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星新一の書いた「笑い顔の神」という物語があります。
ある平凡な男が畑仕事をしている時、笑い顔をした神様の木像を見つけます。つまらない物だと思ってたきつけにしようと考えると、木像が「わしは神だ。たきつけにするなどけしからん」と語りかけてきたのでした。そこで男は神様を家に持ち帰り、床の間に安置し、「なにとぞお金持ちにしてください」と願い事をしました。
やがて収穫の時期が来て、台風がやってきます。村人たちは皆、台風の被害を受けました。ところが、彼だけは実に幸運なことに一日だけ早く収穫していたために、一切の災難を免れることができたのでした。これがきっかけとなり、男の運命は好転していきます。村人たちは男のもとに金の融通を頼み、男は高い金利をとって貸しました。小金を持つようになった彼は手を広げ、村に入ってくる商品を独占的に販売するようにもなります。こうして彼は大いに儲け、財産をたんまりと殖やすことができたのでした。
男は神様の木像の前にひれ伏して「お陰様で、私は村一番の長者になることができました。あなたは素晴らしい福の神です」と祈ります。すると神様は、「お前は何か勘違いをしているようじゃな。わしは福の神ではない。貧乏神じゃ。村人たちが苦しみながら貧乏になっていく様を見ていると笑いが止まらないわい」と答えたのでした。間もなく、貧乏のどん底に陥った村人達が一揆を起こして、長者となったこの男の家に押し寄せてくる・・・というお話しです。
ここには自分の幸せだけを追求する者たちへの痛烈な皮肉があります。誰だって幸せになりたいと願っています。お金も欲しいし、仕事も成功したい。当たり前のことです。しかし、人の不幸を食いものにして金持ちになる。人を陥れてでも仕事を成功させる。そうやって自分一人がいい思いをすることが本当に幸せなことなのかどうか、私達はよく考えてみる必要があるのです。
荒川教会の会報「うたごえ」で紹介したことがありますが、星野富弘さんが書いたこういう詩があります。
旅行です。晴れにしてください。
田植えです。雨をお願いします。
日本中からの願いごと
神様も困った
それで
半分ずつかなえてあげましょう
というのでしょうか
今日は曇り
誰もが幸せを願っているということは、自分だけではなく他の人も幸せを願っているということです。晴れを願う人と雨を願う人が並んで神様にお祈りをしたら、いったい神様はどうなさるのか。神様の愛を信じている星野さんは、きっと神様は半分ずつ叶えてくださるのだと言います。けれども、普通の人はこうは考えません。晴れを願った人も、雨を願った人も、曇り空を見て、きっとこう言うでしょう。「神様はお祈りを聞いてくださらなかった」と。半分ずつ叶えるということは裏返せば、半分ずつ叶わないということであるのです。
でも、それをどう捉えるかということだと思うのです。お祈りが聞かれないじゃないかと、自己主張を神様にする人は、他の人の願いや幸せのことを完全に忘れてしまっています。そうではなくて、神様が与えてくださったものを、神様の答えとして受け取って感謝するならば、自分も幸せを味わうし、他の人の幸せも信じることができるんですね。
「半分こ」の幸せとでもいいましょうか。幸せというのは自己主張が強すぎる人のところには訪れないのでありまして、幸せを分かち合うという気持ちを持っている人は、自分の願いが一つも叶わなくても、その中で幸せを味わうことができるようになるのです。夏休みに家族で藤枝に帰った時のことでした。近くの川に鮎がたくさん泳いでいるのが見えるのです。上手な子供たちがタモ(網)でたくさんの鮎を捕まえています。私も子供たちと一緒に川に入り、鮎取りに挑戦しましたが、なかなか捕れません。一時間も二時間もかかって、ようやく10センチぐらいの小さな鮎を捕まえることができました。その鮎を、塩焼きにして、私の両親も入れて家族7人で食べました。お箸でほんのひとつまみしかないのですが、それでも楽しく、おいしく食べました。翌日、もう一度チャレンジしようと川に行ってみました。そうしたら、タモで鮎を追い回している子供たちに混じって、大の大人が投網を投げて、鮎を一網打尽に捕まえている・・・先ほどの星進一の話に出てくる貧乏神にたたられている人間を見るようで、なんだかしらけてしまいました。
さて、ペトロのカイサリア伝道についてお話しをしたいと思うのですが、「いずこの家にもめでたき音ずれ」という副題をつけさせていただきました。ご存じの方も多いと思いますが、これが讃美歌101番、宗教改革者ルターが書いたクリスマスの讃美歌からとった言葉です。
