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前回はパウロの回心のお話しをしました。パウロというのは熱心なユダヤ教ファリサイ派の信徒で、キリスト教を憎み、迫害の急先鋒に立っていた人物であります。この時も、パウロはダマスコでクリスチャンの活動が盛んになっているという情報を得て、ダマスコのクリスチャンを全部引っ捕らえるぐらいのつもりで、鼻息も荒く、ダマスコに急いでおりました。しかし、その途上で、天の光がパウロを照らし、「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか」というイエス様の声を聞いたのでありました。こうして復活の主との出会いを果たしたパウロは、ダマスコでアナニアという伝道者から洗礼を受けます。そして、さっそくダマスコで「イエスは神の子である。メシアである」と伝道を開始したのでした。
これに目の玉が飛び出るほど驚いたのは、ダマスコのユダヤ教ユダヤ人たちでありました。将来を嘱望された新進気鋭のパウロという若者が、目障りなクリスチャンを一層してくれると聞き、今や遅しと待っていたのに、やっと現れたと思ったら洗礼を受けて、「イエスは神の子である」と語り出したのです。
他方、ダマスコのクリスチャンも驚いたはずです。彼らもまた、パウロによってエルサレムのクリスチャンたちがどれほど苦しめられたかをよく知っていました。そのパウロが、自分たちを捕まえに来るというので、相当警戒心を強めていたところだったのです。いくらパウロが洗礼を受けたとしても、にわかには信じられなかったのではないでしょうか。
みなさんは、洗礼をお受けになった時、教会の兄姉姉妹たちに心から歓迎されたと思います。しかし、パウロはユダヤ教徒からは変節漢、裏切り者とののしられ、クリスチャンたちからは疑いの目で見られ、警戒され、まったくこの世に身の置き所のない思いをしたのであります。それでもよかった、のであります。パウロにとって洗礼を受けてクリスチャンになるということは、他の何事でもなく、真理に、神に、従うということだったからです。
先週お話ししましたが、パウロは決して変節したのではないのです。ユダヤ教ファリサイ派として研鑽を積んでいたときも、パウロの心にあったのは神に喜ばれる人間になりたいというこの一事でありました。やっきになってキリスト教を迫害したのも、まさにそのためだったのです。
ファリサイ派というのは、神様の教えを100%、人間の努力と熱心で守ることによって神様に喜ばれる人間になろうとする人たちであります。逆に言えば、神様の教えを守らない人たちは悪い人たちで、神様に喜ばれる人間になりえるはずがないのです。ところが、キリスト教はそういう弱き人たちにも神様の憐れみが注がれており、「ごめんなさい」と心から神様に謝って立ち帰るならば、神様はそのような者たちを神の子として受け入れ愛してくださると教えるわけです。ファリサイ派を信奉しているパウロにとって、このような教えは人々を堕落させるばかりの非常に悪い教えだったのです。このような教えを広めるキリスト教をゆるしておいてはいけない。必ず壊滅させなければならない。これがパウロの信ずるところだったのです。
けれども、ダマスコ途上でイエス様に出会うことによって、パウロはそのようなファリサイ派信仰を翻して、罪をゆるし給う神の愛、その愛によって神様に喜ばれる者とされているという認識を持つようになるのです。というのは、第一に、パウロは復活の主に出会うことによって、クリスチャンへの迫害がまったくお門違いのことであったということを悟ります。神様に喜ばれる者としてやっていたことが、実は神様を悲しませることであったということに気づいたのです。そして、第二に、それにかかわらず、主なるイエス様は、自分の罪をゆるし、ご自分に従うようにと召してくださった。これまで自分の力に頼って、自分の功績で神様に喜ばれる者になろうとしていたけれども、とてもそんなことでは神様に喜ばれる者になることはできない。ただ、このような自分を憐れんで、出会ってくださり、「我に従え」と招いてくださる恵みによって、神様に喜ばれる人間になることができるのだと分かったのであります。
