ペトロ物語(34)
「フィリポのサマリア伝道」
Jesus, Lover Of My Soul
旧約聖書 イザヤ書55章8-13節
新約聖書 使徒言行録8章1-13節
命の冠なるステファノ
 先週は、ステファノの殉教についてお話しをしました。先週お話ししなかったことを一つ補足しておきたいと思うのですが、「ステファノ」という名前は「冠」という意味がありました。そして、この言葉を用いて、『ヨハネの黙示録』3章11節では、こういうことが言われています。

 あなたの栄冠をだれにも奪われないように、持っているものを固く守りなさい。

 「あなたの栄冠」、つまり「あなたのステファノ」と、ここには書いてあるのです。

 「あなたの栄冠」とはなんでしょうか。日本ハムのヒルマン監督は、二年連続のリーグ優勝を果たしました。特に今年はスター選手の新庄とか小笠原がいなくなって、シーズンが始まる前の下馬評では四位か、五位か、六位と言われていました。そういう中で今年も優勝を果たすことができた。これはヒルマン監督の大いなる栄冠だと言えましょう。では、みなさんの人生の栄冠は何でしょうか。有名大学で学位をとったことでしょうか。一生懸命に働いて、家を建てることができたことでしょうか。小さなお店を大きくすることができたことでしょうか。社会的な地位を築いたことでしょうか。苦労してお育てになったご子息、ご息女が世の中で立派に活躍されていることでしょうか。クリスチャンであるヒルマン監督は、北海道江別市にある五つの教会が合同で開いた伝道集会に招かれて証しをしました。彼はシリーズ優勝の証しであるチャンピオン・リングを人々に見せながら、「このチャンピオン・リングは、私にとって非常に大切な、意味のあるものです。でも、私が死んでしまったら、あまり意味がないものになってしまうでしょう。」と言い、一つの御言葉を読みました。

 あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。エフェソの信徒への手紙2章8-9節

 そして、私なりの要約ですが、このように言われたのです。「私が人生で最も素晴らしい栄冠は、イエス・キリストによって永遠の命を与えられたことです。私は世間で言われているような立派な人間ではありません。でも、このような私を神様が愛してくださって、イエス様を与えてくださった。私はこのことを何よりも大切にして、寝ても覚めてイエス様との親しい交わりを持つように努めています。私はもちろんこれからの試合にも勝ちたいと願っていますが、私が日本を去るときには、立派な監督であったと言われるのではなく、立派なキリストの僕であったと言われるようになりたいと思っています」

 私たちも、このように言えるクリスチャンでありたいと願います。この世で私たちがなし得たこと、勝ち得たこと、それはそれで素晴らしいことであります。けれども、何よりも一番素晴らしいことは、私たちのためにイエス様が十字架にかかってくださったこと、それによって私たちのすべての罪をゆるし、神の子としてくださったことではないでしょうか。これが私たちに与えられた朽ちることのない栄冠なのです。

 そのあなたの栄冠を、だれにも奪われないように固く守りなさいと、『ヨハネの黙示録』は教えているのです。そして、この栄冠という言葉がステファノという言葉であることは先ほど申しました。殉教者としてのステファノと、イエス様が与えてくださった命の冠としてステファノ、この二つのことを重ね合わせて考えてみますと、キリストのために死ぬということはキリストのうちに生きるということであり、キリストのうちに生きるということはキリストのために死ぬことであるということが見えてくるのであります。
転んでただでは起きない
 さて、今日はフィリポの話しであります。ステファノの殉教を契機に、エルサレムではユダヤ教徒らによるキリスト教への大迫害が起こりました。一人を死なせてしまったわけですから、それを正当化するためには、もう引き下がるわけにはいかない。徹底した迫害、弾圧をもってキリスト教は邪悪な宗教であると言い続ける必要が生じたということではないでしょうか。

 しかし、先週もお話ししましたように、教会というのは内に外にいろいろな問題を抱え込みながらも、それを乗り越えていくことによって成長していくのであります。8章1節にこう記されています。

 その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った。

 この御言葉は、エルサレム教会の崩壊と言ってもいいような危機が訪れたことを物語っています。しかし、4節をみますと、こう書いてあるのです。

 さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。

 「転んでもただでは起きない」、迫害されてエルサレムから追い出されたら、それを伝道のチャンスに変えていく。これが神様と共に生きるクリスチャンであり、教会であります。『ローマの信徒への手紙』8章28節にも、有名なこういう御言葉があります。

 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。

 神様と共に働く者、共に生きる者にとっては、人間的な考えからすれば最悪の事態としかいいようのないことであったとしても、それさえも何か意味のある、価値のある実りをもたらすものとなる。そう信じていいのだということ、それが「万事が益となるように働く」ということであります。ですから、この世がどんなにクリスチャンを迫害しても、この世はクリスチャンに勝つことができません。クリスチャンにとってはすべてが益となってしまうからです。ユダヤ教がクリスチャンを迫害することによって、クリスチャンは世界に目を向けて伝道を開始するようになりました。そして、教会はアジアからヨーロッパやアフリカへと広がっていくのです。