いずこの家にも めでたき音ずれ
伝うるためとて 天よりくだりぬ
マリアの御子なる 小さきイエスこそ
御国にこの世に つきせぬ喜び・・・
イエス様はすべての人に神の救いを与え、幸せの道を教えるために世に来てくださった、と歌う讃美歌です。すべての人の中には、もちろん自分も入っています。しかし、自分だけではなく、隣の家の人も、自分を苦しめる人たちも、はた迷惑な連中も、寒空の中で凍えているホームレスの人たちも、みんな入っているのです。
そう考えますと、神様がわたしたちに与えようとしておられる幸せは、誰かが独り占めするような幸せではなく、みんなで分かち合う「半分こ」の幸せなのです。 |
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前回はペトロがエルサレムを離れ、リダやヤッファにいる信徒たちの群れ(教会)を巡回指導したり、福音伝道したというお話しをしました。そして、9章の最後、43節に「ペトロはしばらくの間、ヤッファで革なめし職人のシモンという人の家に滞在した」とあります。「革なめし職人」というのは、血なまぐさい仕事だったからでしょうか、職業差別を受けていました。普通のユダヤ人にしてみれば、そういう人と寝食を共にするということは考えられないことでした。自分は革製品を愛用しながら、それをつくっている人を差別するというのは、考えてみれば実に変な話しなのですが、日本でもそういう事がよくみられます。しかし、ペトロは普通のユダヤ人ではありませんでした。そういう差別意識から解放されていた、新しい人となっていたのです。
普通であることが、いちばん良いとは限りません。世間の常識が間違っていることはいくらでもあるのです。それに気がつくためには、世間の常識で物事を考えたり、判断するのではなく、神様の御心によって物事の真偽、善悪を見なければなりません。ペトロは、そういう人でありましたから、心の壁を取り除くことができたんですね。もちろん、ペトロとて人の子でありますから、完全というわけではありません。しかし、神様の御心をいつも尋ね求める姿勢をもった人でありましたから、そのときどきに大切なことを、必要なことを身につけていくことができたのです。
さて、ペトロがヤッファの革なめしシモンの家に滞在している時の話しであります。カイサリアにコルネリウスというローマ人がおりました。カイサリアというのは、カイサルの町という意味でありまして、その名の通り、ローマの総督府が置かれ、ローマ軍が駐屯していました。コルネリウスというのは、そのローマ軍の「イタリア隊」と呼ばれる、ローマの市民権をもつ人たちの部隊の百人隊長でありました。身分としては中隊長、大尉ぐらいであったと考えれば良いと思います。
このコルネリウスは、ローマ人でありますが、ユダヤに遣わされて、イスラエルの神を知り、その信仰を持った人でありました。自分だけではなく、愛する家族と共に神を畏れ敬い、神に祈る生活をしておりました。また、一家で神を信仰するだけではなく、多くの施しをしていたとも書かれています。施しの対象は、貧しいユダヤ人たちであったのでありましょう。ローマ人はきっと属国のユダヤ人を低く見ていたでしょうが、コルネリウスはユダヤ人の信仰に耳を傾け、その神を信じ、ユダヤ人に愛をもって接していたというのです。一言で言えば、コルネリウスは人徳のある人ということでありましょうが、私がこの物語を読んでたいへん強く思いますことは、そんな立派なコルネリウスであっても、本当の救いを得てはいなかったのだということなのです。だから、神様はコルネリウスに「ヤッファにいるペトロを呼んで話しを聞きなさい。」と言われたわけです。
ある日の午後3時頃、コルネリウスが祈っていると、天使が現れたと言います。聖書には「幻ではっきりと見た」と書かれています。本当は、はっきりしていないから「幻」というのでありましょうが、コルネリウスははっきりと見たというのです。私はこのことがよく分かります。神様の啓示(示し)というのは、客観的に見たり、聞いたりすると非常に曖昧なのです。たとえば、私もイエス様の幻を見たことがあります。でも、それはもちろん、その場にいた他の人には誰も見えませんし、私自身も目で見たというよりも、夢のような気もするし、脳ミソが心の中に描き出したイメージのような気もするのです。ですから、決して客観的なものではありません。でも、私自身にとっては、つまり主観的には、非常にはっきりとした意味を、メッセージをもつ出来事でありました。コルネリウスが「幻ではっきりと見た」というのも、きっとそういう事だったのではないかと思います。