このような体験は、実はペトロの得た恵みの体験と重なるのではないでしょうか。ペトロは、パウロと違ってファリサイ派的な思想をもっているわけではありませんでした。イエス様を迫害するような立場に身を置いていたわけでもありませんでした。もっとも早い時期に、イエス様の弟子となった者の一人なのです。それにもかかわらず、ペトロはパウロと似た面を持っています。それは自分の努力や熱心をもってイエス様に喜ばれようとしていたことであります。そのことをペトロは何度もイエス様に注意されました。しかし、ペトロにはそのことがなかなか分からなかったのです。
ついにペトロが悟ったのは、十字架の前夜、「決してあなたを離れません」と誓いまで立てたにもかかわらず、いざ十字架にかからんとするイエス様を目の前にして、「わたしはあんな人は知りません。まったく関係がございません」と人々に言ってしまったという真の苦々しい挫折を経験してのことでありました。自分の熱心というのがどんな不確かなものであるか、自分の思いというものがどんなに当てにならぬものであるか、ペトロはまるで自分がイエス様を十字架にかけたかのように苦しんだのでありました。しかし、そのようなペトロに、復活の主が出会ってくださり、「あなたは私を愛するか」と問うてくださった。そして、「私に従いなさい」と招いてくださった。ペトロはこのイエス様の赦しの恵み、憐れみの恵みによって立ち直ったのです。
そういう意味では、ペトロも、パウロも変わりありません。ペトロは挫折のどん底から、復活の主の愛によって引き上げられました。パウロは「我こそは神のしもべなり」という自負といいますか、自信といいますか、そういう自己の力の頂点から、復活の主の愛によって引き下ろされました。いずれも自分の力に頼っていたところから、自分の弱さに対する深い自覚が与えられ、それを大きく包んで神の僕として立たせてくださる主の愛に支えられて、まことの主のしもべとさせられたのであります。
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さて、今日はそのペトロとパウロが、はじめての対面をするという話しであります。パウロはダマスコで洗礼を受けると、直ちに伝道を開始したという話しをしましたが、その後、ユダヤ教徒たちから命を狙われるようになりまして、ダマスコを脱出し、アラビアで三年間を過ごします。この三年間、パウロが何をして過ごしたのかは聖書に記されていませんが、おそらく祈りの三年間、つまりさらに深く、確かに主の御心を尋ね求める三年間であっただろうと思います。
そして、このアラビアでの三年を過ごした後、パウロはエルサレムにペトロに会うために向かうのであります。『使徒言行録』9章26節
サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。
サウロというのはパウロのことなのです。「弟子の仲間に加わろうとした」というのは、どういうことなのかちょっと考えてみる必要があると思います。パウロは洗礼を受けてクリスチャンになりました。けれども、ダマスコ教会のクリスチャンはともかくとして、他の地域にあります教会では、パウロが本当にクリスチャンとなったのかどうか半信半疑だったようなのです。これでは今後のパウロの働きに支障が出ることが明白です。そこで、パウロは総本山であるエルサレム教会において、自分がクリスチャンであることを認知してもらいたいと思ったのではないでしょうか。
とはいえ、エルサレムというのは、かつてパウロが迫害者として散々暴れ回ったところです。パウロがどれほどキリスト教を憎んでいたか、そのことを一番よく知っているのがエルサレム教会なのでありました。ですから、パウロに対する警戒心はそう簡単には解けないのです。
しかし、そこにパウロとエルサレム教会との間をとりもつ人が現れます。27節
しかしバルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した。
バルナバがパウロを使徒たちのところへ案内したと書かれています。「使徒たちのところ」とは、どこでありましょうか。今私たちが誰それさんを牧師のところへ連れて行ったと言えば、教会に連れて行くことを意味します。でも、当時、教会堂のような立派な建物があったわけではないのです。教会というのは建物のことではなく、神の民ということでありますから、教会堂がなくてもまったく構いませんでした。
