ペトロ物語(25)
「エルサレム教会の誕生」
Jesus, Lover Of My Soul
旧約聖書 エゼキエル書37章1-14節
新約聖書 使徒言行録2章 37-42節
十字架につけたのは誰か?
 前回は、ペンテコステの後、ペトロがなした最初の説教について学びました。2章14-36節に、その説教が記されていたのですが、それはこのような言葉で結ばれています。

 あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。(36)

 これは、たいへん不思議な言葉だと思います。ペトロの説教を聞いていた人々は、直接あるいは間接であっても、イエス様を十字架につけて殺した人々とは限らないであります。

 私たちも、イエス様を十字架にかけた人々というのは、自分たちの威信を保とうとするばかりに、イエス様を異端者と断罪したユダヤ教の宗教的指導者であり、また彼らにイエス様を売り渡したイスカリオテのユダであり、ユダヤ当局に煽られて、ピラトの官邸の前で「十字架につけよ」と叫び続けた群衆であり、罪がないと知りながら政治的な判断でイエス様に十字架刑を言い渡したピラトであると、思っているのでありましょうか。いや、それだけではない。ペトロをはじめとする他の弟子たちもイエス様を見捨てて逃げてしまったのだから同罪だと言う人もあるかもしれません。

 しかし、少なくとも自分ではない。そもそも自分はそこにいなかったのだから、自分がイエス様を十字架にかけるなどということはありえない話しだと思っても不思議ではないのです。いや、その通りなのです。

 それにも関わらず、ペトロは、「いや、あなたがたがイエス様を十字架につけて殺したのだ」と、人々に、私たちに、語りました。ペトロが言わんとしているのは、私たちの罪の問題なのです。一般的な感覚からしますと、罪というのは人に迷惑をかけることであり、それから恩義に報いないことでありましょう。人を心や体を傷つけたり、人のものを盗んだり、壊したり、あるいは親不孝をしたりすることは悪いことだと、誰もが思っているのです。

 しかし、そういうことをしていないなら、私たちには罪がないと、本当に言えるのでしょうか。罪がないのなら、私たちはもっと胸を張って生きることができるはずです。ところが実際は、なかなかそうは参りません。たとえ「俺は立派な人間だ」と胸を張って生きているような人がいても、そういう人に限って、周りから見れば鼻持ちならない人間である場合が多いのです。

 聖書は、人間の罪というものをたいへん厳しく見つめています。どういうことかと申しますと、今も申しましたように世間では悪いことをすることが罪だという。けれども、聖書はそれだけではなく、「善いことをしないことが罪である」と教えているのです。

 たとえば、中国ではかの有名な孔子が、「己の欲せざる所は人に施す勿れ」と教えています。悪いことをしないことが善であるというのが孔子の教えであり、私たち日本人もだいたいそのような教えの影響を受けているのではないでしょうか。しかし、イエス様は「自分がして欲しいと思うことを人にもしてあげなさい」と教えられました。「悪いことをしない」ではなく、もっと積極的に善をなすということが教えられます。そのなすべき事をしないことが罪であるということが、『ヤコブの手紙』4章17節に、こう記されています。

 人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。

 人間というのは、神様によって「神の形」に造られたのだと聖書に書かれていますが、それは善を行う存在として造られたということができるかもしれません。しかも、善というのは、イエス様の先ほどのお言葉によれば、人を愛すること、人を幸せにすることなのです。

 自分の幸せだけを求めていても、他人様に迷惑をかけなければいいじゃないかと、世の人々はいいます。しかし、それだけでは、人間は駄目なのです。神様は、人間を、人々を愛し、人々の幸せを求めるようにお造りになりました。それにも関わらず、自分のことだけを追い求めている。それは立派な罪だと、聖書は語っているわけです。

 そして、そういう人間の罪が、十字架につけられたイエス様に表されているのです。イエス様は、決して御自分のことを求めず、人に与えることに徹した方でありました。十字架の上からも「神様、この人々をゆるしてください。彼らは何をしているか自分で分からないのです」と祈られたお方でありました。しかし、そういう方を罪に定めて殺してしまった、それが十字架なのです。イエス様の十字架というのは、自分の幸せを追求する結果として、イエス様の人々を愛し、人々の幸せだけを求め、そのために自分を与えようとした人間本来の生き方、つまり神様がわたしたちに与えようとしておられる生き方、それを否んでしまった者たちによる仕業だったのです。

 そういう意味で、イエス様の十字架は、神様に対する反逆なのです。ユダヤ教の指導者たちも、イスカリオテのユダも、ピラトも、主を見捨てた弟子たちも、それぞれまったく異なる立場に生きていた人々ですが、イエス様の十字架の前では、皆そのような同じ罪を犯した人たちだったのです。

