ペトロ物語(31)
「神に従うペトロ」
Jesus, Lover Of My Soul
旧約聖書 詩編37編1-6節
新約聖書 使徒言行録5章17-42節
神への恐れ
 先週は、ペトロをはじめとする使徒たちが、人々の間で病を癒すなどの目覚ましい働きをなし、人々からの尊敬を受け、信者たちをさらに増やしていったという話しでありました。

 このような使徒たちの働きによって建てられた教会を、初代教会と呼ぶことがあります。初代教会は、現代的な教会に比べますと、いろいろな点で未熟なところもございます。たとえば、私たちが教会という言葉を聞いて思い浮かべるのは十字架のついた建物でありますけれども、初代教会にはそのような教会堂はありませんでした。信者の家々を拠点として活動しており、礼拝はエルサレム神殿で行っていたのであります。また今日のキリスト教は信徒数二十数億人の世界第一の宗教でありますけれども、初代教会においてはまだキリスト教というカテゴリーすらもなく、ユダヤ教の一分派、信徒数も高々一万人程度の新興宗教に過ぎませんでした。しかし、逆に初代教会にあって、今日の教会にないものもあります。それは、イエス様が教会にお送りくださった聖霊の生き生きとした働きであります。

 もちろん、今日の教会にも聖霊の働きがまったく見られないというわけではありません。しかし、初代教会の中にみられたそれに比べると、はなはだ弱々しいと言っても言い過ぎではないでありましょう。私自身の反省も含めて、それは何故なのだろうかということを問うてみますと、先週お話ししたことでありますが、神への恐れがなくなっているのではないかと思うのであります。人間の知恵、理性、そういうものが、神の知恵、神の神秘にまさって尊ばれる世の中にあって、教会もまた人間知恵、理性によって聖書を読み、信仰について考え、人間の知恵や理性の及ばないものについては、低俗な迷信であるとか、信仰だと考える風潮ができてしまっているのです。

 先週の週報でご紹介したお話しです。飛行機がトラブルに見舞われ、為す術を失ったパイロットが乗客にこう告げました。「まことに残念ながら、この飛行機がただいま深刻なトラブルに直面しています。もはや神だけが私たちが救うことができます」乗客の一人が状況をうまく飲み込めず、たまたま隣に座っていた牧師に尋ねました。「いま、パイロットはなんて言ったのですか?」牧師はこう答えます。「絶望的な状況です、と」

 これは笑い話です。しかし、素直に笑えない笑い話です。パイロットが「神のみが私たちを救える」と言った状況を、牧師が「絶望的な状況」とだめ押しをしている・・・信仰なんてそんなものだと皮肉られているわけです。つまり、神様なんてお題目のようなもので、現実の生活には何の助けて与えてくれないと理解されているわけです。神への畏れがないのです。残念ながら、今日の教会にこういう牧師がいないと断言することはできません。それどころか、こういう信仰がかなりはびこっているのではないかと危惧しているのです。

 しかし、私は、神学校にいる時、そのことでとても悩みました。神学というのは、信仰ではなく学問でありますから、当然、批評的、批判的なのです。私たちの信仰の土台である聖書に対しても、「これは本当はパウロが書いたのではない」とか、「これは後代の加筆だから、実際のイエス様の姿ではない」とか、そういう読み方を教えられるのです。そういうことをやっていると、聖書というのが今までのように素直に信じられなくなってしまうのです。これは神学が悪いのではありません。自分自信の信仰の曖昧さが露呈してしまうのですね。聖書は、神様がペンをもって書いたのではありません。人間が書いたのです。では、人間が書いた聖書が、どうして神の言葉なのか? どういう意味で神の言葉なのか? 本当に神の言葉なのか? そういうことを、自分の信仰の問題として突きつけられるわけです。そして、それを乗り越えるのは、神学ではなく、信仰なのですね。

 しかし、入学当初はそういうことがわかりませんから、自分の信仰がずたずたにされるような苦しさを味わったのです。その最たることは、イエス様の復活が信じられなくなってしまったということであります。イエス様は本当に生きていらっしゃるのか。そして、私のことを愛してお救い下さるのか。こういうことは、勉強すれば分かることではないのです。確かに勉強すれば、聖書にそう書いてあるということまでは分かります。でも、それが真実なのかどうか、本当に信じるに価することなのかどうか、そこは信仰によるしかないのです。

