ペトロ物語(26)
「ペトロ、足の不自由な人を癒す」
Jesus, Lover Of My Soul
旧約聖書 イザヤ書35章
新約聖書 使徒言行録3章 1-10節
教会の指導者ペトロ
 前回は、「エルサレム教会の誕生」というお話しをしました。そして、この初代教会において、信者たちがどのような生活を送っていたのかということもお話ししました。2章42節には、このように記されています。

 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。

 「使徒たちの教え」とあります。生まれたばかりのエルサレム教会には、まだ明確な教会組織があったとは思われないのですが、十二使徒たちの存在は教会にとって特別なものであったということが窺い知れます。

 続く2章43節をみますと、「使徒たちによって多くの不思議な業やしるしが行われていた」ともあります。使徒たちの働きは、人々を教えるだけではなく、信徒たちのために、またイエス様を知らない世の人々のために、このような主の御業を行うことでもありました。

 その使徒たちの中でも、特にペトロの存在は特別なものであったということは、聖書を読んでおりますと自然に理解できます。たとえば、1章13節に記されています使徒名簿の筆頭にあげられているのはペトロです。イスカリオテのユダの自殺による十二使徒の欠員を補充する時にリーダーシップを発揮したのもペトロです。ペンテコステの後、十二使徒の代表として説教をしたのも、ペトロでした。このようなペトロの特別な地位というのは、イエス様によってペトロに与えられたものであったのです。

 たとえば『マタイによる福音書』16章18-19節には、ペトロに対する次のようなイエス様の言葉が記されています。

 あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる、陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。

 ペトロが「あなたメシア、生ける神の子です」という信仰告白をなした後に、イエス様がペトロを祝して言われた言葉です。イエス様はもともとシモンという名であった彼に、ペトロ(「岩」の意 )という名前を与え、「この岩の上にわたしの教会を建てる」とおっしゃいました。また、それに続いて「天の国の鍵を授ける」ともおっしゃいました。

 これはカトリック教会におけるローマ教皇の権威の根拠ともなっている御言葉です。イエス様が、ペトロの上に教会を建てると言われたからでしょうか? カトリック教会の総本山であるバチカンの聖ペトロ大聖堂は、実際、ペトロの墓の上に建てられているそうです。もっとも、イエス様がおっしゃった意味は、そういう意味ではないと思うのですが、いずれにせよイエス様のお言葉によって、ペトロの教会における首位権というものがこのように定められていまして、それを引き継いでいるのがローマ教皇であると、カトリック教会の人たちは信じているのです。ちなみに、現在のベネディクト十六世はペトロから数えて265代目の教皇ということになります。

 ただ、わたしたちプロテスタント教会の立場としては、それに同意できないのです。初代教会において、ペトロが占めていた特別な地位といいますか、権威というのは、ローマ教皇から想像されるようなものとはだいぶ違うだろうと思うからです。ローマ教皇というのは、教会組織のトップです。しかし、ペトロは必ずしもそうではありませんでした。ペトロに限らず他の使徒たちもそうなのですが、彼らは教会が誕生した当初は、教会のあらゆる面で教会の指導者でありました。「あらゆる面」というのは、大きく分けると二つありまして、一つは教会の組織や管理、もう一つは伝道活動であります。ペトロや他の使徒達は、最初はその両面を担っていたのですが、後に教会の管理については他の者たちに任せ、彼らは伝道活動に専心するようになっていくのです。

 ペトロも、最初のうちにエルサレム教会の監督のようなことをしていますが、後にその地位は主の兄弟ヤコブに譲ってしまいます。そして、ペトロはエルサレムを離れ、伝道の道を歩むのです。つまり、ペトロの教会における権威というのは、組織上のトップに立っていたということではなく、極めて霊的なものであったということなのです。何の地位や肩書きがなくても、ペトロは教会の霊的指導者として認められ、尊敬されていたわけです。そういうペトロの権威というのは、聖霊によるものでありまして、組織的に受け継がれていくようなものではないのです。
祈りの人ペトロ
 さて、今日はそのような伝道者ペトロのお話しであります。

 ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。(1-3節)

 「午後三時の祈りの時」とあります。当時、ユダヤ教徒は朝の九時、正午、午後三時の三回、祈りの時間をもっていました。この出来事は、そういう祈りの時に起こったと話しであったのです。前回も、教会は祈りを重んじたというお話ししました。そして、祈りというのは貧しさから生まれてくるものなのだということを申したと思うのです。貧しさというのは、無力さと言い換えても良いかも知れません。若い時、私の信仰を養ってくれた書物に、キャサリン・マーシャルという人の『祈りの冒険』という本があります。この本の冒頭には、こういうことが書かれています。

 祈りの学校の入学試験には問がたった二つしかありません。第一は、「あなたはほんとうに必要をおぼえ、満たされることを求めていますか」、第二は「あなた自身が無力で、それを満たすことができないことを認めていますか」なのです。
 私が祈りについて学んだのは、どのようなことであれ、この二つの問いに、はっきりと「はい」と答えた時でした。

 私がこの本を最初に読んでから、すでに二十七年以上が経ちますが、未だにこの言葉は真実であると信じております。確かに、この通りなんですね。神様から祈りの素晴らしさを教えていただけるような本当の祈りをささげるためには、立派な言葉で祈る必要はありません。長々と祈る必要もありません。世のため人のためとなるようなことを祈らなければならないということでもありません。大切なことは二つ、心の底からそれを必要と感じているかどうか、そして自分ではそれを満たすことができないという無力を感じているかどうか、これだけなのです。

 私は少々乱暴な言い方かもしれませんが、まだ心からそのことを願う者となっていないならば、世のため人のために祈らなくてもいい、教会のためですら祈らなくてもいいと思っています。そんな心にもないことを祈るよりも、まず本当に自分が願っていることを、一生懸命に、ひたすらに祈るべきなのです。仕事のことでもいい。お金のことでもいい。家族のことでもいい。もし、みなさんが、そのことを心から必要だと思い、そして自分の無力さをもって、神様に願い求めるならば、神様は必ずその祈りに応えてくださいます。その素晴らしい恵みを経験を通して、生ける神様を知ることになります。そして、生ける神様の愛、恵み、尊きお心というものに触れることになります。そういう経験を通して、わたしたちの祈りは、自分の個人的な問題を願い求めるばかりではなく、より豊かな内容をもったものへと変えられていくのです。そういう経験もなく、口先だけでどんな立派な祈りをしても、あまり意味がないのです。

 ちょっと話しが逸れましたが、ペトロは教会の指導者という重き立場に身を置く者として、自分の貧しさ、無力というものを痛いほどに感じていたでありましょう。そして、この主に委託された使命を果たすためには、必ず祈りなければならない、祈りなくしては、つまり神様の御力を求めることなくしては、自分には何もできないということを感じていたのです。教会の指導者として何かと忙しい身であったでしょうが、ペトロは、どんな時にも朝の九時、正午、午後三時の祈りを欠かさなかったのであります。 
ペトロにあるもの
 そのように、ペトロとヨハネが祈るために神殿に上っていくと、神殿の門のところで、「生まれながら足の不自由な男」に出会ったのでありました。「運ばれてきた」とも書いてあります。参拝者がやってくる祈りの時間に合わせて、毎日、ここで物乞いをするのが、彼の日課だったのです。

 この人も、貧しい人でありました。そういう意味では、ペトロとこの物乞いの男とは、何も変わりがないのです。いや、そんなことはないだろうと、思われるかもしれません。しかし、そうではありません。貧しさという点では、ペトロも物乞いも少しも変わりがない、まったく同じなのです。

 しかし、ただ一つの点において、違いがありました。それは、ペトロは自分の貧しさを満たして余りあるものをくださるお方を知っていましたが、この足の不自由な物乞いはその方を知らなかったということです。