 ところが今度は、ローマ帝国が250年にわたってクリスチャンを迫害します。しかし、クリスチャンはこれもチャンスとしていきます。第一に、この世でなく神の国に対する希望を一層明確な信仰とすることができました。第二に、自分たちが迫害され、社会の底辺に追い込まれることによって、もともと社会の中で虐げられていた奴隷であるとか、やもめであるとか、孤児であるとか、貧しい人々の隣人となり、彼らに愛をもって仕え、キリストの福音を分かつことによって成長していったのであります。そのうちにローマ帝国の方が弱体化してしまいます。そして、キリスト教と手を組んで、ローマ帝国の建て直そうということになりまして、313年、コンスタンティヌス帝はキリスト教を公認することになったのでした。

 イエス様はこう言われました。

 あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。

 私はこの御言葉を聞くとき、いつもある牧師の説教を思い起こすのです。彼はこう語りました。

 「私たちは戦わなければならない。けれども、勝つか負けるかの戦いではない。すでに決まっている勝利を、自分たちの手に収めるために戦うのだ」

 私たちの世の生活は、様々な戦いの連続です。しかし、どんなに打ち負かされても、私たちは「ただでは起きない」クリスチャンになりたいものです。そうすれば、最後の最後に、私たちのために用意されている勝利を手にすることができるのです。
敵意を超えて
 エルサレムから散らされていった人々のなかに、フィリポという人物がいました。フィリポは、ステファノと同じように教会の七人の役員のうちの一人でした。彼はエルサレムを出ると、サマリア地方に行って、その町々、村々でキリストを宣べ伝えた、と記されています。

 サマリアというのは、イスラエルの中にある外国のようなところでありました。サマリアに住む人々はサマリア人と呼ばれ、もともとはユダヤ人と同族なのですが、紀元前8世紀、アッシリア帝国によってこのサマリアが占領されたとき、サマリアに住む主だったユダヤ人が外国に連れて行かれたり、逆に異邦人がサマリアに入植してきたりしたのです。その時、サマリアに残っていたユダヤ人たちは異邦人と雑婚したり、異邦の文化を取り入れたりしたため、純粋なユダヤ人から差別されるようになったわけです。

 しかし、福音書を見ますと、イエス様はこのサマリアの人々と進んで交わりをお持ちになったということが記されています。有名なのは、『ヨハネによる福音書』4章に記されているお話しです。イエス様がサマリア地方を通られたとき、シカルという町の井戸でお休みになります。すると、そこにサマリア人女性が水を汲みにやってきて、イエス様との対話が始まるのです。そして、サマリア人女性は、最初はユダヤ人であるイエス様を警戒しているのですが、話しているうちに、この方がメシアであるということを確信するようになったという話しです。また「良きサマリア人」という、強盗に襲われた旅人を助けたサマリア人を主人公にしたたとえ話もお話しになりました。

 他にもありますが、イエス様というお方は、このように敵意という人間と人間の壁を取り除かれるお方であるということが、イエス様のサマリア人に対する接し方の中によく現れているのです。敵意というのは、要するに自己主張と自己主張がぶつかり合うことです。しかし、イエス様はすべての人が等しく神様の愛と恵みを受けて生かされているのだということをお教えくださいます。誰が偉いとか、誰が間違っているということではなく、すべての人がみな神様の前に罪人であり、またすべての人がみなイエス様の十字架によって罪をゆるされ、恵みによって神の子とされるのだということをお教え下さったのです。

 しかし、そうは言っても、実際、今まで敵対していた人々を隣人として迎える、愛するということはたいへん難しいことです。教会もそうでありまして、最初はユダヤ人に対してのみ福音を伝えていたのでありました。しかし、フィリポによって初めてその垣根を越え、まずはサマリア人に、次にはエチオピア人に、福音が宣べ伝えられたのでありました。ステファノが教会が出した最初の殉教者であったのに対し、フィリポは最初に異邦人伝道を始めた人であったわけです。

サマリア伝道

 さて、フィリポのサマリア伝道について、聖書は次のように記しています。

 フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。群衆は、フィリポの行うしるしを見聞きしていたので、こぞってその話に聞き入った。実際、汚れた霊に取りつかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫びながら出て行き、多くの中風患者や足の不自由な人もいやしてもらった。町の人々は大変喜んだ。(8章5-8節)

 ここには、三つのことが記されています。一つは「キリストを宣べ伝えた」ということです。12節をみますと、「フィリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせるのを人々は信じ」と書いてあります。また14節には「サマリアの人々が神の言葉を受け入れた」という言い方もされています。25節では、これはペトロとヨハネについてでありますが、「主の言葉を力強く証しして語った」とあります。いろいろ表現がありますが、一言で言えば福音を伝えたということなのです。

