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先週は、教会が初めて経験した迫害のお話しをしました。エルサレムに、世界で最初の教会が誕生いたしましてから、ペトロはその教会のリーダーとして信徒たちを導くと共に、教会外の人たちに対しても、あらゆる機会を通して、イエス様が救い主であるということ、イエス様は今も生きて天の王座におつきになっておられるということを、力強く証ししてまいりました。
その証しは、言葉によるだけではなく、力が伴うものでありました。事実、イエス様が生きておられて、ペトロと共におられるということを、言葉と上よりの力をもって、人々に示したのであります。その結果、最初は百二十人ばかりであった教会の信徒数は、二ヶ月あまりで数千人に昇り、その勢いは留まることがありませんでした。そういう中で、ペトロとヨハネが、ユダヤ教の指導者たちによって逮捕され、牢屋に入れられたり、議会で取り調べを受けたりしたのであります。
けれども、ペトロとヨハネは、そのような迫害に少しもひるむことなく、権威を振りかざして脅したり、すごんだりするユダヤ教のお偉い面々に対して堂々と渡り合い、彼らに対しても「イエス・キリストこそ、神様がわたしたちに与えてくださった唯一の救い主である」と、力強く証ししたのであります。結局、ユダヤ教の指導者たちは、彼らを一晩拘留しただけで釈放せざるを得ませんでした。苦しまぎれに「今後、二度とイエスの名によって語らぬように」と脅かしますが、そんな脅かしも何のその、ペトロとヨハネは「人間の言うことよりも、神様のいうことに従います」と言って、仲間のところに帰って行ったのでありました。
さて、今日はお読みしませんでしたが、『使徒言行録』4章23節から章の終わりまでの中には、「信者たちの祈り」、「持ち物を共有する」というお話しが書かれていますが、要するに教会は、このような迫害を経て勢いを失うどころか、ますます祈りを深くし、聖霊に溢れ、教会の交わりにおいても、伝道においても、力を加えられていったということが書かれているのであります。
信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。
34節に、このように記されています。信者は皆、豊かであったかというと、けっしてそうではないと思います。彼らは伝道の困難に直面していました。「今後、二度とイエスの名によって語るな」と、ユダヤ当局からきつく言い渡されたのです。もちろん、ペトロもヨハネも、また多くの信者たちがそのような脅しに屈しないと心に誓ったでありましょう。しかし、何千人もいた信者のすべてがそうであったでしょうか。中には、恐れをなして、教会を離れようとしたり、ペトロたちの方針に従おうとしない者たちもいたのではないでしょうか。ユダヤ当局からの脅しというのは、決して小さなことではなく、教会内部に分裂や混乱をもたらし、教会を弱体化させるかもしれない、極めて重大な危機をもたらしたに違いないのです。しかし、そのような時、彼らは祈ったと言います。29-30節、
主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。
以前にも申しましたが、祈りというのは貧しさから生まれるのです。彼らは貧しさを感じていました。迫害を怖れずに語り続ける勇気の貧しさ、教会の内部の一致を保つ求心力の貧しさ、イエス様の福音を信じる信仰の貧しさ・・・だから、「大胆に語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばして、御業を見せてください」と祈ったのであります。そして、このように祈りますと、31節、
祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語り出した。
というのです。彼らは貧しいがゆえに祈り、祈ったがゆえに豊かにされたのであります。その結果として、「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。」というのです。
祈りは貧しさから生まれるということは、教会に集まる信者たちは、基本的に貧しい人たちであったということでもあります。その貧しさというのは、人によって様々でありまして、日々の暮らしにも事欠く経済的に貧しい人もいれば、経済的には問題がなくても健康面で様々な悩みや不自由を抱えていたでありましょう。また、家庭的な不幸で愛に飢え渇いている人もいたでしょうし、罪の問題で魂の苦悩を抱えている犯罪者もいたのでありましょう。そのように自らの貧しさを知る者が、教会に集ってくるのであります。
