|
|
|
ステファノの殉教をきっかけにエルサレムではユダヤ教徒によるクリスチャンへの大迫害が起こりました。その中、多くの信者たちがエルサレムを離れていかざるを得なくなるのです。エルサレム教会にとって、これは存亡に関わるたいへんな危機であったに違いありません。しかし、神様のご計画のなかでは「凡てのこと相働きて益となる」と御言葉があるごとく、エルサレム教会の一大事もまた、エルサレムから散らされて行った人々が行く先々で福音を伝えた結果、キリストの福音が世界に広まっていくという良い実を結ぶことになりました。その最初に現れた実が、フィリポのサマリア伝道の成功だったわけです。
今日はそのサマリア伝道のお話しの後半部分をお読みしました。14節をもう一度読んでみたいと思います。
エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをそこへ行かせた。
「エルサレムにいた使徒たち」とありますが、エルサレム教の信者たちがみんなエルサレムを離れていってしまう中、ペトロをはじめとする十二使徒たちはエルサレムにとどまり、教会を死守していたのでありました。聖書は何も語っていませんが、ステファノに続く殉教者が出たかも知れません。信仰を棄ててしまう人も出たかも知れません。そういう中で信仰を守り、信徒たちを励ますために、使徒たちはエルサレムに留まり続けていたのでありましょう。
そこに、思いもよらぬ吉報が届けられたのです。フィリポがサマリアで福音を宣べ伝え、多くの新しいクリスチャンが生まれた。これを聞いて、ペトロたちはどんなに喜び、慰められ、勇気を得たことでありましょうか。イエス様は生きておられる。このような大苦難の中にあっても、主は御国建設の御事業を推し進めてくださっている。ペトロたちは力の限りに主を讃美したに違いありません。
『ヨハネの黙示録』19章12節に、ヨハネが幻に見たイエス様に姿について、こういう御言葉があります。
この方には、自分のほかはだれも知らない名が記されていた。
イエス様には「だれも知らない名」があると言われています。「名は体を表す」といいますから、イエス様にはまだまだ私たちの知らない御姿があるのだということでありましょう。今も私たちはイエス様の素晴らしさを知り、御名を崇めているでありましょう。しかし、私たちはもっと素晴らしいイエス様に出会うこともできるということなのです。
この方には、自分のほかはだれも知らない名が記されていた。
ですから、私たちはどんな時も絶望してはいけません。私たちのあらゆる知識が、経験が、「もう駄目だ」と心の中で悲鳴をあげていても、まだ私たちが見たことも、聞いたこともないような栄光が、イエス様には隠されているのです。そのことを信じ、希望をもって、「御名を崇めさせ給え」と祈り続ける者でありたいとねがいます。必ずイエス様との驚くべき出会いが与えられ、「ああ、イエス様という方はこんなに素晴らしいお方なのだ」と、まるで今日はじめてイエス様を知ったかのような感動に包まれることでありましょう。
すると、私たちに新しい歌が生まれるんですね。「主に向かって新しい歌を歌え」という御言葉が、何度も聖書に繰り返されています。教会は何百年も前に作られた古い讃美歌ばかり歌っていないで、新しい現代風の讃美歌で主を讃美せよということではないのです。今までイエス様との驚くべき出会いを果たし、主に対する新しい感動に溢れよということです。
さて、サマリア伝道の報告に新たなる力を得たペトロたちは、主に対する新しい歌に溢れながら、たとえ自分たちを取り囲む状況がどんなであろうとも、自分たちはただエルサレムに踏みとどまって教会を守るといる防戦ばかりではなく、積極的に出て行って、新しい魂を勝ち取るという積極的な勝利に向けての戦いができるのだと思える勇気がわいてきました。それで、エルサレム教会は、ペトロとヨハネをサマリアに派遣して、使徒たち自らがサマリア伝道を応援することにしたというのです。
|
|
|
|
|
15-17節を読んでみましょう。
二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも降っていなかったからである。ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。