 これはわたしたちも同じなのです。何も知らない人は、クリスチャンというのは清楚で、立派な人だと思い込んでいらっしゃることが多いようですが、わたしたちは自分をそんな風には思っていないでありましょう。わたしたちのうちにも、世の人たちと何ら変わることがない、罪深さ、弱さ、貧しさ、醜さ、罪深さがあるのです。けれども、そういうわたしたちを、赦し、愛し、豊かにし、強くし、装ってくださるお方を、わたしたちは知っているのです。だから、わたしたちは讃美し、感謝し、喜びをもって、希望をもって、生きていくのです。

 彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。
ペトロは、「わたしたちを見なさい」と言いました。なぜ、ペトロは「キリストを見なさい」と言わずに、「わたしたちを見なさい」と言ったのでしょうか。キリストのお陰で自分があることを忘れてしまったのでしょうか。そうじゃないのです。

 皆さんもご存じであろうかと思いますが、聖路加病院の名誉院長である日野原重明さんの『生きかた上手』という本があります。この本の中に書かれているのですが、先生はその人柄のせいか、患者さんから病気の相談だけではなく、人生相談をもちかけられることも多いそうです。そして、大がいの人は、「私ほどの不幸な人はいない」と話しを結ぶというのです。

 ところが日野原先生は、ご自身も若い頃に結核をなさったり、よど号ハイジャック事件に遭遇するなど、普通ではない体験をなさっておられるお方です。それに加えて、何十人という方から「わたしほど不幸な人間はない」という話しを聞かされてきているわけで、人間の苦しみというものをつぶさに見てこられた方なのです。ですから、「わたしほど不幸な人はいない」という人に対して、「あなたの苦しみは、どん底の苦しみの10分の1くらいでしかないでしょう」と、本当に辛い、胸が痛むような、どん底の人生を送られた方の話しをしてさしあげるのだというのです。

 日野原先生は、こう言います。

 他人と比較して、自分の方がましだと思うのはさもしいことのようですが、それでも悩みの渦中にある当人には気持ちを切り替えるきっかけになります。

 わたしは、この「きっかけ」というのが大事だなあと思うのです。「わたしほど不幸な人間はいない」という人は、実際にどの程度の不幸かということは、実はあまり関係ないのです。どんな不幸であれ、そこからの出口が見いだせなくなってしまっていると、その人は「わたしほど不幸な人間はいない」とか、「わたしほど駄目な人間はいない」とか、そういう閉ざされた世界の中で悶々とすることになります。そういう人が、たとえば「自分だけではないのだ」ということを知ると、「じゃあ、他の人はどうやってその苦しみを、悲しみを、乗り越えることができたんだろうか」と、ほんの少し出口が見えてくるのです。いや見えてこなくても、出口があるという期待を持つことができるのです。そういう「きっかけ」を、日野原先生はお与えになるという話しなんですね。

 神殿の門で物乞いをしていた男性に、ペトロが「わたしたちを見なさい」と言ったこと、それもこの人にきっかけを与えようとしておられたのではないでしょうか。この人は、おそらく、下ばかりを向いて、人をじっと見ることすらできなかったのです。ジロジロと人を見たりしたら、汚いモノでも見るような目で、「何を見ているんだ」と怒鳴られるのがオチだったのでありましょう。たとえ施しをくれる人がいても、見下すような目でわずかばかりのお金を投げてくれるだけでありました。誰も彼をまともに見てくれなかったし、彼もまた誰かをきちんと見るということができないでいたのです。

 しかし、この人は久しぶりに、自分にきちんと向き合ってくれる人に出会いました。カウンセリングの世界では傾聴することの大切さということが言われます。その人に向き合って、その人の話を真剣に、うなずきながら聞いてあげると、それが日野原先生が言うような「きっかけ」を与えることになるのです。