 福音というのは、いつも申し上げていることですが、イエス・キリストのしてくださったことと、してくださること、この二つによって私たちが救われるということです。「してくださったこと」だけではなく、「してくださること」があるということは、イエス・キリストが生きておられるということでもあります。単にイエス様という偉大なお方がおられて、こういうことを教えられたという話しではなく、生けるキリスト、つまり今生きて私たちを愛し、救ってくださるキリストを伝えること、それが福音なのです。

 第二に、フィリポは生けるキリストを伝えるとき、言葉だけではなく、不思議な業、力ある業をもって、それを伝えたということであります。汚れた霊が大声で叫びながら出て行ったとか、病気が治ったということが書かれています。これは、人々がフィリポを通して、生けるキリストに触れる経験をしたということです。伝道というのは福音を伝えることでありますが、それは言葉ではなく力なのです。十字架による罪のゆるし、キリストの復活、キリストの再臨、そのようなことはどんなに言葉を尽くしても、伝えられるものではありません。では福音はどうやって伝えるのかといえば、人々を生けるキリストに引き合わせるということしかないわけです。その際、言葉も役に立ちます。けれども言葉だけでは無理なのでありまして、生けるキリストの力に触れる経験が相手に起こらなければ、伝道というのは成功しないのです。

 みなさんも、御自分がキリストを受け入れた時のことを思い越していただければ分かると思います。どういう経験をなさったかは人によって違うと思いますが、「ああ、これが神様の愛なのか」という神様の愛に触れる経験、あるいは祈りが聞かれたという経験、あるいは人知を超えた神の平安に包まれる経験、そのような何らかのキリストの力、救いというものを味わって、そこから生けるキリストへの信仰が生まれたのではないでしょうか。そして、皆さんがそういう経験をなさる背景には、必ず皆さんのことを愛して、真剣に祈っていてくださった方がおられたはずなのです。私たちも愛する人々のために、イエス様がその人に近づいてくださり、触れてくださり、イエス様の愛と力で満たしてくださることを祈る人になりたいものであります。それが伝道なのです。

 第三に、「町の人々はたいへん喜んだ」と記されています。救われたのだから喜ぶのは当たり前だという人もあるかもしれません。でも、私はここを読むと「ああ、この人たちは本当に福音を聞くことを待ち望んでいたんだな」と思うのです。サマリアの人たちの魂は、神様に愛に、救いに、生きる道を示す真の教えに、飢え渇いていたのです

 それまで、サマリアの人たちは、シモンという魔術師が行う魔術に心奪われていたと言われています。魔術なんてインチキだと言う人もいますが、私はそうは思いません。この世には神様の愛、イエス様の恵みの力も働いていますが、同時にサタンによるデモーニッシュな力も働いているのです。聖書にはサタンも光の天使を装うことがあると言いますから、デモーニッシュな力と言っても、何かおぞましいことが起こるばかりではなく、いかにも良き力のようにそれが働くことだってあるわけです。

 しかし、魔術というのは、人を救うことはできません。ただ人を驚かせるだけなのです。聖書にも9-11節をみますと、こう書かれています。

 ところで、この町に以前からシモンという人がいて、魔術を使ってサマリアの人々を驚かせ、偉大な人物と自称していた。それで、小さな者から大きな者に至るまで皆、「この人こそ偉大なものといわれる神の力だ」と言って注目していた。人々が彼に注目したのは、長い間その魔術に心を奪われていたからである。

 シモンは魔術を使って人々を驚かせていた。そして、自分で自分を偉大なものだと吹聴していた。サマリアの人々は、それに心を奪われていた、ということが書かれているのであります。救われていたのではないのです。救われていたならば、彼らはフィリポの伝える福音を聞いても、何の興味も示さなかったでありましょう。しかし、12節にはこう書いてあります。

 しかし、フィリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせるのを人々は信じ、男も女も洗礼を受けた。

 彼らは、フィリポの伝えるキリストを知り、「ああ、これこそ本物の救いだ」とはじめて気がつき、イエス様を信じて洗礼を受けたというのであります。

 今の私たちの世の中にも、まがい物の救いが溢れているのではないでしょうか。占いとか、スピリチュアルなカウンセリングとか、魔術まがいものもあります。あるいは賭け事であるとか、酒場であるとか、パソコンゲームであるとか、一時的に現実から逃れる時間や空間を提供するものもあります。一見すると、なんだかそういうもので結構満ちたりていたり、幸せそうに見えたりすることもあるのですが、実際には本当の救いにはなっていないのです。まことの救いを、生きる道に飢え渇いているのです。だから、最近も万病に効くお水を売って信者を獲得している宗教がらみの変な事件がありましたが、ああいう胡散臭い宗教に身を寄せてしまう人々が出てくるのではないでしょうか。

 我々は違う、そんなことを言っているだけでは駄目だと、私は思います。本当の救いはここにあるということを、かつてペトロが語った言葉をここで引用すれば、「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか与えられていないのです」ということを誰に対しても、いかなる時でも、大胆に証しし、キリストを世に伝えていきたいと願うのです。それが「あなたがたは世の光である」と言ってくださったイエス様のお心なのです。
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