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ペトロは、イエス・キリストの僕(しもべ)でありました。僕にとって大切なことはいくつもあることと思います。忠実であること。勤勉であること。また余計なことをしないこと。また、主人を敬愛し、その僕であることに誇りを持つことも必要でありましょう。しかし、これらすべてのことに先だって、第一に大切なことがあります。それは、主人の話しをよく聞く、ということです。話しも聞かずに飛び出してしまうような慌て者では、どんなによく働いたとしても、僕としては失格です。僕の本分は、主人の御心を行うことにあるのでありまして、御心がどこにあるのかということを十分に理解し、わきまえなければ、僕としての働きができないのです。
ペトロという人は、実はこの点において、これまで何度か失敗を繰り返してきた人ありました。たとえば、フィリポ・カイザリアでの出来事であります。その時、イエス様ははじめて弟子たちに御自分の隠れされた使命を明かされました。それは、エルサレムで苦しみを受け、十字架にかかって死ぬということであります。ところが、それを聞くや否や、ペトロはイエス様をわきへお連れして、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と、こともあろうにイエス様を諫め始めたというのです。ペトロにしてみれば、イエス様への深い愛情から出たことなで、その気持ちは十分に分かるのですが、イエス様は「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」とペトロを厳しく叱責されたのでした。
それから、ゲツセマネの園に、兵士たちを連れたユダヤ教のお偉方が現れて、イエス様を逮捕しようとする時のことです。ペトロはイエス様をお守りしようとして、剣を抜いて、敵に襲いかかりました。そしてマルコスという人の右耳を切り落としたというのですが、この時も、ペトロはイエス様に「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は飲むべきではないか」と叱られています。このように、いくらイエス様のことを思うが故の言葉、行動でありましても、まずイエス様の御心がどこにあるのかということを考え、それに耳を傾けるということを忘れてしまえば、イエス様の僕ではなく単なる慌て者になってしまうのであります。
そういう苦い経験をふまえて、ペトロをはじめとする使徒たちは「わたしたちは祈りと御言葉の奉仕に専念します」(4節)と語っております。祈ること、そして御言葉に聞くこと、それによってイエス様の御心をいつも尋ね求め、自分の思いではなくそこにこそ従う信仰を新たにさせられなければ、どんなに一生懸命であったとしても、その働きは空回りをしてしまうのです。よい僕になり、よい働きをするためには、祈ること、そして御言葉に聞くことによって、いつも主の御心と自分たちの思いを一つにさせていただくことが必要なのです。
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ところで、ペトロたちが、教会の中で、「私たちは祈りと御言葉の奉仕に専念します」というようなことを、敢えて話しをしなければならなかったのには、それなりの理由がありました。教会内にいろいろなトラブルが生じ、その問題に対処することで使徒たちがたいへん忙しくなってしまったのであります。おそらく使徒たちは、その一つ一つの問題に丁寧に対応したことでありましょう。けれども、1万人を超える信徒たちに対して、使徒たちの数はたった12人です。これでは身が持ちません。そういう中で何よりも彼らが危惧したのが、祈る時間や御言葉を学ぶ時間を確保するのが、だんだんと難しくなってきたということでありました。
そういう中で、また新たな問題が生じました。ギリシャ語を話すユダヤ人のグループと、ヘブライ語を話すユダヤ人のグループの間に対立が手に負えないほど大きくなってきたのです。ここではやもめに対する日々の分配に不公平があったということが書かれていますが、問題はもっと根深いものであったと思われます。
ギリシャ語を話すユダヤ人とは、ユダヤ本国を離れて外国に移住し、そこで様々な生計を立てて暮らしていた人々であります。この人たちは、一種のコスモポリタンでありまして、ギリシャやローマの文化の影響を受け、外国人と接し、新しい思想や生活態度を身につけておりました。それに対して、ヘブライ語を話すユダヤ人とは、ユダヤ本国を離れたことがなく、ユダヤ人として伝統や習慣にどっぷりとつかった人々です。どちらもイエス様を信じ、クリスチャンとなった人々でありましたが、何かにつけお互いの生活習慣や考え方の違いが生じ、くすぶっていた問題が、やめもたちの給食の問題を通して表面化し、噴出したのではないでしょうか。
ヘブライ語を話すユダヤ人のグループに比べて、ギリシャ語を話すユダヤ人たちのグループへの配給が少ないと不満ですが、そういう露骨な差別が、教会の中に本当にあったのかどうか、それは疑問です。たぶんそうではないのではないかと、私は思います。たとえ差別がなくても、ちょっとした心のすれ違いがこういう問題に発展するということはよくあることなのです。たとえば夫婦でも、それぞれがお互いを思いやっているのに、その気持ちが通じ合わないと、自分のことがなおざりにされていると思い込んでしまうことがあります。隣人とのおつきあいでも、気を遣ったつもりなのに、それが誤解されてしまうということがあるのです。当然、教会も人間の集まりでありますから、そういうことが起こりえます。ギリシャ語を話すユダヤ人とヘブライ語を話すユダヤ人のように育った文化や言葉が違えば、なおさらのことだと思うのです。