 そして、この信仰というのは、極めて主観的なものであります。ですから、人に聞いても分からないのです。自分と神様との問題であります。そこで生ける神と出会うことができるかどうか、そこにかかっているのです。私の神学校での体験は、神学という学問を学ぶことによって、信仰は学問ではなく、祈りによって与えられるものなのだということを知ったということでありました。そして、神との生ける出会いを求めて、復活の主をこの目で見ることを求めて、本当に祈りました。そして、それが与えられたからこそ、私は今、こうして皆さんの前に牧師として立っているのです。自分が信じていること、そして皆さんに伝えていることに、自分の命を委ねることができるからこそ、説教者として語っているのです。

 もちろん、私も弱さに満ちた人間です。ですから、祈って神様の聖霊を戴くことなくて出来ないことなのですが、それでもたとえばバイロットが「絶望的な状況です」と言ったときにも、神の救いについて語れる者でありたい、医者が「もう駄目です」という時にも、「神様にはできないことはありません」と言って、祈り続ける者でありたい、のです。デカルトは「我思う、ゆえに我あり」と言ったそうですが、そこでは100パーセント自分が主体です。しかし、自分という存在を超えた存在があるのです。自分が思うことがすべてではなく、それを凌駕する神の知恵、神の思いが、私を存在させているということを謙虚に、恐れをもって、また感謝をもって受け止めるが信仰なのです。

 別の言葉でいえば、神様の働く余地を残しておかなければいけないということです。クリスチャンは、どんな状況に置かれても、「もう駄目です」、「絶望です」、「これでおしまいです」と言ってはいけないのです。神様の働きに対する可能性というものを最後までとっておく、これが神への恐れと言うことでありましょう。この神への恐れがあるから、奇跡に対する信仰が生まれるのです。
理性絶対主義について
 さて、今日はその続きなのですが、ペトロをはじめとする使徒たちの、そのような信仰による働き、それによる教会の成長を見て、おもしろくない思いをしている人たちがいたというのです。それはユダヤ教の指導者や支配階級にいる人たちでありました。聖書にはこう書かれています。

 そこで、大祭司とその仲間のサドカイ派の人々は皆立ち上がり、ねたみに燃えて、使徒たちを捕らえて公の牢に入れた。(5章17-18節)

 「ねたみに燃えて」とあります。こんなことになったのは、ユダヤ教の指導者、支配階級が、ペトロたちに激しい嫉妬を覚えたからだというのです。私たちも、他の人が立派な仕事をしたり、人から誉められたり、正しい批判をしたりすると、うらやんだり、ねたんだりすることがあります。嫉妬というのは、誰の心にもある人間の弱さなのです。弱さなのでありますが、嫉妬する人間というのは非常に強い悪しきエネルギーを発揮するから、たちが悪いのです。嫉妬すると、人間は相手が正しい、優れたものをもっていると分かっていても、それを認めることができないで、かえって恥べき暴力や悪知恵をもって抑えつけようとしてしまうんですね。

 ですから、哲学者の三木清という人は、嫉妬というのは人間の中に潜む悪魔性であると、そういう激しい言葉を使って、『人生ノート』という本の中に、こういうふうに言っているのです。

 もし私に人間の性の善であることを疑わせるものがあるとしたら、それは人間の心における嫉妬の存在である。嫉妬こそベーコンがいったように悪魔に最もふさわしい属性である。なぜなら嫉妬は狡猾に、闇の中で、善いものを害することに向かって働くのが一般であるから。

 嫉妬というのは、善いものを善いと素直に認めることができないで、かえって善いものを悪いものに仕立てようとしてしまう。そのためにものすごい悪のエネルギー、活動力を発揮することだ、だから嫉妬というのは、人間のうちに潜む悪魔性なのだというのです。
神の見えざる手
 こうして、十二人の使徒達はみんな、ユダヤ教のお偉方の嫉妬と恥ずべき暴力、権力の横暴によって、牢屋に入れられてしまったのです。ところが夜中に、主の使いがやってきて、使徒達の牢の扉を開き、助け出し、さらに宣教活動を続けなさいと励ましました。19〜21節を読んでみましょう。

 ところが、夜中に主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出し、「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と言った。これを聞いた使徒たちは、夜明けごろ境内に入って教え始めた。

 「主の使い」というのは、天使のことです。今日は天使について詳しいお話しをする時間はありませんが、聖書には、このように神様が天使によって私たちを守ってくださる、助け出してくださる、御心を教えてくださるという話しがたくさんあります。聖書において、天使は礼拝の対象ではありませんし、背中に羽が生えているわけでもありませんが、神様の御心を行う者として確かに存在するのです。