ただ、拠点となる場所がどこにもなかったのかと言いますと、そうではありません。マルコとその母マリアという母子がエルサレムにかなり広いお屋敷を構えておりました。伝承によれば、最後の晩餐がもたれた家であるとか、ペンテコステの前に弟子たちが祈っていた家であるとも言われています。どうやら、このマルコとマリアの家の家が使徒たちの活動の拠点であったことは間違いないようなのです。そして、このマルコは『マルコによる福音書』を書いたマルコです。つまり、ペトロをはじめとする使徒たちは、基本的にこのマルコの家にいたのであります。バルナバは、きっとパウロをこのマルコの家に案内したということなのでありましょう。
さらに申しますと、バルナバは、このマルコのいとこでもありました。そういう縁もあったと思いますが、バルナバは、エルサレム教会が誕生した頃、いちはやく福音を受け入れ、自分の財産をすべて教会に献げ、教会の有力な信徒、そして指導者へと成長していきました。聖書の中には「使徒」と呼ばれている人が15人おります。イエス様がお選びになった12人と、イスカリオテのユダの欠員を補うために選ばれたマティア、そしてパウロも使徒と呼ばれます。もう一人が、このバルナバなのです(使徒14:14)。
バルナバという名前は、使徒たちが彼につけた通称、渾名であり、それは「慰めの子」という意味であったと、『使徒言行録』4章36節に書かれています。バルナバが人々を慰める豊かな愛をもった人物であるということは、誰もが認めるところであり、そのような敬愛の心をもって慕われていたのだと思います。
「慰め」というのは、何でしょうか。旧約聖書にも、新約聖書にも、「慰め」という言葉がたくさん出てきます。「慰」という漢字は、「尉」の下に「心」と書きます。「尉」とはひのし、つまり昔のアイロンのことです。つまり、慰めとは、悲しいことや辛いことで縮こまってしまった心を、暖かい力で伸ばしてやることだと言ってもよいでありましょう。また、ギリシャ語ではパラクレーシスといいますが、「そばに呼ぶこと」を意味します。イエス様は「重荷を負って苦労している人は私のもとに来なさい。休ませてあげよう」とおっしゃいましたが、慰めとはそのようなことを言うのであります。縮んだ心を暖かい力で伸ばしてやること、また「大丈夫、わたしの側にいなさい」と暖かい心で呼んでくれること、このような慰めを人に与えるためには、本当に大きな愛だと思いますが、バルナバはそのような大きな愛の力をもった人だったのです。
バルナバは、そのような愛の心からパウロに興味を持ちました。みんな、パウロを警戒し、恐れ、近づこうとしません。それだけ、パウロによって苦しめられてきました。でも、バルナバは、そんなパウロに近づき、彼の話に耳を傾け、パウロが教会に対して犯してきた暴力的な行為のすべてをゆるし、彼がイエス・キリストの僕となったということを信じ、受け入れたのであります。そして、エルサレム教会の使徒たちとパウロの仲立ちの役を果たすことになったのであります。
それで、サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の名によって恐れずに教えるようになった。
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パウロは、こうしてエルサレム教会からも認知され、福音の伝道者として受け入れられる者となりました。この時のことについて、パウロは『ガラテヤの信徒への手紙』1章18-19節で、このように書いています。
それから三年後、ケファと知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在しましたが、ほかの使徒にはだれにも会わず、ただ主の兄弟ヤコブにだけ会いました。
「それから三年後」というのは、アラビアでの祈りの期間を終えた後という意味です。「ケファ」というのは、ペトロのことです。つまり、パウロは、エルサレムに上った一番の理由は、ペトロに会うためであったと言っているわけです。そして、ここにはバルナバのことが書かれていませんが、バルナバを通じてペトロと面会し、15日間、ペトロのもとで過ごしたというのであります。他の使徒たちには誰にも会わず、主の兄弟ヤコブだけに会ったとも言われています。主の兄弟ヤコブというのは、イエス様の弟であり、ペトロに代わってエルサレム教会の指導者ともなった人物であります。
パウロがペトロや主の兄弟ヤコブに会ったということは、単に教会から認知してもらうということだけではない、他の意味もあったのではないかと思います。ペトロにしても、主の兄弟ヤコブにしても、生前のイエス様の身近に仕え、その姿を一番良く知る人物でありました。パウロは、ペトロを通して、その話を聞きたかったのではないでしょうか。そして、復活の主との出会いによって与えられた恵みによる救いという福音を、ペトロを通して確かめたかったのではないかと思います。
