|
|
|
三週間ほど間が空きましたが、今日はまたペトロの物語からご一緒に学びたいと思います。まずは、これまでの復習です。
エルサレムでユダヤ教徒によるキリスト教徒への迫害が始まりました。ペトロも捕らえられ、牢に入れられ、最高法院で取り調べを受け、「今後二度とイエスの名によって語ってはならない」と脅かしを受け、鞭で打たれたりしました。もちろん、ペトロはそんな脅かしに屈しません。その後も公然とイエス様の福音を伝え続けます。そのような中、使徒達全員が逮捕されたり、ついにステファノという教会の有力信徒の一人が殉教するという事件が起きます。こうしてエルサレムでの伝道はおろか信仰生活すらも難しくなり、エルサレム教会の信者たちはエルサレムを離れて行かざるを得なくなったのでした。
しかし、転んでもただでは起きないのがクリスチャンであります。エルサレムを離れていく人々は、その行く先々で福音を宣べ伝えていきました。その結果、思いがけないことが起こります。福音がエルサレムからユダヤ、サマリアの全土、そしてアジア、アフリカ、ヨーロッパと伝えられていくのです。イエス様は天にお帰りになる前、弟子たちにこう言われました。
あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。(『使徒言行録』1章8節)
この御言葉の成就が、迫害のゆえにやむなく、エルサレムを離れざるを得なかった信徒たちによって実現していったのでした。その最初の出来事が、フィリポのサマリア伝道の成功です。サマリアの人たちは、ぞくぞくと洗礼を受け、クリスチャンになっていったのです。その報を受けたペトロは、すぐさまエルサレムからサマリアにやってきて、サマリア伝道を応援します。そして、サマリアの町々、村々を伝道して歩いて、エルサレムに帰っていったのでした。
「災い転じて福となす」という言葉があります。身に降りかかった災難を逆手にとって幸せに変えていくということです。エルサレムでの大迫害が、世界宣教の端緒となる。これはまさしく「災い転じて福となす」ということでありましょう。しかし、それをしたのは誰でありましょうか。フィリポでしょうか? ペトロでしょうか? そうではありません。これは神様ご自身が為し給うことなのです。フィリポも、ペトロも、神様は災い転じて福となす神であるということを信じておりました。だからこそ、エルサレム教会が壊滅状態に陥るほどの大迫害のただ中にあっても、主を待ち望み、伝道に励んだのです。災い転じて福となす神を信じることによって、彼らは転んでもただでは起きないクリスチャンとなったのです。
|
|
|
|
|
さて、ユダヤ当局は、せっかくエルサレムからクリスチャンたちを追い出したと思ったら、今度は各地でその教えを広めているということがわかり、いらだちます。先日の聖書の学びと祈り会で詩編37編を学びましたが、そこには「いらだつな」、「いらだつな」と繰り返し語られていました。「いらだつ」というのは、自分の思い通りにならないことで焦ったり、悔しがったりすることですね。しかし、クリスチャンというのは、自分の思いではなく、主の思いが我が身に実現することを求めているわけですから、自分の思い通りにならなくても、いらだつ必要はないのです。いらだつのは、主の思いではなく、自分の思いに固執している証拠なんですね。
そのようないらだちを憶えているユダヤ当局の迫害の急先鋒に立って、クリスチャンを追いかけ回していたのがサウロであります。9章1-2節にはこう記されています。
さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。
恐ろしいですね。また『ガラテヤの信徒への手紙』1章14節には、彼自身の言葉でこうも記されています。
わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。
このようにサウロは、誰よりも熱心なユダヤ教徒で、すぐれた教師でもあり、聖書に精通し、誰と議論しても負けない自信をもった人でありました。そのサウロが、クリスチャンを見つけ次第、男女の問わず縛り上げ、徹底的に教会を迫害し、滅ぼそうとしたというのであります。
この恐ろしい迫害者サウロが、後の使徒パウロなのであります。いったいどうして、この恐ろしい迫害者がいかにしてクリスチャンになったのか? しかも使徒となって、キリストのためには命も惜しくないというほどの伝道者となったのか。そのことが『使徒言行録』9章に記されているのです。今日はこの9章から、サウロの回心、エルサレムのペトロが回心したサウロに出会い、彼を主にある兄弟であると認めるまでのお話しをしたいと思います。 |
|
|
|
|
パウロは(ここからはサウロではなくパウロという呼び方で統一させていただきます)、エルサレムからダマスコに逃れていったクリスチャンたちを追いかけて捕まえ、エルサレムにひっぱってくるために、ダマスコへの道を急いでいました。おそらく、ダマスコに逃れたクリスチャンたちは、そこで活発な伝道活動をしているという情報でも掴んだのでありましょう。パウロは殺そうという意気込みをもって、ダマスコに向かっていたと聖書に記されています。