ここで私たちが考えなければならないのは、教会というのは神の教会であると同時に、弱さをもった人間の集まりでもあるということなのです。「教会はキリストの体である」という御言葉があります。教会という組織はキリストのからだを形作る組織なのです。そういう意味では、教会というのは、世にはなき神の愛、真理、正義が、キリストの恵みとして豊かに実現する場所であると言えましょう。しかし、同時に教会を構成する私たちひとりひとりは、聖人君子ではなく、弱さも罪深さも抱えた人間であります。そのような貧しき人間が形作っているのが教会なのであります。 |
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とはいえ、クリスチャンというのは、イエス様の教えを学び、聖霊を戴いて、そのような人間的な愚かさや弱さから清められた人たちではないのか? そういうクリスチャンが形作る教会は、この世的な過ちから清められているべきではないのか? そのように厳しくお考えになる人もいるでありましょう。
確かに、クリスチャンというのはイエス様の恵みを戴き、み教えを学び、聖霊によって新しい命を授けられて生きているのですから、この世と少しも変わらないということであってはならないと思います。けれども、私たちは完全な者となったから、教会の交わりにつなげられたのではないのです。不完全な者でありながらも、完全な者に向かって歩む者として、教会の交わりの中につなげられ、その中でさらになお自分を清めつつ、天国を目指しているのであります。
『コヘレトの言葉』7章16-17節には、ぜひ心に留めておきたい御言葉があります。
善人すぎるな、賢すぎるな
どうして滅びてよかろう。
悪事をすごすな、愚かすぎるな
どうして時も来ないのに死んでよかろう。
「悪事をすごすな、愚かすぎるな」というのは分かります。しかし、「善人すぎるな、賢すぎるな」とはどういうことでありましょうか? そもそも善人であることに「すぎる」ということがあるのでしょうか? 思うに、ここで善人すぎる人というのは、悪いことや間違ったことをみると赦せない、そういう強い正義感をもった人間のことだと思うのです。
たとえば律法主義には、そういうところがあるのです。律法主義というのは、律法を守ることが善であり、律法を守らないことが悪であるという考え方です。ところが律法というのは、本来、非常に曖昧なところがあるのですね。たとえば、安息日にはいかなる仕事も休んで、神様を礼拝しなさいという律法があります。けれども、仕事とは何かということが厳密に定義されているわけではないのです。畑に行くことは仕事だということは誰にでも分かります。井戸に水を汲みにいったり、かまどに火を起こすことが仕事であるということも容易に分かります。しかし、ペットに餌をやることはどうなのか? 花に水をやることはどうなのか? 雨戸を閉めることはどうなのか? 病人や怪我人を介抱することはどうなのか? そういうことは分からないのです。しかし、律法主義者にとっては、分からないでは済みません。だから、すべてのことを考え、これは仕事であり、これは仕事でないということを決めて、それを守るのです。そして、どんな小さなことであれ、それを守らない人を罪人だと決めるのです。
しかし、律法の曖昧さというのは、見方を変えれば何が善であるかということに幅を持たせているのだと解釈することもできるのではないでしょうか。たとえばイエス様の安息日に対する解釈は、律法学者のそれよりももっと大らかでありました。お腹が空いたら、食べればいい。病人がいたら迷うことなく介抱してあげればいい。要は、神様が人間に望んでおられることは、安息日に神様を喜ばせるような善いことであって、あれをしてはいけない、これをしてはいけないということではないのだというのです。
ところが善人であることに潔癖すぎると、そういう幅を持たせることができなくなってしまうのです。これは賢さも同じだと、聖書に記されています。賢すぎると、人のやっていることがみんな愚かに見えてしまう。しかし、神様の御心というのはもっと大らかで、広いものなのでありまして、そうやってあれは罪だ、悪だ、愚かだと裁いてしまっていることの中に、実は神様の隠された御心が潜んでいることもあるわけです。
たとえば、最初にも申しましたように、ペトロは何度も失敗をしています。「イエス様なんか知らない」と言ってしまったこともあります。けれども、イエス様は、そういうペトロに「お前は愚かで、不信仰だから駄目だ」とはおっしゃいませんでした。そうではなく、「立ち直ったら、他の弟子たちを励ましてやりなさい」とおっしゃった。つまり、ペトロがそういう苦い経験をすることも、他の弱き人たちを思いやり、励ますことができる人間になるために必要なことなのだと、イエス様は考えておられたのです。
もちろん、だからといって悪を奨励しているのではありません。悪事に留まることはもちろん避けなければなりません。しかし、自分の目に悪と映ること、愚かと映ること、そういうもの中にも、思いもよらない神の隠された御心がある、そのことも考える必要があるわけです。『コヘレトの言葉』7章18節にはこう記されています。
一つのことをつかむのはよいが、
ほかのことからも手を放してはいけない。
神を畏れ敬えば
どちらをも成し遂げることができる。
