ペトロ物語(27)
「ペトロ、神殿で説教する」
Jesus, Lover Of My Soul
旧約聖書 ゼカリヤ書14章6-9節
新約聖書 使徒言行録3章11-26節
洗礼者への祝辞
 先ほどは中野清乃さんの洗礼式がございました。心からお祝い申し上げたいと思います。おめでとうございます。

 清乃さんは、2006年3月に天国に行かれた中野拓江さんの妹さんでいらっしゃいます。今日ご一緒くださっている照子さんは拓江さんと清乃さんの妹さんになるのですが、三人はとても仲の良い姉妹でありました。そして、拓江さんも照子さんも、とても熱心クリスチャンだったのですが、どういうわけか清乃さんは教会にいらっしゃらなかったのでした。そこには、清乃さんのいろいろな思いやお考えがあったことと思いますが、1年半前のお姉様の拓江さんの死を通して、心が大きく変わられたのでありました。

 先月、試問会が行われた時、清乃さんは役員らの前でこのようにお話し下さいました。

 「いまだにキリスト教、イエス様の事も良く分かりません。これが、今の私の正直な気持ちです。ただ、以前の私は理屈で物事を考えていましたが、キリストの教えは理屈ではなく、心を開いて、イエス様を信じて行く事と知りました。これからは聖書を読み、出来る限り礼拝にも出て勉強して行きます。このような方向に気持ちが動かされたのは、今は亡き姉の導きと考えております。天国で姉もきっと喜んでいてくれると信じています。」

 拓江さんは、教会にいらした時、いつも清乃さんのことを話しておられました。そして、清乃さんと一緒に教会にいらっしゃれる日を願っておりました。しかし、正直申しますと、「妹は教会に来ないだろう」と、半分あきらめておられたのです。ですから、今日の日を、拓江さんは天国で、「えっ、あの妹が本当に洗礼を受けたの?!」と、驚きをもって、この受洗を喜んでいてくださることでありましょう。

 拓江さんだけではありません。それは神様の喜び、天国の喜びでもあるわけです。イエス様は、わたしたち人間をしばしば神様の羊にたとえております。そして、迷子になった一匹の羊が見出され、神様のもとに帰ってきた時、天国中が大きな喜びに包まれるだろうとおっしゃいました。洗礼を受けて、神の子にされるということは、清乃さんの魂が神様のもとに帰り、清乃さんが再び神様の羊となるということであります。それは神様の喜び、天国の喜びなのです。

 洗礼を受けられた清乃さんに、二つのことをお話しさせていただきたいと思います。一つは、イエス様は良き羊飼いであるということです。わたしたちは神様の羊であると申しました。神様の羊であるわたしたちの羊飼いが、イエス様なのです。これからどんな時も、神様の羊として、良き羊飼いであるイエス様を信じ、離れることなく、信仰の道を歩んでいただきたいと思います。

 それから、もう一つは、この荒川教会に集う者たちは皆、清乃さんの新しい兄姉姉妹だと思っていただきたいと思います。信仰をもって生きるということは、神様の羊の群れに戻るということですから、共に生き、共に歩む仲間を得ることでもあるのです。荒川教会は、清乃さんのそのような新しい兄姉姉妹、共に歩む仲間なのでありますから、今後いっそう心を開いてくださって、いろいろな方と親しいお交わりを築いてくだればと願っています。そして、互いに手を取り合って、天国への道を歩んで参りましょう。
驚くべき救い
 さて、今日もペトロの物語に焦点を当てて、ご一緒に学びましょう。まず先週のお話しをちょっと思い起こしておきたいと思います。

 ペトロとヨハネがエルサレム神殿に参拝にいきますと、「美しい門」というところに、まことに美しからぬ、みすぼらしい形(なり)をした、足の不自由な男が乞食をしていました。ペトロは、彼に目を留めると、「わたしたちを見なさい」と、彼をじっと見つめます。男は、何かもらえるのかと思って期待に胸を膨らませて、ペトロとヨハネを見ます。すると、返ってきたのは「金銀は私にはない」という言葉でした。「なんだ、お金をもっていないのか」と、この男ががっかりしますと、ペトロは「しかし、わたしにあるものをあげよう。」と言いました。ペトロも、みすぼらしい乞食と同様、貧しい人間でした。経済的な意味だけではなく、精神的な意味においても、ペトロは自分の力では立ち上がることができないほど、打ちのめされ、自分の貧しさを知り尽くしていたのです。しかし、あなたに無くて、わたしには在るものがある。それをあなたにあげようと言って、ペトロはこの男に「イエス・キリストの御名によって立ち上がり、歩きなさい」と言ったのでした。そして、手を差し伸べ、彼の右の手を取って、力強く立ち上がらせると、なんと生まれつき歩けなかった萎えた足がたちまちしっかりとし、強くなり、彼は躍り上がって立ち、歩き回ることができるようになったのでした。

