難、支配、忍耐にあずかっている」、なんだかとても苦しそうな人生ですね。長生きをしたために、ヨハネは他の使徒たちの何倍もの苦しい経験をしたのではありませんでしょうか。パトモス島で天のキリストの素晴らしい幻を見せられ、ヨハネはどんなにあこがれたでしょうか。ああ、はやく天国に行きたい。イエス様にお会いしたい。私もちょっと苦しいことがありますと、そういうことを考えてしまいます。しかし、他の使徒たちはみんな天国に行ったのに、ヨハネにはなかなか神様のお呼びがかからない。この地上の苦しい生活の中に、なおも生き続けなければならない。もちろん、それは神様の務めがあるからのことでありますが、それでもヨハネは天国に憧れ続けでありましょう。長く生きれば幸せ、ということではないのです。

 ヤコブとヨハネ、この二人の兄弟には面白いエピソードが残っております。まだイエス様と共に生活をしているときのことですが、二人の母親が息子たちと一緒にイエス様のところに来て、ひざまずき、「うちの二人の息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、もうひとりは左に座ることができるように約束してください」と頼んだというのです。すると、イエス様はヤコブとヨハネをみて、「あなたがたは、自分が何を求めているのか、わかっていない。わたしの飲もうとしている杯を飲むことができるのか」とお尋ねになりました。二人は口をそろえて「はい、できます」と答えたというのです。(『マタイによる福音書』20章21-22節)

 「わたしが飲もうとしている杯」と、イエス様が言われたのは十字架のことです。十字架というのは、殉教です。神の栄光のために、自分の身をささげて死ぬことです。その覚悟はあるのかと、イエス様はヤコブとヨハネに問われました。彼らは「あります」と即答したのです。その時、どこまでイエス様の真意が通じていたのかははなはだ疑問ですが、彼らはふたりともその約束のとおり、神の栄光のために苦い杯を飲んだと言えるのではないでしょうか。ヤコブは早死でした。ヨハネは長生きでした。しかし、そのどちらも苦い杯だったのです。そのようにして、イエス様にささげた生涯をまっとうしたのです。長かろうが、短かろうが、人生に与えられた使命を全うするということが幸せなのではありませんでしょうか。逆に、それができないということが不幸せなのではありませんでしょうか。

なお神の御手にあり

 他方、ペトロは捕らえられ、異常なほど厳重な警戒をもって牢屋の中に投げ込まれました。「四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。」とあります。テロリストならいざ知らず、ひとりの善良な市民に過ぎないペトロを、十六人の兵士が交替で番をして見張ったというのです。それだけではありません。6節や10節を読んでみますと、ペトロは二本の重い鎖でつながれていた。また、牢の外にも衛兵所があり、それを過ぎても第二の衛兵所がありました。二重、三重、四重に、ペトロは監視され、つながれていたのです。彼の命はまったくヘロデ王の手の中に握られていました。そこからの脱出などまったく不可能なことでした。

 しかし、ペトロや、ペトロのことを案じる教会の信徒達は、決してそんな風には考えていませんでした。このような時にも、なおペトロの命は、ヘロデ王の手の中にあるのではない。神の御手のなかにあるのだ。そう信じていたのです。だから、教会の信徒たちは、自分たちに迫害の手が及ぶことも恐れないで、みんなで集い、ペトロの為に祈りました。また、ペトロは、明日には処刑されるというのに、牢の中で二本の鎖につながれたまま、すやすやと眠っていたというのであります。この希望、この平安はどこから来るのでしょうか。それは、どんな時にも、私達の命は神の御手のなかにあるのだという信仰以外にないのです。

 今日、併せてお読みしました『コヘレトの言葉』9章1-2節にはこういうことが書かれていました。

 わたしは心を尽くして次のようなことを明らかにした。
 すなわち
 善人、賢人、そして彼らの働きは
 神の手の中にある。
 愛も、憎しみも、人間は知らない。
 人間の前にあるすべてのことは
 何事も同じで
 同じひとつのことが善人にも悪人にも良い人にも
 清い人にも不浄な人にも
 いけにえをささげる人にもささげない人にも臨む。
 良い人に起こることが罪を犯す人にも起こり
 誓いを立てる人に起こることが
 誓いを恐れる人にも起こる。


 ここには、人生に起こることはみな同じで、善人と悪人、清い人と不浄な人、良い人と罪人を区別しないということが書かれています。イエス様も「天の神様は善人にも悪人にも太陽を昇らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる」とおっしゃいましたが、それと同じ事です。だから、クリスチャンになったらと言って、いいことばかりあるのではないのです。

 しかし、善い人と悪い人、正しい人と正しくない人に、たいへん大きな違いもあるのです。『コヘレトの言葉』は、「善人、賢人、そして彼らの働きは、神の手の中にある。」というのです。同じように苦しいこと、辛いこと、悲しいことがあったとしても、私の人生は、私の命は、神の御手のなかにあるのだと言える人はまことに幸いな人ではありませんでしょうか。

 私達の中には、ペトロのように獄に捕らわれるという経験をする人は少ないかもしれません。しかし、これからも絶対にないとは言えません。あるいは獄に捕らわれていなくても、ペトロのように二重、三重、四重の扉が未来の前に立ちふさがり、だれがどう考えたってもう駄目だという現実というものを経験することはあるのです。ダビデが親友のヨナタンに、「死とわたしとの間はただの一歩です」(サムエル記上20章3節)と言った言葉を、わたしはときどき思い起こします。「もう死んでしまう」、「もう死ぬしかない」、「もう死にたい」と、死の一歩手前まで追いつめられるということが、私達の生活に起こりえるのです。そのことに善人悪人の区別はありません。どんな人にもそういうことは起こりえます。

 しかし、そのような時にもなお、わたしは神の御手のなかにあるのだと言える人は、その神の御手のなかで平安を得ることができます。神の御手のなかで希望を持つことができます。たとえヤコブのように本当に死ぬとしても、そうなのです。なぜなら、神の御手のなかにある命は、天の国で生きることができるからです。あるいは、絶体絶命のピンチにあっても、神様の御手のなかではどんな奇跡だって起こるからなのです。

目次

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