ここにはとても興味深いことが書かれています。サマリアの人々は主の御名によるバプテスマを受けていたけれども、まだ聖霊によるバプテスマを受けていなかったというのです。それでペトロとヨハネが、人々の上に手を置いて祈ると、サマリアの人たちはようやく聖霊を受けることができたというのです。
これとそっくりの話が、『使徒言行録』のもっと後の方で出てきます。パウロのエフェソ伝道における話しです。エフェソに最初に福音を伝えたのはアポロという伝道者でありました。このアポロ去ってコリントに行った後、パウロがエフェソにやってきます。『使徒言行録』19章1-6節を読んでみたいと思います。
アポロがコリントにいたときのことである。パウロは、内陸の地方を通ってエフェソに下って来て、何人かの弟子に出会い、彼らに、「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と言うと、彼らは、「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と言った。パウロが、「それなら、どんな洗礼を受けたのですか」と言うと、「ヨハネの洗礼です」と言った。そこで、パウロは言った。「ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼を授けたのです。」人々はこれを聞いて主イエスの名によって洗礼を受けた。パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、その人たちは異言を話したり、預言をしたりした。
パウロがエフェソにやってくると、エフェソにはすでに何人かのキリストへの信仰をもった人たちがいました。ところが、彼らは「ヨハネのバプテスマ」しか受けていなかったというのです。主の御名によるバプテスマではなく、ヨハネのバプテスマというところが気になるところですが、今日はこのことについてお話しする時間がありません。注目したいのは、エフェソの人たちはクリスチャンになりながらも、「聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と言っていることです。そこでパウロは、エフェソの人たちに手を置いて祈ると、彼らの上に聖霊がくだったという話しであります。
このようなくだりを読みますと、どうやら洗礼(バプテスマ)を受けることと、聖霊を受けることは別物らしいということにお気づきになると思います。簡単に申しますと、「ヨハネのバプテスマ」というのは、洗礼者ヨハネが始めた洗礼でありまして、パウロが説明している通り、イエス様を信じて受け入れるための悔い改めのバプテスマでした。今日の教会で、この「ヨハネのバプテスマ」が敢えて授けられるということはありません。その意味は、イエス様に結ばれるための「主の名によるバプテスマ」によって継承されているのだと言ってもよいでありましょう。そして、このような洗礼は水を用いて授けられたために「水のバプテスマ」と言われます。それに対して、「手を置いて祈る」という行いを通して授けられる「聖霊のバプテスマ」があったのです。聖霊というのは、神様の御霊です。神様の御霊が注がれる、その中に私たちがどっぷりと浸される、それが「聖霊のバプテスマ」でありました。
では、私たちが教会で受けたバプテスマは、いかなるバプテスマだったのかということが気になるところであります。もちろん、それは「主の名によるバプテスマ」には違いありません。しかし、それは「聖霊のバプテスマ」でもあったのでしょうか。結論から申しますと、水のバプテスマ、聖霊のバプテスマを共にお受けになっているのです。
私は、まず水によって洗礼を授け、「父と、子と、聖霊の名によって、あなたに洗礼を授ける」と宣言いたします。これによって、みなさん古い人に死に、清められ、イエス様という「まことのぶどうの木」に結ばれた若枝として生まれ変わるのであります。そして、その上で、私は頭に手を置いたまま、このように祈りました。「御霊に満たされ、新しい人として世に出て行きなさい。義と信仰と、愛と忍耐と、柔和を追い求め、残りの日の望みを固く保ち、信仰の戦いを生涯続けなさい」。こうして皆さんは、按手による聖霊のバプテスマをお受けになっているのであります。