ところが、ダマスコへの途上で、パウロは突然、天からの光に包まれます。パウロはあまりのまぶしさに地面に突っ伏してしまいます。すると光の中から、「サウロ、サウロ、なぜ、あなたはわたしを迫害するのか」という声が聞こえてきたというのです。ただならぬ声に恐れをなしたパウロは、地にひれ伏したまま「主よ、あなたはどなたですか」と尋ねます。すると、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」という返事が返ってきたのでした。さらにイエス様の声は、こうおっしゃいました。「起きて、町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」
このイエス様の声は、パウロに同行していた他の人々にも聞こえたようです。しかし、姿は見えませんでした。声だけです。地面に伏していたパウロは起きあがりましたが、まぶしい天の光を見たせいでしょうか、目を開けることはできても、視力を完全に失っていました。それで、人々に手を引かれながら、ダマスコに辿り着き、ユダという人の家に宿りました。パウロはその間、ずっと神に祈り続けます。どんな祈りをしたかは書かれていませんが、この出来事の意味を問い続けたのではないでしょうか。その祈りに対して、イエス様は直接パウロの心に生ける声をもっていろいろと語りかけてくださったようであります。
パウロは後に、この出来事について、『コリントの信徒への手紙1』15章で、復活の主について語る中、8節でこう語っています。
そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。
つまり、これは、復活の主との出会いであったというのです。出会いと言っても、声だけしか聞いていないのですが、パウロは生ける主と出会い、その主がどういうお方であるかということを十分に感じ取ることができたのです。否、感じ取るなんていう生易しいことではありません。主の栄光に圧倒されるような経験をしたのであります。
キリストの復活なんてことは、人間の頭では決して理解できないことであります。頭がいいか、悪いかは関係ありません。常識的に受け入れることができない出来事なのです。しかし、出会ってしまえば別です。それが事実となるのです。
先日、バザーで買ったのですが、『99.9%は仮説』(竹内薫、光文社新書)という本を読みました。そこにこういうことが書いてありました。飛行機がなぜ飛ぶかということについて、今の科学者たちは仮説でしか説明できないというのです。でも、飛んでいる。どうすれば飛ぶかということはかなり正確に分かる。だから問題はないんだけれど、実はなぜ飛ぶかということについては、科学者たちの意見が分かれているというのです。
キリストの復活も同じでありまして、どんなに偉い神学者であっても、どんな原理でキリストが復活したかなどという説明はできないんです。でも、キリストは現に復活して生きておられる。その事実に触れることができる。信仰というのは、理解するのではなく、その現実を受け入れるかどうかという問題なのです。
そういう意味では、パウロの体験というのは決して特別なことではありません。パウロの選びには、イエス様の格別なるご計画があって、そういう意味では特別ですが、復活のキリストに出会う体験というのは、その体験の形は様々でありましても、誰にだって与えられるものなのです。そうでなければ、誰も復活のイエス様を信じることができません。ところが現に、今も世界中に何十億というクリスチャンがいるわけですから、今日もイエス様はそれだけの人にお会いになっているということになるわけです。
|
|
|
|
|
さて、パウロがダマスコのユダの家で祈っている時、ダマスコの伝道者であるアナニアという人が、イエス様の声を聞きました。どこそこにパウロという人物がいるから、彼を訪ねなさいというのです。アナニアは、驚きます。迫害者パウロの名はダマスコにも轟いており、そのパウロが間もなくダマスコに来て自分たちを苦しめるだろうという情報も入っていたからです。ところが、イエス様は、「わたしは彼を異邦人や王たち、またイスラエルの子たちに、福音を伝える器として選んだのだ」とおっしゃる。そこで、アナニアは勇気を振り絞って、パウロの宿泊先を訪ね、彼の頭に手を置いて祈り、洗礼を授けたのでした。すると、パウロの目から鱗のようなものが落ちて、再び見えるようになったとも書いてあります。「目から鱗」という諺はここから来ています。
ここでも一つだけ申し上げておきたいことがあります。それは、アナニアはパウロではなく、主を信じて、彼に洗礼を授けたということです。パウロがこれまで何をしてきた人であるか、アナニアは知っていました。本当に彼が回心したのかどうか、それを短時間のうちに見極めることは不可能であったでありましょう。そういう点からすると、アナニアはパウロを信じ切ることはできなかったと思います。でも、主がおっしゃることを信じたのです。そして、主を信じて、パウロに洗礼を授けたのです。これは、洗礼ということを考えるときに、大事なことの一つなのです。
洗礼を受けてクリスチャンとなったパウロは、驚くべき事にさっそくダマスコ市内で「イエス様こそ神の子である」と宣べ伝えはじめたといいます。ダマスコのユダヤ人たちは、パウロの変節ぶりに驚き、あきれました。そして、強力な助っ人となるはずのパウロが、敵方に寝返ったことで、うろたえたとあります。ちょっと、聖書を読んでみたいと思います。9章19b節〜22節
サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちと一緒にいて、すぐあちこちの会堂で、「この人こそ神の子である」と、イエスのことを宣べ伝えた。これを聞いた人々は皆、非常に驚いて言った。「あれは、エルサレムでこの名を呼び求める者たちを滅ぼしていた男ではないか。また、ここへやって来たのも、彼らを縛り上げ、祭司長たちのところへ連行するためではなかったか。」しかし、サウロはますます力を得て、イエスがメシアであることを論証し、ダマスコに住んでいるユダヤ人をうろたえさせた。
私は、これを読みますと、パウロという人はともかく真面目な人だったんだなあと思うのです。キリスト教を迫害する時も、パウロはそれが神を愛することだと心底信じていた。だからこそ中途半端なことではなく、徹底した迫害者になったのです。決して、ファリサイ派の教師としての立身出世を狙ったりしてのことはではなかったわけです。パウロの人生の目的、願いのすべては神を愛するということにあったのです。だから、神を愛するということが、イエス様を愛するということであるということが分かったとき、彼は少しも迷わなかったでありましょう。人々から変節漢と呼ばれようとも、構わなかった。そういう人々から評判は鼻にもかけなかった。ただ神を愛するという一時に務めようということ、その点においてパウロは回心の前も、後も、同じなのです。
私たちの世の中にも、クリスチャンではなくても、一生懸命に自分の人生を真面目に生きている人がいます。そういう人たちを、「あの人はクリスチャンじゃないから駄目だ」と平気で口にする人がいますけど、それはとんでもないことなのです。私はそんな風には思いません。クリスチャンでなくたって素晴らしい人はいっぱいいるし、尊敬すべき人はたくさんいるのです。ただ、どんなに一生懸命に生きていても、それだけではどうにもならないことっていうのがありますよね。イエス様の救いを知らないと、つまり自分の力だけで頑張っていると、そういう時に何の救いもなくなってしまうのです。そして、それがイエス様を知る良い機会となります。もしそういう人がイエス様を知ったならば、勇気百倍、元気百倍となって、素晴らしい人生を、神様のために、人々のために献げることができる人になりましょう。パウロが迫害者から伝道者に転身するということは、そういうことだと思うのです。
迫害者から伝道者になるということは、別の言い方をすれば、迫害する者から迫害される者になるということです。ダマスコのユダヤ人たちは、最初はパウロの転身ぶりに驚き、うろたえるばかりでありましたが、やがてパウロの暗殺を考えるようになります。そして、昼も夜も、その機会を狙って、パウロを監視し続けたというのです。さすがに身の危険を感じたパウロは、監視の目をかいくぐって、こっそりとダマスコから脱出をしました。
その後、パウロはアラビアに行ったと、『ガラテヤの信徒への手紙』1章16-17節は伝えています。
御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず、また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした。
アラビアに退いていた期間は三年です。『ガラテヤの信徒への手紙』を読むとそう書いてあります。そこで何をしていたのかは分かりません。パウロのことでありますから、そこでもイエス・キリストの福音を宣べ伝え続けていたと考えることもできましょう。しかし、「血肉に相談せず」とか、「エルサレムの使徒たちにも会わなかった」とありますことからしますと、パウロは、親兄弟ではなく、また使徒達ではもなく、神様と自分の間でよく話し合ったことなのだということがいいたのではないでしょうか。つまり、神様に問い、神様の答えを求めて祈ったのです。それがアラビアでの三年であったと考えた方がいいように思います。
三年というのは決して短くありません。その間、何もしないで、ただ祈り続けた。そして、もちろん聖書も読んだでありましょう。今までとは違って、イエス様がキリストであるという視点をもって聖書を読み直すのです。そこでパウロは多くの発見をし、自分の体験とあいまって確信を深めていったに違いありません。
モラトリアムといいますか、このような次なる働きのために祈って準備するということが、私たちには必要なことがあるのです。イエス様も宣教の働きのために四十日四十夜、断食して祈られました。使徒達もイエス様が復活した後、すぐに聖霊を受けたのではなく、四十日間、復活の主によってさらに教えられ、また祈って過ごしたとあります。「急いては事をし損じる」とも言いますが、私たちはどんな時もよく祈って事を進めるということが大事なのです。
こうしてパウロはアラビアでの三年間を過ごし、再びダマスコに戻ってきて、それからパウロははじめて使徒たちに会おうとしてエルサレムに上りました。そして、そこでペトロと出会うことになるのですが、そのお話しは次回にいたします。 |
|
|
|
|
聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
|
|
|