 そのような天使によって牢から助け出された使徒たちは、「いのちの言葉を残らず民衆に告げなさい」という励ましを受けて、そのまま神殿に行って、福音を力強く語り続けたというのです。

 一方、何も知らないユダヤ教のお偉方は、昨日捕まえた使徒達を尋問しようと最高法院を招集し、役人たちに彼らを牢から引き連れてくるようにと命じました。ところが、しばらくして役人たちが空手で帰ってくると、「牢屋は空っぽだった」と報告をしたのです。しかも、鍵はしっかりとかかったままだし、番兵も何事もなかったかのように立っている。ただ牢の中にいるはずの使徒達だけが消えるようにいなくなってしまったというのです。ユダヤ教のお偉方は、これを聞いて慌てふためきます。ああでもない、こうでもないと議論をしても、いったいどういうことなのか? 何が起こったのか? 誰もちゃんとした説明をすることができないのです。

 こういうところを見ましても、彼らの信仰には決定的な欠陥があったと思わざるを得ません。私たちの生活、人生の中に、神様が生きて働いておられるということをまったく信じていないわけです。だから、こういう不思議な神の業が起こっても、ただ不思議だ、不思議だと首をひねるばかりで、神の御心を思うことができないわけです。最初にもお話ししましたが、要するに、神への恐れがないのです。

 私は、どんな小さな事の中にも神の御心があると信じています。御心ならずば一羽の雀さえ地に落ちることはなし、髪の毛一筋までも数えられている、イエス様はそうおっしゃいました。これはどんな小さな事の中にも神様の御心があるのだよ、という教えだと思うのです。

 たとえば、出かけようと思っていたら雨が降ってきた、急いでいるのにバスが遅れた、何かしようと思ったらお客さんがきた、出がけに電話がかかってきた、そういうちょっとしたことで私たちはイライラしたりするものです。しかし、自分の思い通りにならないことちょっとしたことの中にも、神様の御心があり、何かを教えてくださっている、あるいは私を導こうとしてくださっていると信じますと、イライラがすっと消えていくんですね。神様は見えません。見えないから、神様が働いているということもはっきりと分かることではないのです。けれども、結果をみますと、やはり神様の見えざる手によって自分は支えられ、導かれているんだなあと思うことがたくさんあるのです。自分の思いや計画だけが自分の人生を実現させていくのではなく、神様の見えざる手によって実現されていくのだと信じること、神様を恐れて生活するというのはそういうことではありませんでしょうか。

 そういう思いがあれば、使徒達が消えるように牢屋からいなくなったことを見て、「神様」の存在が思い浮かぶはずなのです。そして、神様への恐れが生じ、何かしら神様の声をそこから聞き取ることができるはずなのです。

 しかし、彼ら、つまりユダヤ教のお偉方は、神様を信じるといいながら、少しも神様を恐れていないのです。ですから、不思議なことが起こったとき、ただただ戸惑ってしまう。何をしていいのかわからなくなってしまうのです。

 すると、そこに人がやってきて、「あなたがたが昨日捕まえて牢屋に入れた連中が、また神殿に現れて民衆に教えていますよ」という報告があがってきます。びっくりした神殿の守衛長は部下を連れて神殿にかけつけると、確かに使徒達がそこにいて、人々を教えているのです。そこで守衛長たちは、使徒達を再び捕らえて最高法院に引き連れていくのですが、民衆は使徒達を心から尊敬しているものですから、ちょっとでも乱暴すれば民衆から石でも投げられそうな思いがしましたから、決して手荒なまねはせず、使徒たちにお願いするような形で最高法院にきてもらったというのであります。彼らは、神様をおそれない代わりに、人を恐れているわけです。

神に従うペトロ

 最高法院での尋問は、ペトロにとっては二度目のことでありました。前回は、美しの門のところにいた生まれながらの足の不自由な男を癒し、人々を騒がせたカドで、逮捕され、一晩牢屋に拘留された後、最高法院で尋問をされました。その時、「今後、決してイエスの名によって教えてはならない」と脅しと命令を受け、釈放されたのです。ですから、再びペトロが最高法院に現れると、大祭司は憤りを露わにして、「イエスの名によって教えてはならないと厳しく命じておいたではないか」と厳しく問いつめました。しかし、ペトロは、そして他の使徒達も同じなのですが、こう答えます。29〜32節

