ペトロ物語(38)
「リダとヤッファの伝道」
Jesus, Lover Of My Soul
旧約聖書 詩編23編
新約聖書 使徒言行録9章32-43節
苦難によって鍛えられる信仰
 人生の苦難に遭うとき、私達は「主よ、なぜですか? あなたの御心はどこにあるのですか?」と祈らざるを得ません。エルサレムに大迫害が起こり、教会を支える素晴らしい信仰と賜物をもったステファノが殉教し、多くの信者たちが苦しみに遭い、ついにエルサレムを離れざるを得なくなってしまった時、ペトロもきっと「主よ、なぜですか?」と祈ったに違いありません。その苦悩に満ちた祈りを神に捧げながら、ペトロをはじめとする使徒達は、必死にエルサレム教会を守り続けました。

 そこに、フィリポによるサマリア伝道の報告が届きます。サマリアの町々、村々において、福音を受け入れられ、主イエスの名による洗礼を受ける人たちが続出しているというのです。いてもたってもいられなくなったペトロは、ヨハネを伴ってサマリア伝道の応援に駆けつけました。そして、そこで素晴らしい神さまの御業がなされていることを目の当たりにしたのです。伝道者魂に火をつけられたペトロは、ヨハネと共にサマリアの多くの村々で福音を宣べ伝え、エルサレムに帰っていきました。

 しばらくして、ペトロはさらに驚くべき主の御業を見ることになります。エルサレムにおけるキリスト教迫害の急先鋒であったパウロが、クリスチャンとなってペトロに会いに来たのです。さすがのペトロも、これはなかなか信じられなくて、すぐにパウロと面会するという気にはなれませんでした。しかし、バルナバが仲介することによって、ペトロはパウロと会うことになり、復活の主がパウロに出会ってくださったいきさつを聞いて、本当に感激したことでありましょう。

 「主よ、なぜですか?」と、苦しみの中で祈りをささげるとき、神様がすぐに「それはね、こういう意味があるんだよ」と答えてくだされば、私達の苦しみは半減されるかもしれません。けれども、神様はしばしば沈黙をもって、私達の信仰を試されます。信仰とは神様に望みを託することです。しかし、人間というのは少しでも調子が上向きになると、うぬぼれてしまう愚かな存在です。そんな私達を、神様は苦難を通して打ち砕き、御自分の御業をもって、「わたしを信じなさい」とお示し下さるのです。
伝道者ペトロ
 ペトロも、サマリアの町々、村々で起こったリバイバル、パウロの回心を目の当たりして、もう一度打ち砕かれ、主を信じ直したでありましょう。組織的な大迫害に対して、小さな小さな教会に何ができましょうか? その指導者とはいえ、ペトロなどまことに小さな存在に過ぎません。しかし、どんなに小さな者であっても、主が共にいてくださるならばすべての事に対して勝利する力を得ることができるのです。その確信を新たにされて、ペトロは再びエルサレムを離れ、地方伝道の旅へと出ます。

 ペトロというのは、初代の教皇とも言われていまして、総本山であるエルサレム教会に君臨して、各地にある教会を統括する最高指導者であったというイメージが強いと思うのです。それは間違いではありません。教会が誕生したばかりの頃は、そうでありました。伝承によりますと、教会が誕生してから12年間は、ペトロはそういう地位にあったと言われています。しかしながら、パウロと出会いを境に、ペトロは組織的教会政治の指導者としての地位を主の兄弟ヤコブに譲ります。そして、伝道者として地方各地を旅しながら、主の福音を伝える働きに専念していくようになるのです。

 もちろん、組織的な指導者としての地位を降りたとしても、信者たちのペトロに対する尊敬の念は少しも変わることがなかったのですが、ペトロが教会政治家ではなく、実際に各地を旅して歩く伝道者として生きたということはとても興味深いことだと思います。教会も見方によっては人間の組織でありますから、それが大きくなり、各地に広まっていけば、当然、それを統括する政治というものが必要になってきます。