 その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると

 「わたしたちを見なさい」というペトロの語りかけが、その人に何らかを期待する心を与えたのです。この期待というのは、希望というにはまだ弱いかもしれません。しかし、希望へのきっかけが期待なのです。

 このように、ペトロは、この男性としっかりと向き合った上で、こう続けました。

 ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」

 物乞いの男は、「わたしたちを見なさい」というので、期待をもってペトロとヨハネを見たのですが、返ってきた言葉は、「金銀は、私にはない」という言葉でありました。しかし、この言葉も、決して彼を失望させる言葉とはならなかったでありましょう。「金銀は、私にはない」、これは「わたしも、あなたと同じだ」という意味なのです。「わたしたちも、あなたと同じように貧しい人間なのだ。自分の足で歩くことができない人間なのだ。神様の御名を呼ぶ資格もない罪深き人間なのだ。わたしたちはあなたと少しも変わることのない貧しい人間なのだ。しかし、このようなわたしたちを愛し、満たし、力づけてくださる方が、わたしたちを生かしてくださっている。あなたも大丈夫だ。わたしたちを生かしてくださった方は、あなたをも生かしてくださらないはずがない。その方の御名によって、ナザレの人のイエス・キリストの御名によって立ち上がり、歩きなさい」

 そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。

 この言葉も、含蓄のある言葉だと思います。ペトロは、この男性に言葉だけを投げかけたのではないのです。右手を取って、彼が立ち上がる手助けをしてあげたというわけです。だからといって、ペトロが彼の足をいやし、立ち上がらせたのではありません。イエス様の力が彼の足を強くし、立ち上がらせたのです。ペトロも、そのことをよく分かっています。しかし、ペトロに出来ること、手を差し伸べて、彼の右手を取り、立ち上がる手伝いをしてあげること、それを惜しみなくするのです。

 私はこれを読むときに、ペトロは単にイエス様の御名の力を振り回したのではなく、この男性に対する深い同情、そして愛がそこにあったのだということを思うのです。パウロは、『コリントの信徒への手紙1』13章で、愛がなければどんな素晴らしい言葉も、やかましい銅鑼のようであり、山が動こうが、全財産を人の施そうが、それは空しいだけで、何の利益もないと語っています。つまり、愛がなければ、奇跡が起ころうが、財産を得ようが、人は救われないということです。

 「イエス・キリストの御名によって歩け」とは、ただ癒された足で歩きなさいということではなく、あなたを癒し給うイエス様の愛を受け取り、その愛によって歩く者になりなさいということなのです。

 すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。

 「躍り上がった」ということが、二回も繰り返して書かれています。「踊りあがる」というのは、ただ足が強ければできることではありません。足が強くても、有り余るほどのお金をもっていても、うつむいて生きている人が大勢います。心が解放されて躍っていなければ、躍り上がるということはないのです。しかし、このことからも、この男性が受けたのは、肉体の癒し以上のものであったということが分かります。ペトロの愛を通して、主の愛がこの人に働いたのであります。

 最初に、ペトロは教会組織の上に立つ人というよりも、伝道者ということをお話ししました。伝道者としてのペトロは、祈り人であり、また自らの無力さを知り、同時に自らを生かして下さっているキリストの力の偉大さを知る人でありました。さらに、彼は愛の人でありました。そして、自分のもっているもの、キリストの偉大な力を一人でも多くの人に分け与えたいと願う人であったのです。

 わたしたちも、弱く乏しい人間です。世の人たちと少しも変わりない罪人です。しかし、わたしたちもまたペトロのようにキリストの愛に生かされている人間です。その恵み深さを知っている人間です。どうか、わたしたちもペトロのように「金銀は私にはないが、わたしにあるものをあげよう」と、愛をもって、キリストを伝える者でありたいと願います。
目次

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

お問い合せはどうぞお気軽に
日本キリスト教団 荒川教会 牧師 国府田祐人 電話/FAX 03-3892-9401  Email:yuto@indigo.plala.or.jp