 ペトロとほかの使徒たちは答えた。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」

 「人間に従うよりも、神に従う」、それはそうでありましょう。しかし、問題があります。何が神に従うことであるのかという判断をどこで、だれがつけるのかということです。神様に従うために必要なのは、神の声を聞くことです。しかし、神様の声というのは、人間の言葉のように聞こえるわけではありません。たとえば、イエス様は「野の花や空の鳥をみれば、あなたがたに対する神様の愛がどんなに大きなものか分かるはずだ」とおっしゃいました。しかし、実はそう簡単に分かるわけではありません。野の花や空の鳥が「神は愛なり」と声を出して語っているわけではないのです。では、どうしたら、そのような声ならぬ声を聞くことができるのか。それは聖霊によるインスピレーションとしかいいようがないのではないかと思います。聖霊が、私たちの内なるところに、そのような思いを授けてくださるのです。

 ただそれでも、私たちは、これは神から与えられた思いなのか、それとも自分の中から湧き上がってきた思いなのか、迷うことがあるのです。そういう時、わたしは、律法学者ガマリエルがとった態度というのが、なかなか参考になるだろうと思うのです。33節以下に、ペトロたちの言葉を聞いて、最高法院の議員たちは、激しい怒りのあまり使徒達を殺そうとします。ところが、その議員たちの中に、ユダヤの国民全体から篤い信頼と尊敬を受けていたガマリエルという人がいて、その人が立ち上がり、しばらく使徒たちを外に出すようにと要求し、その上で極めて公平で穏健な意見を述べるのです。

 使徒達がその場にいなかったのに、どうしてガマリエルの言葉が残されているかと言いますと、実はガマリエルは後にクリスチャンになるパウロのお師匠さんなのです。ですから、パウロを通して、この時のガマリエルの言葉が伝えられているのだろうと思われます。ガマリエルは、人々を煽動して、熱狂的な党派をつくり、反乱を起こして失敗したテウダやユダという男の実例をもって、こう語りました。38節以、

 そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。

 ガマリエルは、「ほうっておくがよい、ほうっておけば自然に答えがでる」と言ったのであります。人間からでたことは必ず滅びるし、神から出たものはどんなことがあっても決して滅びることはないという理由です。だから、人間から出たものか、神からでたものがわかなければ、成り行きを見守りなさい。そうすれば、自ずと結果が出てくるだろうということなのです。

 これはなかなか良識的な見解だと思います。特にガマリエルは、他の議員たちが感情的、あるいは政治的に成りすぎて、神の声を聞き取ろうとする謙虚さを忘れているということを感じていたのでありましょう。それで、彼らに「慎重であるように。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ」と警告をしたのでありました。

 このようなことからしますと、ガブリエルは嫉妬にかられた他の議員と違って、使徒達が本当に神からのものであるか判断しようと、彼らの言葉に、そして神の声に耳を傾けていたのだろうと思います。しかし、よくガブリエルにも、本当のところがよく分からなかった。だから様子を見よう、そして神のなさることをもう少し時間をかけて見守ろうと思ったのでありましょう。私たちも、このようなガマリエルにならって、短気に走らないで、じっと神様の声が聞こえてくるまで祈りつつ待つという姿勢が必要な時があるのではないでしょうか。

 ただし、どんな時にもこのような姿勢が一番よいという意味ではありません。ガマリエルは、傍観者の立場に身をおいたのであります。傍観者である限り、ペトロたちのように本気で神に従うということはできません。ペトロたちは結局、鞭で打たれ、再び「イエスの名によって語ってはならない」と脅かされ、釈放されました。しかし、自分たちが神に従う者であるとの確信を少しも揺るがせることなく、むしろイエス様の御名のゆえに恥や苦しみを受けることを自分たちの誇りであると喜びさえして、その後も毎日、神殿に行き、イエス様の名によって人々を教えたというのであります。

 「真理はあなたがたを自由にする」と、イエス様は弟子たちに言われました。まさに、彼らは真理にしっかりと立つことによって、何にも惑わされず、自由に、大胆に、神に従う者となったのであります。願わくば、私たちもこのような揺るぎない確信をもって、イエス様に、神様に従う信仰をいただきたいものであります。そのために、聖霊様が、私たちの心に神様の思いをいつも力強く示してくださるように祈って歩んで参りましょう。
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