 政治というのは分かり易く言えば利害の調整ですね。たとえば、ヘブライ語を話すユダヤ人とギリシャ語を話すユダヤ人の間にやめもへの配給問題でいさかいが起こったという話しをしたことがあります。このような問題を調整し解決していくのが政治です。ところが、ペトロはこういう政治的な問題に直接関わることを避けまして、私は祈りと御言葉の奉仕に専念するから、こういう問題を解決するのに適任と思える人を役員として選びましょう、と提案するのです。それで七人の役員が選出されたのでした。

 こういうことからしますと、そもそもペトロは政治というものが苦手だったのではないかと思います。生来、あまり器用な人ではないのです。不器用だけど真っ直ぐな人、それがペトロでありました。ペトロはそういう自分に与えられている賜物をわきまえた人だったのです。だから、苦手なことは潔く人を任せる。それでいいのです。

 教会が「キリストのからだ」として建てられていくためには、様々な働きが必要です。その全部を器用にこなす人でなければいけないのではありません。大切なことは、自分に与えられている賜物を生かすことと、他人の賜物を大事にすることです。みんながそれぞれの場で、それぞれの働きを、主にあってなすならば、そこにキリストのからだなる教会が建てられていくのです。
リダにて
 さて、今日はそのような伝道者ペトロの姿が生き生きと描かれている場面をお読みしました。

 ペトロは方々を巡り歩き、リダに住んでいる聖なる者たちのところへも下って行った。(32節)

 リダというのは、エルサレムから北西に40キロほど離れたところにある古い町です。正確な位置を確認されたい方は、聖書の巻末にある地図の「6 新約時代のパレスチナ」をご覧いただくとよいと思います。リダにまいりますと、そこに八年前から中風で寝たきりになっていたアイネアという男性がいました。ペトロは、誰かに連れてこられたのでしょうか、それとも偶然にその人を巡り合わせたのでしょうか、それは分かりませんが、寝たきりのアイネアに出会って、こう語りかけます。

 「アイネア、イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」

 すると八年もの間寝たきりであったアイネアはすぐに起きあがったというのです。ペトロが病を癒したという話しは、これまでにも出てきました。神殿の門に座っていた生まれつき足の不自由な男が、「イエス・キリストの御名によって歩け」というと、躍り上がって立ちがあり、讃美しながら神殿の中に入っていたという話し。ペトロが歩いていると、せめてその影にでも触れれば御利益があるだろうと、人々は病人を通りに運んできて寝かせたという話しもあります。また、この後にタビタ(ドルカス)という婦人が蘇生したという話しも出てきます。

 こういう話しは、ペトロを英雄化するための伝説だと考える人も多いのです。その理由は、福音書に出てくるペトロと、使徒言行録に出てくるペトロが、あまりにも違うからだというわけです。確かに、それは違います。福音書に描かれているペトロは、実に人間らしい弱さや欠点を持っていて、しかしイエス様に対する愛だけは人一倍強いという人物です。それが魅力の人間でありました。ところが、『使徒言行録』が描くペトロというのは、まるでイエス様がのりうつったかのような力ある人間になっている。確かに復活のキリストに触れ、聖霊を受け、再出発をしたには違いないのですが、それにしても立派すぎる。福音書にみられた弱さや欠点が少しも見られないのは変だというのです。

 でも、そうではないのです。こういうことをいう人は、復活のキリストによって生まれ変わるということがどういうことなのか分かっていないのだとしか思えません。

 復活のキリストによって生まれ変わるというのは、どういうことなのか。まず第一に、自分自身が本当に罪深く、愚かで、無力で、まったく無価値な人間であるということを思い知らされることなのであります。逆にいうと、それまでの自分というのは、どんなに謙遜に振る舞っても、結局は自分というものを一番大切にし、神様に対しても、人に対しても、自分を主張するばかりの人間だった。ところが、そういう思いがまったく打ち砕かれるのです。