原則的にはこの二つのバプテスマは分離できるのでありまして、たとえば幼児洗礼と信仰告白式(堅信礼)の関係などはその例だと考えています。幼子は水のバプテスマによってイエス様につなげられ、イエス様の恵みによって支えられますが、まだ自覚的なクリスチャンとして生きてはいません。主の恵みに感謝し、応答する信仰が与えられたとき、信仰告白(堅信礼)をもって御霊を受け、キリストの肢として新しい命を自覚的に生き始めるのであります。そう考えますと、「聖霊のバプテスマ」というのは、私たちが単なるクリスチャンとしての実を結ぶための新しい命を授けられることだと言い換えてもよいかもしれません。
エフェソでパウロが聖霊のバプテスマを授けると、聖霊を受けた人々は「異言」を話したり、「預言」をしたりしたとあります。それは、その人が、聖霊によって神の賜物を授かったことを意味しているのです。聖霊の賜物は何も異言や預言だけではなくていろいろあります。しかし、大切なことは、私たちが生まれながらに持っている自分の力によってではなく、上より授かった神の賜物に生かされ、クリスチャンとして実を結ぶようになるということなのです。その実とは、『ガラテヤ書』5章22-23節にはっきりと書かれております。
霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。
それに対して、肉の業が結び実も書かれていまして、
肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。
というのです。私たちは聖霊のバプテスマを受け、聖霊の賜物を内に戴いているのですから、肉に従ってではなく、内なる霊の働きに従うことによって、霊の実を結ぶ者になるのです。
ですから、『使徒言行録』8章18節に、こう書かれています。
シモンは、使徒たちが手を置くことで、"霊"が与えられるのを見、
聖霊というのは、目に見えないのでありますけれども、聖霊が授けられと、それがはっきりとその現れが見えたというのであります。聖霊が見えたのではなく、聖霊の賜物が人々に与えられ、それによって聖霊の働きがその人のうち起こり、聖霊の実が結ばれていくが見えたということであります。
しかし、「宝の持ち腐れ」という言葉は、聖霊の賜物に対しても当てはまるのではないでしょうか。だからこそ、パウロは『ガラテヤ書』の中で「御霊によって歩みなさい」ということも言っています。もし与えられた聖霊の賜物を無駄にして、いつまでも肉の働きによって生きるならば、その結果も明らかなのです。 |
|
|
|
|
さて、今読みました18節ですが、シモンというのは先週もお話ししました魔術師シモンのことであります。彼は魔術を行い、自分を偉大な者であると自称し、サマリアの人々の心を惑わしていました。彼もまた、フィリポの伝える福音を受け入れて、主の御名による洗礼を受けたのでありますが、実は彼にはよこしまな心がありまして、洗礼を受けながらも、実は純粋に福音を受け入れたのではなかったのだということが今日のところに明らかさにされているのであります。
まずは、先週お読みしました13節をもう一度読んでみましょう。
シモン自身も信じて洗礼を受け、いつもフィリポにつき従い、すばらしいしるしと奇跡が行われるのを見て驚いていた。
ここで、すでにシモンの関心は、福音の中身というよりも、フィリポの行う主の御業・・・おそらくシモンにはそれが魔術に見えたのでありましょうが、そこに一番の関心があったのだということが見て取れるのであります。
そして、18-19節を読んでみますと、
シモンは、使徒たちが手を置くことで、"霊"が与えられるのを見、金を持って来て、言った。「わたしが手を置けば、だれでも聖霊が受けられるように、わたしにもその力を授けてください。」
救いを求めている人であったならば、「わたしも聖霊を授けてください」と願うのでありましょう。それとて、お金で聖霊を受けようとするならばたいへんな誤解なのですが、シモンはそれとはちょっと違うのです。シモンが願ったのは、聖霊を授ける力であります。自分が聖霊を受けるということではなく、その魔術を私にも教えてくださいとお願いしたわけです。もちろん、ペトロは魔術を使ったのではありませんが、シモンにはそう見えたわけです。