 そして、彼らだけではなく、私たちも、その中の一人なのです。たまたまその現場にいなかったけれども、もしそこにいたら、やはり同じ事をしていたに違いない人間なのだということであります。けれども、そのように私たちが十字架につけたイエス様を、神様は復活させ、天に昇らせ、御自分の右に座らせ、私たちの主として、メシア(救い主)とされたのだと、ペトロは語ったのでありました。
どうしたらいいのか?
 ペトロの説教は、人々の心を打ちました。それはペトロの話し方がうまかったということではなく、ペトロが聖霊によって語っていたからです。ペトロと共にあった聖霊が、聞いている人々に伝染したといったら分かりよいかもしれません。病気じゃないのですから伝染という言い方は変だということを分かっているのですが、聖霊に満たされている人のそばにいると、それだけでビリビリと霊的な力に感化され、悔い改めが起こるということは実際にあるのです。私も、そういう事がありました。その方が黙って座っているだけで、何かを感じてしまう。そして、その方がボソリボソリと御自分の証しをしてくださった後に、「キリストだに己を喜ばせたまわず」(ローマ15:3)と御自分の生き方を支える御言葉を教えてくださった時には、体中に電気が走るような衝撃を受け、自分の罪深さ、高慢さを自覚し、「ああ、自分はこれじゃあいけない」と深い悔い改めが起こりました。ペトロの説教を聞いた人々にも、そういうことが起こったのじゃないかと、私は思います。

 そして、彼らは「わたしたちは、どうしたいいのでしょうか」と問うたのです。「どうしたらいいのか」とは、「どう生きたらいいのか」ということです。もしかしたら、この人たちは、今まで一度も自分の生き方をこのように真剣に問うなんてことはしてこなかったかもしれません。処世訓のようなものは、いくらか身につけていたでありましょう。しかし、何のために生きるのか、生きる意味は何か、自分の生き方はこれでいいのか、そういうことを考えてなくても、なんとなく生きていけるものだと思っている人は、今もたいへん多いのです。

 けれども、安易には生きていけないような重大事が人生に起こります。病気であるとか、挫折であるとか、種々の苦難が、自分に襲いかかってくるのです。今までのようには生きられない、そういう事態になって、はじめて、自分は何のために生きているのか、どう生きたらいいのかということを考え始めるのです。それは、とても苦しいことなのですが、実は大きなチャンスでもあります。今までは何も考えないで、漫然と、ぼんやりとして生きていた。しかし、もしこの苦難を通して、生きる意味を考え、本当の生き方を捜し求め、何かを掴むことができたならば、そこから今までとは違った新しい人生が始まるからです。いつつまずいてもおかしくない漫然とした人生ではなく、一日一日を喜びをもって、困難にも雄々しく立ち向かうことができるような生き方が始めることができるのです。

 ところが、そうなる前に、多くの人が、苦難の前に絶望してしまいます。自分がこれまで真剣に生き方を求めてこなかったことを棚にあげて、生きる意味なんてないのだ、死んだ方がいいのだと簡単に結論を出そうとします。そこには「どうしたらいいのでしょうか」というような前向きな問い掛けさえ生まれてこないのです。

 しかし、ペトロの説教に触れた人々は、自分の今までの生き方では駄目だという否定的な感情を持つと同時に、何か新しい生き方があるのではないかという希望も持ったのです。そうでなければ、「どうしたらいいのでしょうか」という問いは生まれてこないからです。

 教会にいらっしゃる方というのは、まさにこれと同じ状態の人が多いのです。人生に行き詰まり、生きる意味を問い、それを見いだせないで苦しんでいる。もう駄目だという気持ちが自分を支配している。しかし、どこでどういう風にイエス様の名前に触れたかわかりませんが、どこかでイエス様の名前を思い起こし、あるいは聖書に興味を持ち、そこに自分の知らない何かがあるのではないかという一縷の希望をもって、教会にいらっしゃるのです。みなさんも、最初はそうだったのではないでしょうか。

 教会というのは、そういう人たちを失望させないようにしなければなりません。ペトロは、「どうしたらいいのでしょうか」と問う人々に対して、「悔い改め、イエス・キリストの御名によって洗礼を受けよ。さらば、あなたのこれまでの生き方、罪は赦され、聖霊によって新しく生まれ変わらせていただけます」と、迷いなく答えたのでした。しかも、それは老若何女を問わず、これまでの宗旨を問わず、どんな人にも与えられている神の約束なのだと、力強く証しをしたというのであります。

 ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。(2:40-41)

 「ペトロは、このほかにもいろいろ話しをして」とあります。私は、ここにペトロのキリストを証しするための苦労というものを感じるのです。「イエス・キリストによって救われる」という一点は誰に対しても同じことなのですが、それを伝えるためには、一人一人丁寧に、愛をもって、祈りをもって、また熱心さをもって伝えていかなければなりません。ペトロは時間の許す限り、自分のあらゆる知恵と言葉を駆使して、イエス・キリストの素晴らしさ、その救いの力強さを証ししたのであります。

 すると、三千人にも及ぶ人々が、ペトロの言葉を信じ、洗礼を受けたということが書かれています。一日に三千人という受洗者が与えられたということは、これがペトロの人間的な力によるものではなく、聖霊による奇跡であったということを物語っているのでありましょう。つまり、神ご自身の御業であったということであります。