 しかし、それは絶望とは違います。絶望というのも、実は自分を信じようとしていることの裏返しなのです。自分が信じられないから絶望するわけです。キリストにあって打ち砕かれる体験というのは、決して絶望ではありません。なぜならそこにキリストがおられるからです。恵みに満ち、愛に富み給うキリストが目の前に生き生きと描き出されているからです。この方の愛が、力が、取るに足らぬ無きに等しい自分を抱きしめてくださるのを感じるからなのです。そこには、何とも言えない平安があります。母親の胸に抱かれている赤ん坊のような平安です。自分は赤ん坊のように何もできない存在であるにもかかわらず、すべてを愛し、すべてを許し、すべてを慈しみ、抱いてくださるキリストの愛が絶対的な安心を与えてくれるのです。

 福音書の描くペトロは、キリストに従いつつも、自分の足で歩いていました。だから疲れもするし、道を間違えたり、つまずいて倒れることもあるのです。しかし、自分の足で歩くことをやめ、キリストの御腕に抱かれていくならば、疲れることはありません。道を間違えることもありません。つまずいて倒れることもありません。ペトロはそういう経験をして生まれ変わったのです。

 確かに、傍目から見ると、ペトロは立派な人間になりました。聖人君子となりました。しかし、ペトロの自意識の中では、まったく逆のことが起こっているわけです。自分の全存在を否定してしまうような激しい負の意識です。そのようなペトロを支えているのは、イエス・キリストの愛と恵みと命なのです。ペトロにとって、このキリストの愛と恵みと命がすべてなのです。これを離れたら、ペトロには何もないのです。それほどペトロは自分に空しくなり、そしてキリストに満ちているのです。

 同じように復活のキリストに出会ったパウロは、こういいました。

 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。(『ガラテヤの信徒への手紙』2章20-21節)

 自分が生きているのではなく、キリストが私の中に生きている。私が生きているのではなく、生かされているのだという体験であります。ですから、すべてのクリスチャンが考えなくてはならないのは、「いかに生きるか」ことではなく「いかに生かされるか」ということなのです。生きるための力、知恵、お金・・・そういうものを求めていますと、私達は毎日思い煩うことになりましょう。しかし、生かされるために必要なことはただ一つです。それはキリストを離れないということなのです。それだけを希求して生きるならば、キリストの愛と恵みと命が、私達を守り、支え、導き、生かしてくださるのです。

 だから、ペトロは自分に何かができるなどとは露だに思っておりません。アイネアに対して、ペトロが言ったのは「わたしが癒してあげよう」ではなく、「キリストがあなたを癒してくださる」といったのです。すると、アイネアはすぐに癒され、起きあがり、自分で床をたたんだというのです。

 リダとシャロンに住む人は皆アイネアを見て、主に立ち帰った。(35節)

 ここにも、リダとシャロンの人々は、ペトロを讃えたとは書いてありません。アイネアの癒しのうちに、主の愛、主の恵みを見て、主に立ち帰ったのです。

ヤッファにて

 さて、リダからさらに北西に10キロほど進んだところにヤッファという町があります。そこにタビタ、ギリシャ語名ではドルカスという信仰の篤い婦人がおりました。彼女は信仰によってたくさんの善い行いや施しをして、多くの人々から敬愛されていました。39節に「やもめたち」が登場してくることからしますと、とくに貧しいやもめたちを助け、彼女たちの世話を一生懸命にする人だったようです。また、ここには彼女の家族が出てきませんから、彼女自身がやもめであったということも十分に考えられます。しかし、彼女も復活のキリストに出会い、キリストに生かされる恵みを経験し、生きようとする苦しみ、悩みから救われたのでありましょう。

 自分で生きようとする人は、自分を守ること、生かすことで精一杯になってしまい、気持ちはあっても、他人のお世話まで焼くことができません。できたとしても、はなはだ中途半端なものになってしまい、やりきれないのです。これは身内でもそうですね。家族ですから、もちろん愛している。気持ちの上ではあれもしてあげたい、こうもしてあげたい。でも、自分自身の身も大切でありますから、そこにジレンマがあります。

 自分の力で生きようとするのではなく、キリストに生かされるということを知った人は、ペトロの場合も人を癒す働きをしますし、ドルカス(タビタ)の場合も多くのやもめたちを励ます働きをしています。自分のために生きるということを、イエス様に全部お任せすると、こういうことができるようになるのです。