善き業に励むのは大事なことです。しかし、自分が善であると思わないこと、つまり悪や愚かさに見えること、そのことを単純に駄目だと決めつけることはできないのです。そうしないと、自分の善や知恵がすべてになってしまいます。そうではなく、大切なのは神の善、神の知恵が明らかにされることなのではないでしょうか。あんなにどうしようもない悪人が、今はあんなに素晴らしい神の僕になっている。あるいは、あんなに愚かな失敗をしたのに、かえってそれが良い結果をもたらした。そういうことが起これば、そこで神の知恵、神の善が明らかにされます。
教会とは、そういうところではないでしょうか。教会の中にも人間の愚かさがあり、人間の罪がある。しかし、神様は、そういうこと善なることをなさる力をもお持ちなのです。そういう神様の知恵と力によって、教会が清められ、成長していく。それが教会なのです。だから、教会で何か問題が起きたとき、誰が悪いとか、誰が愚かだということではなく、神を畏れ敬うことなのです。神様が為し給うことに期待することです。「神を畏れ敬えば、どちらをも成し遂げることができる。」とは、そういうことではないでしょうか。 |
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さて、ペトロたちは、やもめたちの配給の問題が起きたとき、どちらが悪いということを言いませんでした。また、こういう問題が起こるなら、もう面倒だからやめもへの配給などやめてしまおうとも言いませんでした。また、これは大変なことが起こった、どうしようと騒ぐこともしませんでした。
まず、ペトロたちは、信者たちを呼び集めます。この信者たちは「弟子たち」と呼ばれています。言うまでもないかも知れませんが、ペトロら十二使徒の弟子ということではなく、イエス様の弟子という意味です。つまり、十二使徒ばかりではなく、教会の信者たちというのは、みなイエス様の弟子なのです。私たちもそうなのです。
このような教会の信者たち、つまり弟子たちを集めてどうしたのでしょうか。この問題をどうしたらいいか、みんなで話し合おうと言ったのでしょうか。そうではありませんでした。教会というのは、民主的に話し合うところではありません。荒川教会も役員会、教会総会、またバザー委員会など、会議を開きますが、そういう会議というのは、民主的な話し合いが目的ではありません。弟子たちが集まったということは、イエス様の御言葉を聞き、イエス様の御心を尋ね求めるために他なりません。イエス様に抜きで、弟子たちだけで話し合い、これが民主的な話し合いの結果ですと言っても、何の意味もないのです。
「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、"霊"と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」
ペトロたち、十二使徒らは、祈りと御言葉の奉仕に専念する。そして、食事の世話などの問題は、聖霊と知恵に満ち、みんなが信頼できる七人の役員を選んで、その人たちに委ねる。ここには書かれていませんが、そのような七人を選んだならば、その人たちの指導に従うということがそこに含まれているのでありましょう。そういうことがここで提案されているのです。考えようによっては、強権的です。役員たちが自分の利益を求めるようなことがあれば、教会は大きく道を誤ることになります。しかし、そうならないために、十二使徒は祈りと御言葉の奉仕に専念すると言っているのです。
5節には、「一同はこの提案に賛成し」と書いてあります。やもめの給食のことで、二つのグループが対立をしました。しかし、ここでは一つになっています。イエス様の御心を尋ね求め、イエス様に従おうということにおいて、教会は一つになったのです。お互いの間にどんなに問題が起きても、その点において一つになれるのが教会なのです。
そして、7節には、こう記されています。
こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。
ギリシャ語を話すユダヤ人のグループとヘブライ語を話すユダヤ人のグループの間に亀裂が生じ、教会が二つに分裂しかねないような事態に陥ったにもかかわらず、教会はこのことによってかえって一つになり、ますます勢いづいて成長していったというのであります。その背景には、この事件を通して、教会が制度を整え、七人の役員を置いたこと、それによって十二使徒たちを多くの仕事から解放し、祈りと御言葉の奉仕に専念できるようにしたということがあったでありましょう。いずれにせよ、教会の危機は、教会の成長を促したのであります。こういうことがありますから、先ほどもうしましたように、自分の知恵や善の基準によって、なんでもかんでもこれは善い、これは悪いと言ってはいけないのです。
さて、明日はバザーであります。荒川教会の年中行事の中でも特に大きなイベントでありまして、みんながバザーの成功を願ってくださっていることだろうと思います。しかし、だからこそ、私はこうした方がいいと思う、いや、私はそうは思わないと、色々な考えがぶつかることもあるのです。そうしたときに、私たちは賢すぎる人間にならないように注意しなくてはなりません。つまり、私が絶対に正しいとか、あなたは絶対に間違っているという風にかんがえてはならないのです。
私たちはバザー委員を選んで、バザーのためにいろいろと知恵を出していただいたのですから、みんなでバザー委員に協力することが、イエス様に従うことだと、私は思います。そして、すべてを益とすることができるイエス様の知恵と力が働くように、心を一つにしてご奉仕をしたいと思います。
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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