 私はこれを読みますと、嗚呼、荒川教会もせめて毎週一人でも洗礼者が与えられたらいいのになあと思ったりします。そして、私の祈りが足りないんだろうか。説教はまずいんだろうかと反省することしきりなのですが、それと同時に、このような小さな荒川教会でありましても、毎年一人の受洗者が与えられ続けているということは、やはり神様のお力だなあとも思うのです。

 「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け」と書いてありますが、決して人間の言葉で人が救われるのではありません。神の救いの業なのです。一介の漁師に過ぎなかったペトロ、学問もなく、おっちょこちょいで、イエス様に叱れてばかりいたペトロ、イエス様を裏切ってしまったペトロ、そのような貧しい者をも、主の僕としてくださって、このような神様の救いの業に仕えるという光栄を与えてくださった神様の恵みあってのことなのであります。私たちも、人を救う神様の救いの御業に仕え、用いられることを、大きな喜びにしたいと思います。
エルサレム教会の誕生
 さて、ペンテコステの日、弟子たちに聖霊が降り、ペトロが力強い説教をなし、三千人の人たちが洗礼を受けました。ここに、世界で最初の教会、エルサレム教会が誕生したのであります。その教会の様子が427節に記されています。

 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。(42節)

 ここには四つのことが記されています。第一は、「使徒の教え」です。これは今日でいう説教のことであります。

 それから聖書の順番とは違いますが、第二のことは「パンを裂くこと」であります。これは今日でいう聖餐式のことであります。教会は、その誕生の時から、説教と聖餐式を中心に礼拝を守っていたのであります。

 第三のことは「相互の交わり」であります。今日でも、教会というところは、一つの霊的な家族として、互いに兄姉姉妹と思い合い、交わりを大切にしています。最初は、お客さんであるかもしれません。あまり他の人に関心をもたないこともありましょう。けれども、救いというのは個人の魂の救いであると同時に、神の家族の一員とされることなのであります。ですから、互いに愛し合い、励まし合う交わりというものも、教会のとても大切な要素なのです。

 第四のことは「祈り」であります。祈りというのは貧しさから生まれます。自分に満ちたりている人は祈らないのです。そうしますと、教会というのは自らの貧しさを知っているところなのです。しかし、同時に、それを満たしてくださる方も知っているわけです。すべての良きものは、自分からではなく、この世からでもなく、神様からくる。それを信じて、熱心に祈る。それが教会であります。
4
 3節以下には、さらに細かく教会の様子が書かれています。

 すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。(43)

 「不思議な業としるし」とは、神の御業が行われていたということであります。つまり、教会には生き生きとした神の働き、ご臨在があったのです。荒川教会もそうです。手品や魔術のようなことがあるわけではありませんが、やはり神様の大いなるお守りと祝福を感じます。それはここに生ける神様がいらっしゃるからなのです。それを見て、人々の心に神を畏れる心が生じたというのです。

 信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。(44-45)

 エルサレム教会では、信者たちが自分の財産をすべて教会に献げ、そしてその財産を必要に応じて互いに分け合ったということが書かれています。これは一種の共産制度でありますが、制度というよりも、愛が溢れてくる結果としてそのような財産の共有ということが行われたというのであります。たとえば、家族であれば財産をこのように共有することは、別に珍しいことではありません。ただ、教会は、これを一つの制度として後々まで残すということはしませんでした。だからといって、教会に愛の交わりが、助け合いが失われてはならないと思います。それから、教会が信徒たちの献げ物によって維持されたということについては、今日も同じ形をとっています。

 そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していた(46-47a)

 「毎日」とあります。日曜日だけが礼拝する日ではなかったのです。毎日が礼拝だったというのです。荒川教会の集会は日曜日と水曜日の週二日でありますが、そのような集会の日であっても、私たちはクリスチャンとして神を礼拝しつつ生活を送っていくことが大切でありましょう。

 さらに「神殿に参り、家ごとに集まって」とあります。ここから分かるのは、エルサレム教会が出来たといっても、今日のような十字架のついた建物が建ったわけではないのです。彼らはそういう建物をもっていなかった。時には神殿に集まり、時には誰々の家に集まり、そうやって教会を守ったというのであります。教会は建物ではなく、信者の交わりにこそあるのです。
「一緒に食事をし」ともあります。今日でも、しばしば教会で共に食事をします。単に楽しいからというのではなく、共に食事をするということに、教会らしい意味があったということでありましょう。これもよくお話しすることでありますから、今日は簡単に申しますけれども、食事というのは命を分かち合うことなのです。逆にいうと、そういう食事が教会ではなされていたということであります。そして、47節を読んでみます。

 民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。

 「民衆全体から好意を寄せられた」とは、クリスチャンではない人々にも好感をもたれたということであります。それが証しとなって、毎日のように洗礼を受け、教会に加わる人が与えられた。主がそのように教会を通して人を救いへと導き、そしてこの神の家族の一員につなげてくださったというのであります。

 今日の教会とは、少し形が違うところもあるかもしれません。しかし、私たちの原点は、このような教会の姿にあるのだということを忘れないようにしたいものであります。そして、私たちの教会も、主の愛の薫る教会、日々に救われる人が与えられる教会にしていただきたいと、私たちの貧しさをもって祈り、歩む者でありたいと願います。
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