 ところが、そいうタビタが病気になって死んでしまったのでありました。ドルカス(タビタ)を愛する多くの人が悲しみに暮れました。ちょっとペトロ物語の本筋から離れますが、聖書には、その時、人々がどうしたかということが生き生きと描かれています。

 人々は遺体を清めて階上の部屋に安置した。

 ドルカス(タビタ)のご遺体に対して、心からの敬意を払ったということが記されています。時に、クリスチャンであっても、「私が死んだら灰にして海にでも、山にでも捨ててくれ」というような合理主義者がいますが、遺体を粗末にすることは、決してキリスト教の信仰ではないのです。それから、38節、

 リダはヤッファに近かったので、弟子たちはペトロがリダにいると聞いて、二人の人を送り、「急いでわたしたちのところへ来てください」と頼んだ。

 天国を信じているクリスチャンであっても、愛する人との死別は悲しくて当たり前です。大切なことは、悲しい時に、神様の慰めの言葉を聞こうとするということではないでしょうか。ペトロを呼んだのも、そのためでありましょう。悲しみのあまり、すべてのものに心を閉ざしてしまう人もありますが、どんなに悲しくても御言葉のうちに慰めと励ましを求めて生きていくのが信仰者の生き方なのです。

 39節にはこうあります。

 ペトロはそこをたって、その二人と一緒に出かけた。人々はペトロが到着すると、階上の部屋に案内した。やもめたちは皆そばに寄って来て、泣きながら、ドルカスが一緒にいたときに作ってくれた数々の下着や上着を見せた。

 ドルカスは針仕事が得意だったようです。これは私の想像にすぎませんが、彼女は決して金持ちではなかった。自分もやもめで、他のやもめたち同様に苦しい生活をしていた。けれども、先ほどもいいましたように自分の生をまったくイエス様に委ね、託して生きることができた。それゆえに、自分のできるささやかなこと、針仕事をもって、他のやもめたちを助けていたのではないでしょうか。ドルカスの死を悲しむやもめたちは、そのようにしてドルカルが縫ってくれた着物を見せ合って、ドルカスを偲び、その死を悼んだのでありました。私達もそういう気持ちはよくわかりますね。故人を遺したもの、思い出をもって、故人をなつかしみ、慰めとするということは、人間としてまことに自然なことなのです。

 さて、ペトロはこのように愛し、慕われているドルカスをみて深く心を打たれたのでありましょう。40-41節、

 ペトロが皆を外に出し、ひざまずいて祈り、遺体に向かって、「タビタ、起きなさい」と言うと、彼女は目を開き、ペトロを見て起き上がった。ペトロは彼女に手を貸して立たせた。そして、聖なる者たちとやもめたちを呼び、生き返ったタビタを見せた。

 死んだ人に「起きなさい」と言ったら、目を開けて起きあがった。愛する人が亡くなった時、だれもが生き返って欲しいと願うのは当然のことでありますが、こんなことが滅多やたらにあってはたいへんなことです。イエス様もこのようなことをなさったのは三度だけでした。ドルカス(タビタ)には、そのような格別な神様の憐れみが与えられたのでした。そして、あと何年の命が彼女にあったのか、それは分かりませんが、与えられた命を、彼女は今までにもまして神様にお捧げして生きたことでありましょう。そのために与えられた命でもあったわけです。

 そして、そのことを通して崇められたのは、やはりペトロではなく、主でありました。ペトロが祈ったら、命じたら、八年間寝たきりの人が起きあがった。死んだ人が生き返った。しかし、そこで讃えられたのはペトロではなく、主なのです。それは、ペトロ自身が決して自分を誇らず、何ができても、できなくても、主を讃える人であったからに違いありません。

 ある人が、旧約聖書、新約聖書を通して、人々が一番大事にした信仰は何かと言えば、それは「主は生きておられる」ということだと語っていました。そのように私も思います。私達の世界の中に、人生の中に、命の中に、隣人の中に、主は生きておられます。その主に愛され、命を支えられて生きているのです。生きるにしても、死ぬにしても、主の御名が崇められますようにと祈りをもって日々を歩んで参りたいと思います。
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