コルネリウスは天使のお告げを聞いて、さっそくヤッファに人を送ります。二人の召使いと、一人の信仰心のあつい兵士を送ったとあります。これは信仰に関わる事柄ですから、やはり信仰をもった人を遣わしたかったのでありましょう。たとえば歌がうまくても信仰がなければ神を讃美することはできません。いくら讃美歌を歌っていても、神様を讃える心、歌をもって神様に奉仕をするという心がありませんから、それは讃美にはならないのです。逆に、私は毎年、教会学校の子供たちの演じるページェントに心を打たれます。声が小さかったり、演技もぎこちなかったり、ドタバタの面も多々あるのですが、やはり子供たちのうちには信仰があるからです。24日のこどもクリスマス会は、ぜひ大人の方々にも見ていただきたいですね。
話しを元に戻します。コルネリウスはペトロを呼びに行きました。そして、ペトロを丁重に迎え、一家全員でペトロの伝える主イエス・キリストの話しを聞くと、洗礼を受けてクリスチャンになったというのです。この世的には申し分ないほど立派な人であったコルネリウスでありますが、そんな人であってもなおイエス様の十字架と復活の福音を必要としていたし、それによってはじめて救いを受けるのです。
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これは、どういうことなのでしょうか。イエス様は、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と教えておられます。良い人間になることではなく、新しい人になること、それこそが救いだというのです。
新しく生まれる、新しい人になる、それはどういう意味なのでしょうか。イエス様は、それは「霊によって生まれることだ」ともお答えになりました。新しい人になるというのは、まったくの別人格になるということではないのです。新しい命によって生かされることなのです。今までは自分の命によって生きていました。コルネリウスのような立派な人であっても、努力とか、熱心とか、節制とか、意志の力とか・・・そういう自分の命の力で生きているのです。その命の力は、どこから来るのでしょうか。それは自分自身です。聖書の言葉で言えば「肉」です。健康であるとか、生まれ持った能力であるとか、経験や学習で身につけた知恵であるとか、そういうものが生きる力、命の力になるのです。しかし、だからこそ、非常にもろいんですね。病気になるとか、身体に障害を持つとか、能力が衰えるとか、経験や学習では追いつけないのようなことがありますと、たちまち生きる力は萎えてしまう。命の力が失われてしまうのです。
信仰もそうです。コルネリウスが信じていた信仰というのは、旧約聖書の信仰、ユダヤ教の信仰です。簡単に言えば、神様を教えを聞いて、それを守るということなのですが、それをするのは自分自身の力、つまり肉の力なのです。だから、今も申しましたように、肉の力が弱ると信仰も弱ってしまう、肉の力が限界に達すれば信仰も限界に達してしまう、つまり神様の教えを守れなくなり、信仰生活を維持できなくなってしまうのです。こういう信仰を、果たして救われた信仰というのでありましょうか。とても言えません。誰だって肉の力には限界があるのですから、むしろ、こういう信仰は絶望の信仰だと言ってもいいのです。
ですから、ユダヤ教の信仰には、もう一つ、大切な一面がありました。それは、救い主を待ち望むという信仰であります。どんなに一生懸命に生きて、神様に従おうとしている人であっても、人生には艱難がつきものであります。病気にもなれば、災害にも遭う。困った隣人に悩まされることもあれば、大切な人を失うこともある。そういう艱難によって肉の力を弱められ、自分の肉の力に頼った信仰生活は必ず維持できなくなってしまうのです。だから、神様が救い主を送ってくださるという希望が大事なのです。それをみんな待ち望んでいたのです。
神の霊によって新しく生まれるとは、自分の本来の肉の力ではなく、神様から来る力によって生かされる新しい命を得ることです。それは今申しました神様の救い主の到来によって、私達に与えられることなのです。もっとはっきり言えば、イエス様を迎えることによって・・・イエス様が私達に与えてくださる命の力によって新しく生まれることによって・・・私達の命が生かされるようになること、それによって信仰が生かされるようになること、それが救いなのです。