 今日はその続きであります。ペトロに「イエス・キリストの御名によって立ち上がり、歩け」と言われて、歩けるようになったこの男性は、本当に喜びまして、ペトロとヨハネの側をとんだり跳ねたり、踊り回って歩きながら、「神様は素晴らしい。神様は生きておられる。歩けなかった私を歩けるようにしてくだった」と、神様を讃美して、神殿の中に入っていきました。その騒ぎに、いったい何事かと振り返った人たちは、神殿の門のところで何十年も乞食をしていた足の不自由な男が、歩き回り、踊り回っているのをみて、我を忘れるほど驚きます。そして、あの男が付きまとっている二人の人物が、何かをしたらしいということで、ペトロとヨハネのもとに野次馬がぞろぞろと集まりだしたというのです。

 私は、こういうところを読むといつも思うのですが、伝道というと、人集めの努力をすることだと思っている人たちも多いのですが、本当にそうでしょうか。偉い先生を呼んできて、そのネームバリューで人を集めようとする。音楽会で人々を集めようとする。それを伝道だという。私は「それは違う」と思うのです。先週、ペトロは教会の偉い人におさまることをよしとせず、伝道者の道を選んだ人だったというお話しをしましたが、しかし、ペトロは誰も人を集めようと努力をしません。人々の方からペトロのところに集まってくるんですね。なぜ、集まってくるのでしょうか。それは、ペトロが人を立ち上がらせ、喜びに溢れさせ、力強く歩き出させるイエス様の力をもっていたからです。そのイエス様の力で、足のあるけない男を歩かせたからです。ペトロのもとには、イエス様の救いの現実があったのです。だから、人々が集まってきたのです。

 伝道というのは、愛の業なのです。人を集めることではなく、人を愛する業なのです。わたしたちが愛すべき人は、集める必要がありません。集める努力をするまでもなく、そこかしこにいるのです。ペトロが神殿に行こうとしたら、その門のところに愛すべき人がいました。このように、わたしたちの愛を、そして、わたしたちのもっているキリストの愛を、必要としている人たちは、捜すまでもなく、集めるまでもなく、そこかしこに存在するのです。伝道とは、そのような人との出会いを大切にし、「ああ、神様は今、この人を愛しなさい」と言っておられるのだと思って、神様からいただいた愛、キリストの愛をもってその人を愛することなのです。

 「愛する」といったって、たいしたことをするわけではありません。ペトロははっきりと、「金銀はわたしにはない」と言いました。愛するというのは、困っている人を助けることではないのです。わたしたちもまた貧しい人間ですから、自分の力では助けられない人もたくさんいます。しかし、愛することはできるのです。愛するとは、その人の友だちになるということです。聖書に「泣く者と共に泣き、喜ぶ者と共に喜びなさい」という言葉があります。何かをしてあげて、助けてやるということではなく、それができなくても、一緒に泣く者になる。一緒に喜ぶ者になる。その人の気持ちを理解し、親身に話しをきいてあげ、何も語らずともその人のそばにいて、一緒に悩んだり、泣いたり、喜んだりする者になってあげることです。それとて易しいことではないと思いますが、もしわたしたちがイエス様の愛をもっているならば、それができるのです。

 ペトロが、神殿の門に座っている足の萎えた乞食にしてあげたことも、誰も目をとめなかった彼に目を留めてあげたこと、そして一人の人間として向き合ってあげたこと、イエス・キリストの御名を伝えたこと、そして彼に手を差し伸べ、右手をとってあげたこと、それだけなのです。このように、ペトロはたまたまそこにいた人を愛し、友になろうとしただけなのです。すると、そこにイエス様の愛の力が働きます。ペトロのという人間を通して、イエス様の愛の力がこの男に向かって流れ出てくるのです。そして、奇跡が起こるのです。

