ペトロ物語(24)
「ペトロの説教」
Jesus, Lover Of My Soul
旧約聖書 創世記11章1-11節
新約聖書 使徒言行録2章 1-42節
言葉の奇跡
 イエス様が天に昇られ、神様の右の座につかれた後、ペトロを中心とした百二十人ばかりの弟子集団は、エルサレムのとある二階座敷に集まり、十日ばかり、熱心に祈り続けていました。すると奇しくも五旬祭の日に、聖霊降臨の出来事が起こったのでありました。聖書には、その時の様子について、こう書かれています。

 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、"霊"が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。(2:2-4)

 音に聞こえ、目に見えるような形で、弟子たちひとりひとりの上に聖霊がとどまったと、記されています。もっとも、聖霊がこのような音に聞こえ、目に見えるような現象を伴って人に降ったというのは、この日に限られていたようです。つまり、音とか、炎のような舌が見えたということは、あまり本質的なことではないのです。大切なことは、聖霊に満たされたとき、弟子たちは「"霊"が語らせるままに、ほかの国々の言葉で語り出した」ということです。

 聖霊に満たされると、誰でもこのように外国語が堪能になるということではありません。彼らにしても、このような力を受けたのは一時的なことであったでありましょう。しかし、たいへん象徴的な出来事でもあったのです。聖霊によって、弟子たちが人々に通じる言葉を持つようになる。それは外国を話すということではなくて、人々の心に届く言葉を持つようになるということです。悲しんでいる人を慰め、失望している人たちに希望を与え、罪を犯している者を悔い改めさせる、そういう言葉を持つのです。それによって、世界中の人たちに対する復活の主の証人とされ、それを宣べ伝える者になるということが、この「ほかの国々の言葉で語り出した」という象徴的な出来事を通して示されたのだと、私は思うのです。

 昭和7年5月15日、血気にはやった海軍の青年将校たちがクーデターを起こそうとして犬養首相の官邸に乱入したとき、犬養首相は「話せば分かる」と彼らを説得しようとしましたが、「問答無用」と遮られ、あえなく銃殺されてしまったというお話しがあります。こういうお話しは多少尾ひれをつけて美談として作られながら伝えられるものですから、まったくこの通りの史実があったのかどうか分かりませんが、同じ日本人同士でも言葉が通じなくなり、相手のことを理解したり、自分の言わんとしていることを言葉で伝えるということができなくなるときがある。そして、その結果として、こういう血なまぐさい暴力事件が起こるのでありましょう。

 旧約聖書に「バベルの塔」という話しがあります。人間が石の代わりに煉瓦を焼き、漆喰の代わりにアスファルトを用いるようになった時代の話しであります。このように建築に画期的な技術革新が起こりますと、権力者ニムロドは、煉瓦とアスファルトを用いて今までにない天まで届く塔を建てようとしました。しかし、神様はそれを快く思わず、人々の言葉を混乱させ、互いの言葉が通じ合わないようにしてしまわれます。お互いに言葉が通じなくなった人間は、一致協力して仕事をすることができなくなり、塔の建設をあきらめて世界各地に散り散りになったというのです。

 これはいったい何の話しなのでしょうか。神様は、なぜ塔の建設を快く思わなかったのでしょうか。なぜ、人間の世界に言葉の混乱をもたらされたのでしょうか。それは、彼らが自分たちの知恵と力を誇り、それだけをもって人間の王国を築こうとしていたからです。人間の知恵と力は、確かに素晴らしいものがあります。それは人間に多くの希望を与え続けてきました。私が子供の頃には鉄腕アトムという漫画がありましたが、それを見ながら育った私は、単純に「科学」という言葉に夢を感じていました。科学が発達すれば、世の中はどんどんよくなる。新しい文明の利器が発明されれば、人間はどんどん幸せになっていく。そのように信じていました。しかし、現実は少しもそうではなかったのですね。

 ある人が、文明というのは人間を孤独にしていると言っていました。たとえば、私は子供の頃、隣の家からお醤油を借りてきて、などというお使いを頼まれたことがあります。しかし、今は迷わずコンビニエンスストアに買いに行くでありましょう。人の手を借りなくても生活できるようになること、それが便利ということであり、文明の利器なのです。一人でも、電子レンジでチンをすればおいしいご飯が食べられる。電話も一人一台持っており、家族のことを気にせずに長電話ができるし、取り次ぎをお願いしなくても、直接本人につながる。たしかに便利です。私もその便利さを満喫しているのは事実です。しかし、人間が幸せになったのか? 世の中がよくなったのか?そのように問われたら、決してYESとは言えないのです。