コルネリウスは、たいへん立派な信仰者であったが、イエス様を知り、イエス様を主として心に迎えるまでは救われていなかったというのは、そういうことなのです。彼は自分の力ではなく、神の恵みによって支えられることを、生かされることを必要としていました。なぜなら、どんな強い人も必ず弱くなることが分かっていたからです。
そんなコルネリウスに、その招きに応じて遠くカイサリアの地、コルネリウスの家まで来たペトロは言います。36-38節
神がイエス・キリストによって――この方こそ、すべての人の主です――平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、あなたがたはご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。
イエス様こそ、あながた待ち望んでいた救い主なのですよと、ペトロは語ったのでした。そして、イエス様を信じて受け入れることによってあなたは救われるのですよと語ったのです。さらに、イエス・キリストの御名によって洗礼を受けるようにと勧め、コルネリウスに洗礼を授けたのでした。 |
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このことは、コルネリウスにとっても本当に素晴らしい体験であったことはもちろんですが、実はペトロにとってもイエス様の恵みの大きさ、豊かさを知る、本当に素晴らしい体験でありました。それは、異邦人つまりユダヤ人ではない人々もまた神様に愛され、イエス様を与えられ、聖霊を受け、新しい命に生きることができるということを知ったからであります。これはちょっと妙な言い方に聞こえるかもしれません。私達も、ユダヤ人から見れば異邦人であります。そして、イエス様によって救われています。そんなのは当たり前ではないかと思ってしまうのです。しかし、当時においてはたいへんなことでありました。革なめしシモンの家に泊まったペトロでさえ、異邦人が救われるというのはすぐには飲み込めなかったのです。
コルネリウスがペトロを迎える時、足下にひれ伏して拝むと、ペトロはそれをすぐに制止し、「お立ちください。わたしもただの人間です」と言います。まさしくペトロは、ただの人間でありました。弱さもあり、愚かさもあり、誤つこともある人間です。しかし、自分の肉の力によって生きようとしているのではなく、イエス様の命に力に身をゆだねて生かされようとしている人間でありました。それゆえに、ペトロはいつも神様の愛、イエス様の恵み、聖霊の導きを豊かに戴くことができたのです。
ちょうどコルネリウスが、ペトロを迎えに人を送った頃、ペトロも不思議な夢を見ました。天から四隅をつるされた大風呂敷が降りてくるのです。その中には旧約聖書の律法で禁じられている食べ物がありました。そして、「これを食べなさい」という天の声を聞きました。ペトロは、律法に禁じられている食べ物は、食べることができませんと答えます。お腹が空いている時だったので、これは神様のテストか悪魔の誘惑かと思ったのでありましょう。すると、「神様が清めたものではないか。それを清くないとあなたは言い張るのか」という声が返ってきます。そんなことが三度もあり、ペトロがこれはいったい何のことかと考えあぐねている時に、コルネリウスからの使いが到着したというわけです。こういうことがあって、ペトロは神の愛、イエス様の救いは、すべての人々に向かって開かれているのだということを悟るのであります。28節、34節
あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。
神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。
このように、神様はすべての人を御自分の愛に来るように招いておられる。すべての人にイエス様の救いを与えようとしてくださっています。「いずこの家にもめでたき音ずれ」、これがイエス様の福音なのです。そして、だからこそ、神様が与えてくださる幸せは、独り占めの幸せではなく、半分この幸せでもあります。独り占めの幸せは、多くの人を貧しくし、ついには自分もきっとしっぺ返しをくうことになりましょう。しかし、半分この幸せは、多くの人を富ませ、幸せにし、自分もまた幸せになるのです。
来週はクリスマス礼拝です。どうか、この素晴らしい愛を覚えて、ご家族やお友達を誘い合わせて、イエス様の御降誕を共々に喜び合い、讃えましょう。
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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