 わたしたちも人を愛するならば、こういう奇跡が起こります。病気が癒されることだってあります。たとえそうでなくとも、必ずイエス様の愛の力が、その人の魂を救い、力づけるようなことが起こるのです。そういう救いの現実が起こるところに、人々が集まってきたのです。人集めのイベントをすることが教会の伝道ではなく、わたしたちが出会う一人一人を大切にし、イエス様の愛をもって愛すること、それが伝道なのです。そのようなイエス様の愛の現実、救いの現実があるところに、人は自ずと集まってきます。なぜなら、人々はそれを求めているからです。
神の出来事
 ペトロは、こうして集まってきた人々も、神様によって出会わせられた愛すべき人々と捉えて、御言葉を伝えます。それが、今日お読みしたペトロの説教です。

 ペトロは、集まってきた人々に、「イスラエルの人たち、なぜことことに驚くのですか」と問い掛けました。「イスラエルの人たち」というのは、そこにいるのがイスラエル人であるから、そういったのではありません。「イスラエル人」であるということは、神様がアブラハムにお与えになった契約に基づく神の民であるということです。ですから、ペトロは、「あなたがたは神の民であるのに、どうして神が御自分の民の一人を救われたということに、そんなに驚くのですか」と問うているわけです。

 ペトロは、驚いてはいけないといっているのではありません。神様の起こされる出来事というのは、いつも驚きに満ちています。驚きなくして見ることはできません。しかし、それはわたしたちの想像をはるかに超えた神様の偉大な力が表されたことに対する驚きであり、讃美でもあるのです。ところが、この時の人々の驚きというのは、そういう神様に対する驚きではなかった。ペトロやヨハネに対して驚いていたわけです。ですから、ペトロはこう言葉を重ねます。

 「わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか」

 「人間に過ぎない者が、こんな事をできるはずがないでしょう。それならば、これをなさったのは、わたしたちの信じる神ご自身であるということは明白ではありませんか」と、ペトロは、彼らの信仰を問うているのです。

 みなさん、奇跡を信じるでしょうか。信仰をもつ人は、奇跡を信じるのです。奇跡とは、神様のなさる出来事のことです。わたしたちの人生に、この世界の営みに、ただ人間の考えること、なすことだけが起こるのではなく、神様が出来事を引きおこされることがあります。それを信じておれば、わたしたちに絶望はありません。

 私は探偵小説を読むのが趣味です。お化けの仕業ではないかと思えるような不思議な事件を、名探偵が現れて、「この世に不思議なことなどないのだ」と言って、見事に謎を解決していく。そうすると、どんなに不思議に見えたことも、「なんだ、やはり人間のすることじゃないか」ということになるわけです。探偵小説の面白さは、その落差にあるのかもしれません。しかし、現実生活においては、私はまったく逆のことを感じておりまして、「この世は不思議なことばかりだ」と思っています。自分の人生ひとつとっても、どうして今私が牧師をしており、荒川教会の皆さんの前でこんな風に説教しているのだろうかということを考えると不思議でなりません。自然界を見ても、草花が季節を間違えることなく、種から芽が出て、花が咲いて、実を結ぶということも不思議だし、わたしたちの心臓が生まれてから一度も止まることなく、何十年と動き続けていることも不思議だし、本当に不思議だらけなのです。そして、その不思議が神様の御業だと思うと、どんな小さなことの中にも驚きを感じ、感動を覚えます。奇跡を信じるとは、そういうことでもあるのです。

 そして、奇跡をなさる神は、人間にはなし得ないことも、また考えつかないようなこともなさることができると、どんな絶望の中にあっても、一抹の希望が残されるのです。人間には何もなしえない、考えつかない、こういう状況を絶望といいます。しかし、そういう絶望的な状況の中にあっても、からしだね一粒ほどの可能性は残されています。それはわたしたちにとっての絶望が、神様にとっても絶望であるわけではないということなのです。神も仏もあるもかと言ってしまえば、それでお終いです。からしだね一粒ほどの希望もなくなってしまいます。しかし、イエス様はからしだね一粒ほどの信仰があれば、山も海に動くと言われました。からしだね一粒ほどの信仰とは、神の可能性にかける、そこにわたしたちの希望を置くということだと思うのです。

 ペトロは、あなたたちは信仰者といいながら、奇跡を信じることを忘れている、わたしたちの人生に、この世界に、神様が生きておられ、出来事を起こしてくださるということを忘れている。だから、あなたがたは不思議な顔でわたしたちを見つめているのだ。そうではなく、生ける神様を見つめなさい。あなたがたが目にしているのは、神のなさった出来事なのだ、と言っているのです。

