ペトロ物語(23)
「聖霊を受ける」
Jesus, Lover Of My Soul
旧約聖書 エゼキエル書36章25-32節
新約聖書 使徒言行録2章 1-4節
神の右の座のイエス様
 先週は、復活されたイエス様が、四十日間にわたってペトロや弟子たちの前に現れ、神の国について教え、聖霊降臨の約束をしてくださったこと、そして四十日目に、ペトロや他の弟子たちが見ている前で、天に挙げられ、神様のもとにお帰りになったというお話しをしました。イエス様のお姿はこの時を最後に地上から消え去ってしまったのであります。

 イエス様はどこに行かれたのでありましょう。別の言い方をすると、イエス様は今、どこにおられるのでしょうか。『マルコによる福音書』16章19節には、このように記されています。

 主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。

 イエス様は「神の右の座」に着いておられるというのです。右の座があるならば、左の座もあるのか? そんなことを言い出したら、右と左ではどちらが偉いのかなんてことにもなります。だいたい日本では、右大臣より左大臣の方が上位になるのですが、中国や西洋では右の方が左より位が高くつくようであります。右と左、どちからが上位かというのは、結局、文化の違いなのです。ですから、「神の右の座」というのも、大切なことは右か、左かということではなく、神に並ぶ御方となられた、そのような栄光をお受けになったということだと単純に考えれば良いと思います。

 それからもう一つ、これに関連するお話しとして、「イエス様は神様なのか、人間なのか」という質問を受けることがよくあります。これは、質問は非常に単純明快でわかりやすいのですが、実は答えは単純ではありません。結論から申しますと、キリスト教の正統的な信仰では、イエス様はまことの神であり、まことの人間であるというのが正解なのです。これでは結局何のことからよくわからないと言われてしまうかもしれません。けれども、イエス様がまことの神であり、まことの人間であるということは、たいへんよく考えられた言い方なのです。イエス様が何者であるかということについては確かに曖昧さが残るかも知れません。しかし、イエス様が何者ではないかということについては、はっきりと物語っているのです。

 一つは、イエス様は神となった人間ではないということです。たとえば仏教では、人間が修行をして、精進をして、悟りを開いて、仏になるという考えがあります。そういう意味で、イエス様も人間であるのだけれども、罪を犯さないで、神様の御心に適う道をまっすぐに歩むことができた人間であるがゆえに、神になることができた。あるいは神様に並ぶような人になった、という考えも有り得るかもしれません。しかし、それは違う。イエス様は神となった人間、あるいは神のようになった人間ではなく、はじめから「まことの神」であるというのであります。

 では、イエス様は人間の姿をしておられるけれども、実は神様であったということなのでしょうか。日本には現人神という信仰があります。人間の姿はしているけれども、実は人間ではなく、神であるという信仰です。そのようにイエス様も、仮初めに人間の姿となられた神様なのか。そういう考え方をする人もありましょう。しかし、それも違う。イエス様は正真正銘、「まことの人間」であるというのであります。

 つまり、イエス様は神のような人間ではない。人間のような神でもない。半分は神で、半分は人間であるというような御方でもない。そうすると、イエス様は「まことの神」であり、「まことの人間」であるとしか言いようがないということになってしまうのです。

 今、私は神の右の座に着かれたイエス様とは、どのような御方なのかということをお話しするために、このようなややこしいことを申し上げているので、もう少し我慢してお聞き願いたいのですが、『フィリピの信徒への手紙』2章6-11節には、次のように記されています。

 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

 「まことの神」が、神である立場を捨てて、「まことの人間」の立場に身を置き、そこで人間の持つ弱さや、生きる苦しみを嘗め尽くされ、ついには神に従うべき者として十字架という杯をも飲み干されたのだと言われています。

 今日、私が注目していただきたいのは、その次に「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」というところなのです。これはイエス様の復活、そして昇天ということを言い表していると思いますが、「このため」という言葉の持つ意味を考えていただきたいのです。イエス様は「まことの神」だから、この地上の生涯を終えられた後に帰るべきところにお帰りになったという言い方ではないのです。イエス様は「まことの人間」として十字架の死に至るまで従順であられた、「このため」、なのです。