先週、魔術というのは決して有り得ないことではなく、デモーニッシュな力として存在するだろうと申しました。しかし、魔術というのは人を驚かせはしても、人を救うことはできないのだと申し上げたのです。今日、もう一つ付け加えますと、魔術というのは、一種の技術なのだということであります。人間は、自然界の法則を利用して飛行機を空に飛ばしたり、小さな物質からとてつもないほど大きなエネルギーを取り出したり、天気を予報したりいたします。これは科学技術と呼ばれて、魔術とは違うもののように考えられていますが、大昔はそういう科学技術も一種の魔術だったわけです。たとえば科学技術も、その仕組みを秘伝として特別な人だけに伝え、多くの人々に秘密していたら、やはり魔術に見えるのではないでしょうか。大昔はそうだったのです。もちろん、自然界の力だけではなく、先週申し上げたようなデモーニッシュな力や知恵というものを身につけて、霊的なことも行っていた。それが魔術師です。
このように魔術師というのは、自然界、霊界の仕組みを知り、それを利用する知恵や技術を身につけた人なのです。そして、そういう知恵や技術というのは大金を積んで教えてもらったり、学んだりするものだったのではないでしょうか。だから、シモンは、ペトロの前にお金をもってきたのだと思います。
しかし、ペトロは魔術師ではありません。なぜなら、ペトロは知恵や力を支配する力をもっているのではなく、神の知恵と力に支配される人間だったからです。この点がシモンとペトロの大きな違いでありましょう。
ペトロは、シモンのよこしまな心に厳しく叱責します。
すると、ペトロは言った。「この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ。お前はこのことに何のかかわりもなければ、権利もない。お前の心が神の前に正しくないからだ。この悪事を悔い改め、主に祈れ。そのような心の思いでも、赦していただけるかもしれないからだ。お前は腹黒い者であり、悪の縄目に縛られていることが、わたしには分かっている。」
シモンの過ちは二つあります。一つは、神の賜物をお金で買えるもの、つまり自分の力で手に入れることができるものだと考えていたことです。私たちはもうよく知っていると思いますが、世の中にはお金では買えないものがあるのです。お金というのは、自分の働きによって稼ぐものであります。従って、お金で買えるものとは、自分の力さえあれば、努力で手に入れることができるものということなのです。しかし、世の中には、お金で買えないもの、つまりどんなに一生懸命に働いても、努力しても、それだけではどうにもならないものがあるということなのです。
もう一つは、神の賜物をお金で手に入れようとしたシモンの心には、明らかに神の賜物を自分の手中に収め、それを自分の力で支配することによって自分が神のごとく偉大なものになれると思っていたし、そういう願望があったということであります。つまり、シモンは神に従うというよりも、神を支配しようとしたのであります。あるいは神を崇めるというよりも、自分が神になろうとしたのであります。そういうシモンのデモーニッシュな思想を見抜いたがゆえに、ペトロは非常に厳しくシモンを叱責したのでありましょう。
聖霊というのは、学んで身につけたり、ましてや金で買ったりするものではありません。それは神の賜物であって、魔術とはまったく違うものなのです。神の賜物は、知識でも、技術でもなく、愛の賜物なのです。みなさんも、愛の賜物をお金で買い取ろうなどとは思わないはずです。ただただ神様に対して私たちの愛を献げ、それに対して神様が愛と憐れみをもって授けてくださるものが、愛の賜物なのです。
シモンは答えた。「おっしゃったことが何一つわたしの身に起こらないように、主に祈ってください。」
シモンは、ペトロの言葉を聞いて恐れました。しかし、シモンが本心から悔い改めたかどうかは、聖書に記されていません。伝説によると、シモンはローマで皇帝お抱えの魔術師となり、自分なりの教義を説いて、キリスト教異端の祖となって、ペトロの宣教を妨げ続けたと言われています。もし、そうだとしたら本当に残念なことであります。シモンは悔い改めのチャンスが与えられていたにも関わらず、神様の前にへりくだることができなかったのであります。
洗礼を受けるということは、本当に神様の大きな恵みでありますけれども、洗礼を受けたからもう大丈夫だということではなく、私たちは生涯にわたって日々信仰を吟味し、悔い改め、聖霊によって歩み、御霊の実を豊かに結ぶ者になりたいと願うのであります。 |
|
|
|
|
|
|
|
聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
|
|
|