 1980年、人類は天然痘の根絶に成功しました。素晴らしい偉業です。しかし、その年、ノーベル平和賞を受賞されたマザー・テレサは、このように語りました。

 「世界にはまだ最悪の病が残っています。それは天然痘でもなければ癌でもありません。インドに蔓延しているハンセン病でも結核でもありません。それは生きていなくても同じだと考える精神的な孤独、精神的貧困と呼ばれる病気です」

 精神的な孤独、精神的貧困というのは、日本のような豊かな国、東京のような大都会に蔓延している病です。倒れている人を見ても、何も感じずに通り過ぎてしまう人たち。自分がどんなに困っていても、助けてくださいと頼むことができない人たち。有り余るほどの財産をもっていても、それで人の役に立とうなどと思いもよらない人たち。夏休みなのに、友達と元気に遊ぶことができない子供たち。自分の殻に閉じこもって、社会や他者との交わりを持とうとしない若者たち。そういう人たちに必要なのは、さらなる文明の利器ではありません。彼らの殻を打ち破って、その中にまで届いていく言葉、そして渇いた心に、慰めを与え、希望を与え、生きる力を与える言葉なのです。

 聖霊降臨という出来事は、そのような言葉の回復という出来事だったのです。バベルの塔を建て続けている人間は、ますます言葉の力を失っていきました。言葉を発することも少なくなり、たとえ言葉を発したとしても身勝手な、あるいは敵意に満ちた自己主張ばかりであり、人の心にまったく届かない、通じない言葉になってしまいました。それが人間の知恵や力によって、人間の王国を築こうとしてきた結果なのです。

 しかし、イエス様は、神の王国を築くために選ばれた人たちに聖霊をお送り下さって、人々に通じる言葉を与えてくださったのです。その言葉をもって、復活の主の証人として教会を建て、神の国の建設のために仕える者としてくださったのです。
ペトロの説教
 その中でも、核となる人物がペトロでありました。今日お読みしましたところには、聖霊に満たされたペトロが初めて語った説教が記されていたのであります。今日は、その説教の詳細を解説することはできませんが、いったいペトロはこの説教によって何を語らんとしていたのか、その主題(中心メッセージ)ということを考えてみたいと思います。

 結論から申しますと、それは、今こそ福音が成就したのだということであります。イエス様が世に来てくださった、神の小羊として十字架にかかってくださった、復活して天に挙げられ、神の右の座につかれた。それは福音の基礎、土台であります。これらのことがなかったら、福音そのものが存在しないのです。

 けれども、福音の成就というには、もう一つの段階を経なければなりません。「イエス様は素晴らしい、まさしく神の子だ」と言ったとしても、「しかし、私には関係がない。私は相変わらず世の苦しみと悩みの中で喜びなく、讃美なく生きていかなければならないのだ」と言っているままであったら、福音の成就とは言えないからです。ペトロだって、そういう人間だったのです。主の復活を目の当たりにしても、「わたしは漁に行く。昔の生活に戻る」と言ったのでありました。福音の成就とは、イエス・キリストによってもたらされた救いが、まさに私たちの救いとして経験されるということであります。そして、そのような日が、今日、来たのだということを、ペトロは、声を大にして語っているのです。

 なぜ、「今日来た」というのでありましょうか。それは、聖霊降臨の出来事が起こったからです。ペトロは言います。

 「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。」(14-16)

 ペトロが言わんとしていることは、こういうことです。私たちは酒に酔っているのではない。自分だけいい気分になって喜んでいるのではない。これは、あなたがたすべてに関係する預言者ヨエルを通して神様が約束されていた出来事なのです。そして、ペトロは、預言者ヨエルの言葉を紹介します。

 神は言われる。
 終わりの時に、
 わたしの霊をすべての人に注ぐ。(2:17)


 ヨエルの預言は、神様が聖霊をすべての人に注がれるという預言でありました。

 すると、あなたたちの息子と娘は預言し、
 若者は幻を見、老人は夢を見る。
 わたしの僕やはしためにも、
 そのときには、わたしの霊を注ぐ。
 すると、彼らは預言する。(2:17-18)