 ともすると私たちは、母マリアから生まれ、十字架でお亡くなりになるまでの三十三年間、イエス様は「まことの人間」であられたけれども、それで「まことの人間」の使命は終わりで、イエス様は「まことの神」に戻られて復活し、「まことの神」として天にお帰りになったのだという風に理解しているかもしれません。しかし、そうではないのです。十字架の死にいたるまで神に従順であられた「まことの人間」として、イエス様は復活させられ、そのように復活の命を勝ち取られた「まことの人間」として、天に挙げられ、神の右の座につかれたというのです。「まことの神」が「まことの人間」としての使命を終えて、また「まことの人間」に戻ったのではありません。「まことの神」が、ただ「まことの神」であるだけではなく、「まことの人間」ともなられた。そのような「まことの神」として立場も、「まことの人間」としての立場も、両方を兼ね備えておられる御方として、イエス様は神の右の座につかれたのです。

 そのことを十分に理解していたパウロは、『ローマの信徒への手紙』8章34節で、次のように言っています。

 だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。

 神の右の座で、わたしたちのために執り成しをしてくださっているイエス様について、語られています。それは、イエス様が神の右の座につかれてもなお、「まことの人間」として、私たちの友であり続けてくださるからなのです。そして、わたしたちの友でありながら、神の右の座につかれた「まことの神」であるからでもあるのです。イエス様は今、このような執り成し手として天の神の右の座についていてくださっているのであります。

 それだけでも、私たちにはたいへん心強いことなのでありますが、イエス様はさらに重ねて、天にお帰りになった後に、地上の弟子たちに聖霊をお送り下さるという約束をしてくださいました。聖霊とは、私たちのうちに働くキリストの御霊であります。イエス様は神の右に座しておられます。地上に生きている私たちからすれば、遠くて高い天におられるのです。では、イエス様は私たちと共におられないのでしょうか。そうではありません。イエス様は天より聖霊を送り、聖霊によって私たちのうちに生きる方となってくださるのです。

 従って、聖霊を受けると、私たちのうちにイエス様の人格的な命が働くようになります。イエス様のように考えたり、イエス様のように行動したり、またイエス様のように神の子として父なる神様の祝福に生きることができるようになるのです。私たちの生まれながらの人格的な命によってそうなるのではありません。聖霊に満たされることによって、私たちのうち働くキリストの御霊によって、そのような人間へと変えられていくのです。パウロは、このことを「キリストがあなたがたのうちに形づくられる」(『ガラテヤの信徒へ手紙』4章19節)という言い方をしています。このような聖霊の力、すなわちキリストの御霊を受けて、私たちは先週お話ししたような復活の主の証人とされ、キリストのからだなる教会をこの地に建てていくことになるのです。
時が満ちて
 さて、今日は、弟子たちがその約束の聖霊を受けた時のお話しであります。弟子たちに聖霊が降った日は五旬祭の日であったと記されています。五旬祭とは過越の祭りから五十日目の祭りという意味です。もう少し丁寧にお話ししますと、ユダヤ人たちは旧約聖書のエジプト脱出の故事にちなんで、一年に三つの大切な礼拝の日を守っていました。ひとつは、エジプトからの解放を記念する「過ぎ越しの祭り」。もうひとつは、シナイ山で神様から十戒を授かったことを記念する「七週の祭り」。三つ目は、四十年にわたる厳しい荒れ野の旅のお守りを思い起こすための「仮庵の祭り」でありました。五旬祭とは、過ぎ越しの祭りから七週後、つまり五十日目に行われる「七週の祭り」のことだったのです。

 それは、今申しましたように、神様から十戒をはじめとする律法を授かった日を記念する礼拝日でした。律法を授かるということは、単に神様の教えを受けるというだけのことではありません。言ってみれば、神の国の憲法を授かったのであります。それは、ユダヤ人たちが、神の国の憲法に生きる神の民となったという意味が込められていました。エジプトで奴隷であった人々が、神様の偉大な力によって解放され、神の国の憲法を持つ神の民となった。この喜びが、七週の祭り、すなわち五旬祭なのです。