慰めの時

 そのうえで、ペトロは、「同時にこれは、イエス様の御名によって起こった出来事である」と語るのです。16節を見てみましょう。

 「あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです」

 「イエス・キリストの御名によって立ち上がり、歩きなさい」と言ったら、この人は立ち上がって歩いたのだ。「それはイエス様が私達の救い主であること証拠なのです」と、ペトロは言っているわけです。ということは、十字架につけられて殺されたイエス様は、復活して今も生きておられるということの証拠でもあります。前後しますが、15節を見てみましょう。

 あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です。

 イエス様は、聖霊を受けるとあなたがたは力を受け、私の復活の証人となるであろうと言われましたが、いままさにペトロはイエス様が生きておられる証拠を示して、そのことを人々に伝えているのです。イエス様こそ、わたしたちの命の導き手であった。しかし、十字架につけてそれを殺してしまった。でも、神様はイエス様をよみがえらせてくださったのだ。だから、悔い改めて、今度はイエス様をわたしたちの命の導き手としてしっかり信じようではないかと、ペトロは言っているのです。19-20節、

 だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために前もって決めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。

 「こうして、主のもとから慰めの時がおとずれ」とあります。わたしたちが、心を開いて、イエス様を救い主として信じる時、どんな絶望的な状況の中にあっても、四面楚歌の状況にあっても、主のもとから慰めの時がおとずれるのです。

 慰めとは、アナプシュクセオースという言葉が遣われているのですが、アナというのは再びという意味がありまして、「再び魂が息を吹き返す」という意味なのです。簡単にいえば、魂に元気を与えるということです。そして、大切なことは、それをもたらすのは人間ではないです。ペトロではない。まして自分の頑張りや根性でもない。「主のもとから」なのです。ヨハネの黙示録22章1節にこう記されています。

 天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川を私に見せた。

 天の神様のもとから、小羊なるイエス様のもとから、命の水の川が滾々(こんこん)と、わたしたちに向かって流れてくるのです。しかし、それを見ていなければ、それを汲み取ることができません。「悔い改めて立ち帰りなさい」というのは、反省するということもあるでしょうが、それだけではないのです。わたしたちが今までと違った視点をもって生きるようになるということなのです。

 自分の経歴、自分の財産、自分の能力、自分を取り囲む状況・・・そのような自分にあるもの、あるいは自分が失ったものを幾らながめていても、慰めの時は訪れません。嘘か誠か知りませんが、13世紀、ローマ教皇が自分の数々の財宝を満足げにながめ、アッシジのフランチェスコに「むかし、ペトロは『金銀は我になし』と言ったが、そういう時代はもう終わった。私には『金銀は我になし』とは言いかねる」と言いました。すると、フランチェスコは、うなずいて、「もっともです。同様に『ナザレのイエス・キリストの御名によって歩きなさい』とはもう言いかねます」と皮肉ったそうです。

 逆にこういう聖人の話も聞いたことがあります。ある王様が、ある聖人のうわさを聞き、家来に高価な壺を贈り物として持って行かせました。家来が帰ってくると、王様は「あの方は、わしの贈り物をなんと言っておられたか」と尋ねます。すると、家来は「感謝と言っておりました」と答えます。「それだけか」と聞くと「それだけです」と答えます。王様はがっかりし、聖人の非礼を怒り、「贈り物を取り上げてこい」と、もう一度聖人のもとに家来を送るのです。そして、家来が帰ってくると、王様は「なんと言っていたか」と聞きます。すると家来は、「感謝と言っておりました」と答えるのです。「それだけか」と聞くと、「それだけです」と答えます。王様は気がついて、彼こそ真の聖人ぞ」と言って、もう一度贈り物を届けさせたというのであります。

 何をもっていようが、何を失おうが、わたしたちを祝福してくださるのは、イエス様である。イエス様からわたしたちに向かって流れてくる命の水の流れをとらえなければならないのです。それさえ捕らえていれば、他のものはあってもよし、なくてもよしということになるのです。また、イエス様から流れてくる命の水の流れを失えば、どんなに金銀財宝をもっていようが、「イエス・キリストの御名によって歩け」と言えない者になってしまうのです。

 最初に、ご紹介しましたが、中野清乃さんは、洗礼を受けるにあたって、理屈ではなく、心を開いて、イエス様を信じたいとおっしゃいました。これこそが悔い改めであり、生ける命の水の流れに目を向けることでありましょう。どうか、わたしたちも今日、そのような信仰の原点に立ち帰り、イエス様の御名をあがめたいと思います。
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