しかし、それに関わらず、「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。」と、聖書は当時の教会について語っています。これも祈りの結果だと言えなくはないのですが、ちょっと別の見方をしますと、それは愛の結果であったということなのです。それは祈ると、どんな問題でもたちどころに解決したということではなくても、お互いが愛をもって自分を献げ合うことによって、「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。」というのであります。
信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。(32節)
私は、自分自身の心を顧みても分かるのですが、人間というのは非常に所有欲の深いものだと思います。そして、その所有欲の根源は何かと探っていきますと、生きていくことへの様々な不安というものが横たわっているのです。たとえば老後の生活が心配だ、突然の病気が心配だ、災害が心配だ、そういう不安を消すために誰もが考えるのは、お金が必要だということです。ところが、実際にはお金ではどうにもならない状況がたくさんあるのです。「備えあれば憂いなし」などといいますが、いざというとき、備えていたものが本当に役に立つかどうか、何の保証もないのです。しかし、とりあえず不安を忘れるために、お金があれば安心だ、これを備えておけば安心だと、思い込んでいるわけですね。
逆に、生きていくことに不安がなければ、あまり所有欲というものはなくなります。イエス様は、「明日のことを思い煩うな、神様があなたがたのことを心にかけていてくださっているのである」と教えられました。確かに、全知全能の神様が、自分のことを心にかけてくださっているならば、わたしたちは何の心配もなく、一日一日を暮らしていけるはずです。明日のことを心配することなく、今日一日を精一杯に生きることができるのです。ですから、初代教会の信者たちが、自分の持ち物をすべて教会に献げたとか、そうではなくても、一人として持ち物を自分のものだと所有権を主張するものがなかったというのは、神様から完全な平安を戴いていたからであるということができるのです。そして、その結果として現れることが、自分の持ち物を献げあって、互いに支え合うという愛の交わりだったのです。
わたしたちの教会も、献げ物によって成り立っています。献げ物というのは、献金だけではありませんね。互いに愛し合うこと、それが献げ物です。そして、そのような献げ物を与えたり、受けたりすることができるのは、わたしたちが皆、神様の愛を豊かに戴いているからなのです。そういう意味で、わたしたちのなかには、物質的にも、肉体的にも、精神的にも、いろいろな貧しさを抱えている人がいますが、兄姉姉妹としての愛の交わりによって、貧しくてもなお豊かであると言えるような教会でありたいと願うのであります。そのために、祈りを深くしたいと思います。
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しかし、そのような兄姉姉妹の愛に対して、決定的な罪を犯してしまった夫妻の話が、今日お読みしました「アナニアとサフィラ」の話しなのです。
アナニアとサフィラという夫妻は、広い土地をもつ金持ちでありました。この夫妻も、教会の信者でありまして、他の人たちに習って、自分たちの土地を売り、それを教会に寄付しようとしたのであります。しかし、いざ土地を売って大金を手にしてみると、惜しむ気持ちが出てきました。そこで、夫妻は相談をして、一部を自分たちのためにとっておくことにしたのです。そして、残りのお金を持ってきて、使徒達の足もとに置いたというのであります。
すると、ペトロは、アナニアの心を見抜いて、叱責します。3,4節
すると、ペトロは言った。「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」
ペトロは、アナニアが代金のすべてではなく、一部しか持ってこなかったことを叱っているのではありません。問題は、彼が嘘をついたことにあるのです。土地の代金の一部であったのに、それをすべてであるかのように偽ったのです。ペトロは、「売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか。」と言っています。教会は、誰にも土地を売れと言っていないし、売ったお金はすべて献げよとも言っていないのです。イエス様もそうです。たとえば、エリコの徴税人ザアカイは、イエス様に救われた時、「財産の半分を貧しい人々に施します」と言いました。イエス様は、「半分ではなく、すべてを献げよ」とは言いませんでした。半分であろうと、十分の一であろうと、ザアカイが救いの喜びに溢れ、自らそのような献げ物をしたいと願う人間になったことを、イエスさまは喜ばれたのです。ですから、アナニアも、惜しむ気持ちが出たならば、「財産の半分を教会に献げます」と言えばよかったわけです。