間違いなく、二人は一致をしました。イエス様との出会い方も違います。けれども、先ほども申しましたが、ペトロが挫折の中から引き上げられる体験と、パウロが自信みなぎる絶頂から引き落とされる体験は、ただキリストの恵みによって救われるという同じ真理に結びつけられていたからであります。ペトロとパウロの二人は、お互いを認め合い、主の福音を世界に伝えるために力を合わせて働くことを約束し合ったに違いありません。
聖書には何も書いてありませんけれども、ペトロはパウロとの出会いに深い感動を覚えたのではないでしょうか。ペトロにとってパウロとの出会いは本当に大きな主の恵みだったに違いないのです。
第一に、ペトロはこれによって主の救いの限りなさを知りました。これを知るということは、教会にとって本当に大切なことです。私もそうですが、正直言って「本当に主はこのような人もお救いになるのだろうか」と思ってしまう人がいるのです。神様の教えにまったく耳を傾けない人、それどころか攻撃的な反抗をしてくる人、少しも努力しようとしない人、人に迷惑かけても何の罪責感も感じない人・・・けれども、そういう人たちに対しても、時には涙を流しながら祈り、忍耐し、「主はこの人のために十字架の愛を注いでくださっているのだ」ということを信じ続ける信仰が、確信が、教会には必要なのです。ペトロは、自分に注がれた主の愛によって、そういう確信をもっていたと思いますが、パウロを救い、主の器とし給う主の愛の大きさに驚かずにはいられなかったでありましょう。そして、いよいよ時が良くて悪くても、相手が如何なる人であろうとも、主の愛を信じて福音を伝えていかなければならないと思ったに違いないのです。
第二に、ペトロは力に満ちた、愛に富んだ素晴らしい伝道者であったに違いありませんが、それでも一人の人間に出来ることには限界があります。しかし、パウロと出会った時、ペトロは自分のないものや自分の弱さを補う素晴らしい賜物が、彼のうちにあることを認めたでありましょう。もちろんこれは逆も真なりで、パウロも、自分にない優れたものをペトロのうちに認めたに違いないと思うのです。誰にでも、弱さがあります。足りないものがあります。しかし、イエス様は御心のままに様々な人を選んで、ひとりひとりにふさわしい働きの場を与えてくださるのです。
ペトロとパウロは、ほとんど一緒に行動するということはありませんでした。聖書によりますと、14年後、パウロは再びバルナバと共にエルサレムに上り、ペトロに会います。さらにその後、アンティオキアでペトロとパウロが会い、そこでパウロがペトロを叱責したというお話しもあります。ただ、その他は二人は別々の道、つまりペトロは主にユダヤ人たちに福音を伝える者となり、パウロは主に異邦人に福音を伝える者となる道を歩んでいったのでした。同じように主を愛し、同じように主の恵みに対する信仰に立ちながら、そして共に連帯意識を持ちながら、しかし、それぞれに主に与えられた賜物を生かし、それぞれの道を歩んだのであります。
この二人がそのように互いの賜物を尊敬し合い、それぞれの主の召しを尊重しあうながら、自分の持ち場持ち場で働く献身的な伝道活動なくして、ローマ帝国の片隅に始まったキリスト教が、一世紀足らずの間にローマ帝国の隅々にまで行き渡るようになったということは有り得なかったと言ってもいいのではないでしょうか。
そして、また私たちは、バルナバのような存在も忘れてはならないと思うのです。バルナバなくして、ペトロとパウロの面談はありませんでした。このような陰で祈り、支える働きが、大切なのであります。
私たちもまた、それぞれの人生において復活の主との出会いをいたしました。その体験は異なりましても、それによって私たちが知った主の愛は一つです。この主の愛によって、私たちは荒川教会という一つの主ある家族の絆に結びつけられました。この交わりを大切すると共に、ひとりひとりがイエス様の召しに答えて、御国のために勤しむ者でありたいと願います。 |
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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