 男も女も、若者も老人も、高貴な者も卑しき者も、すべての人が、神の霊を受けて、預言者になるであろうといわれています。預言者になるというのは、未来を語る占い師のようになるという意味ではありません。旧約時代には、神の霊を受けるのは、神様に特別に選ばれた預言者でありました。神の霊を受けた預言者は、未来のことに限らず、聖霊によって神の言葉を語り、神の御心を伝えたのです。しかし、これからは、すべての人が預言者になる。逆にいうと、旧約時代のような預言者が必要とせず、一人一人が神様との直接的な交わりの中に生きることができるようになるということなのです。

 そして、このようなことが起こるのは、「終わりの時」、つまり終末の日であるといわれています。一般的には、終末の日というと、世界滅亡のような悲劇の日と考える人が多いようです。しかし、聖書では違います。終末の日とは、神様の御国が来る日です。「主の偉大なる輝かしい日」という表現もされています。

 上では、天に不思議な業を、
 下では、地に徴を示そう。
 血と火と立ちこめる煙が、それだ。
 主の偉大な輝かしい日が来る前に、
 太陽は暗くなり、
 月は血のように赤くなる。

 「血と火と立ちこめる煙」、「太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる」という言葉がおどろおどろしさを感じさせますが、そういう苦難を経て、輝かしい神の国が訪れるというのが、聖書の一貫した約束なのです。

 ペトロは、預言者ヨエルの預言を引用して、もう終末が来てしまったといっているのではないと思います。しかし、もう終末が始まっている、これからそれが徐々に成就していくであろうというわけです。そして、ヨエルの言葉を引用したペトロが一番聞かせたかったのは、次の言葉でありましょう。

 主の名を呼び求める者は皆、救われる。(2:21)

 「主の名」というのは、イエス・キリストの御名であります。ペトロは、そのことを続く22-24節で語ります。イエス様は神様から遣わされたお方であること、そのことを、イエス様は奇跡としるしによっておしめしくださったこと、そして神様のご計画に従って十字架にかけられ、復活させられたことがいわれています。特に25-33節には、詩編十六編にあるダビデの言葉を引用して、これはダビデが預言したことでもあるのだと、イエス様が復活なさったこと、今も生きておられることを、力強く証ししているのです。

 そして、32節からを読んでみましょう。

 神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。

 私たちに聖霊が注がれたという事実、それがイエス様が復活して、天に挙げられ、神の右の座につかれたことの証しだと、ペトロはいっているのです。ペトロは続けます。

 だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。(2:36)

 十字架にかけられ、復活したイエス様こそ、あなたがたの主、メシアであると、ペトロははっきりと宣言しました。イエス様が十字架にかけられて、まだひと月あまりです。十字架前後のあの迫害の恐怖に怯えた弱々しいペトロの姿からはまったく想像できないことでした。

 イエス・キリストこそメシアであるとの、ペトロの力強い証しを聞いた人々は、心に強い衝撃を受け、では、わたしたちはどうしたらいいのか? 神の救い、イエス・キリストの福音に与るためにはどうすればいいのか? と尋ねました。

 すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」

 「主の名を呼ぶ者は救われる」との預言者ヨエルの言葉が、このペトロの言葉の根拠となっているのでありましょう。悔い改めて、イエス様の御名によって洗礼を受ければ、あなたがたも聖霊を受けることができるのだ。イエス様と結ばれ、あなたがたの中にイエス様の中に生きてくださるのだと、ペトロは言ったのであります。
伝道者となったペトロ
 さて、今日はペトロの説教についてお話ししたのですが、ペトロ自身にたいへんおおきな変化が起こっているということに注目しておきたいと思います。それは、「イエス様はわたしの救い主である」というだけではなく、「イエス様はあなたがたの救い主である」という者になったということです。いや、あなたがただけではない、あなたがたの子供にも、遠くにいる者、つまり今ここにいない者にも、「イエス様は救い主である」と大胆に言い放つのです。

 それは、ペトロが聖霊を受けて、復活の主の証人となったからであります。逆にいうと、復活の主の証人となるということは、「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。」という喜びに生きるだけではなく、「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」という喜びに生きる者になるということなのです。

 どうか、私たちの教会も、若者にも老人にも、男にも女にも、高貴なる者に卑しき者にも、イエス様はあなたがたの救い主です。私たちのその証人ですと言える者になりたいと願います。そして、神の国の建設のために自らをお捧げしていく者に変えられたいと思います。
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