ところが、アナニアは、一部であることを隠して、すべてを献げたかのように語った。「どうして、こんなことをする気になったのか」と、ペトロは憤りを露わにして、アナニアを厳しくとがめたのであります。すると、このペトロの言葉を聞いたアナニアはそこに倒れ込み、そのまま息が絶えてしまったと言われています。ペトロは死刑を宣告したわけではありません。しかし、神の裁きは、非常に厳しくアナニアの上にくだったのでありました。
それから、三時間後、この出来事を知らないアナニアの妻サフィラが教会に入ってきました。ペトロは、サフィラに、「あなたたちは、土地の代金をこれこれの値段で売ったのか」と、尋ねます。すると、何も知らないサフィラは、夫と口裏を合わせていた通りに、「その通りです」と答えます。すると、ペトロは、「二人で示し合わせて、主の霊を試すとは、何としたことか。」と、サフィラの罪を厳しく叱責をします。すると、サフィラもその場で倒れ、死んでしまったというのです。
このアナニアとサフィラの話しは、次のような言葉で結ばれています。
教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた。(11)
私も、このお話しを読む度に、本当に恐ろしい話しだなあと、身が震えるような気持ちになるのです。神様の裁きは厳しすぎるのではないか。せめて、二人が悔い改める機会ぐらい与えられてもいいのではないか・・・決して、二人の罪をかばうわけではありませんが、こんな厳しい神様に、果たして自分は耐えられる人間なのかということを考えると、まったく自信がないのです。 |
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ただ、こういうことは言えるのではないでしょうか。アナニアとサフィラの罪は、「代金をごまかした」ということよりも、そのことによって「人間ではなく、神を欺こうとした」ということにあったのだと、ペトロは言っています。そのように、神様に嘘をつきながら、平気で生きていくことは、わたしたちにはできないのだということです。神様に嘘をついて生きている人間は、必ず死ぬのです。アナニアとサフィラのように、すぐに死んでしまうということはないかもしれません。しかし、生きていても、死んでいる。そういうことになるのです。
逆に、わたしたちが命を得るためにはどうしたらいいのか。神様の前に正直であることです。神様がなかなか信じられなくなることがあるかもしれません。そういうときに、「神様、あなたを信じます」と祈っても意味がありません。正直に「神様、あなたが信じられません」と祈ればいいのです。そうすれば、神様が信仰を与えてくださいます。献げ物がなかなかできないこともあるかもしれません。そういう時にも、「神様、あなたにすべてをお捧げすることができません」と祈ればいいのです。アナニアとサフィラのようにごまかしたり、勝手な理屈をつけて、「これがすべてです」など祈ってはいけないのです。正直に、献げられないことを祈れば、神様は私達に献げる者になる道を教えてくださいます。どんな弱くても、貧しくても、愚かでも、罪の捕らえられていても、「自分はそういう人間です」ということを神様の前にちゃんと言える正直な人間であればいいのです。そうすれば、神様は憐れんでくださるのです。
教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた。(11)
これは、ただ神様の裁きは怖いぞ、ということではないのではないでしょうか。「神様はごまかすことができない、信仰というのは本当に真剣に、正直にやらないといけないのだ」と、みんなが感じたということだと思うのです。
そして、そのことを誰よりも一番深く感じて恐れたのは、ペトロではなかったでしょうか。ペトロの言葉で、人が死んだのであります。ペトロは、それだけ大きな神様の力を与えられていましたが、それだけ自分に与えられている責任の大きさというものを感じたでありましょう。そういうことに、ペトロは耐えて、神様の僕として道を歩んでいくのであります。 |
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
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Translation
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Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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