 そして2000年前、ちょうどこの喜ばしい五旬祭の礼拝がエルサレム神殿で行われているとき、エルサレムのとある家に集まっておりましたイエス様の弟子たちの上に、聖霊が降ったと言うのであります。聖霊降臨の日が、折しも五旬祭であったということは単なる偶然ではありません。子羊を屠り神の救いを想起する過ぎ越しの祭りの日に、イエス様が神の子羊として十字架にかけられました。そして、ユダヤ人たちが十戒を授かり、神の民イスラエルとして誕生した日に、聖霊が弟子たちに降り、教会という新しい神の民が誕生したのです。旧約聖書の救いの歴史をなぞるようにして、イエス様の十字架と復活があり、そして聖霊降臨があったのです。それは旧約という神様の救いの歴史の中で準備されてきたことが、新約において、つまりイエス・キリストの十字架と復活、そして聖霊降臨によって成就したという事なのです。

 このようなお話しは、ペンテコステの度に申し上げていることかと思いますが、今回、私は新たに気づかされたことが一つあります。「五旬祭の日が来て」と書かれていますが、この「来て」という言葉は、ギリシャ語で見ますと単純に「来る」という意味ではないのです。「いっぱいに満ちる、満了する」という意味の言葉が、ここで遣われているのです。「来て」というのなら、その日だけが大切になりますけれども、「満ちて」というならば、その日だけではなく、その日が来るまで過程ということも大切になってきます。聖霊降臨の日は、それまでの日々と何の関係もなく、突然来たのではなく、その日が来るまでに多くの神様の御業がなされ、用意され、整えられて、やってきたということなのです。

 それは先ほど申しましたように、旧約聖書の歴史から始まり、イエス様の十字架、復活、昇天ということもありましょう。それと共に、弟子たちのこれまでの歩みということも、決して無関係ではなく、すべてが聖霊を受けるこの日のための準備の日々であったということができるのではないでしょうか。たとえば、これまで私たちはペトロの歩みを学んできました。その中に失敗や裏切りという手痛い経験もありました。けれども、そういうことがなかった方がよかったという話しではなく、そういう経験を通して、ペトロは復活の主の証人として聖霊を受けるための準備が整えられてきたのではないでしょうか。

 それは、私たちの経験を顧みても言えることだと思います。ある人が、洗礼を受けた喜びに満ちあふれながら、教会の人たちにこう言いました。「わたしは洗礼を受けて一つだけ後悔していることがあります・・・・もっと早く洗礼を受ければよかったと思っています」と。ユーモアを込めて語ったことでありましょう。しかし、敢えて真面目に意見を申しますと、洗礼を受ける時というのは、遅いより早いほうがいいというような単純な話しではないのです。私もそうですが、幼児洗礼といって、赤ん坊に時に洗礼を授けられた人もいます。あるいは七十歳や八十歳になってから洗礼を受ける人もいます。わたしはそれを遅すぎるとは思わないのです。それだけの時間が、その人には必要だったのではないでしょうか。それは一人一人に対する神様のご計画によるものだと信じるのです。

 聖霊を受けるということもそうです。はじめの方で、聖霊を受けるとは、キリストの御霊を受け、キリストの生命の力によってキリストの人格が私たちのうちに形成されていくことだと申しました。しかし、私たちのうちにキリストの人格が新たに作られていくためには、私たち自身が生来もっている人格の存在が邪魔になります。聖霊は、そのような古い人格を打ち壊しつつ、新しい人格を形成していくのであります。

 ただそれにしても、私たちがそのような聖霊の働きを受け入れ、そのような聖霊の働きに身をゆだねるということも必要になってきます。そのような私たちの願いといいますか、祈りが生まれてくるためには、「自分にも何かができる」という自信が打ち砕かれる必要がありますし、逆に「もう自分は駄目だ」という絶望が取り除かれる必要もあるのです。そして、自分は何もできない人間であるけれども、神様は私を救って新しい人間にしてくださるという希望を持つようになることが必要なのです。そのような祈りは、一朝一夕に生まれてくるものではありません。自信をもって一生懸命に努力する経験や、挫折の経験、またそれが慰めされる経験など、いろいろな経験がそこに至るまでの大切な道のりになってくるのです。

 聖霊というのは、私たちが欲しいと言えばいつでも与えられるものではなく、そのように時が満ちるまで祈りの道を歩み続けるということが必要なのです。しかし、そのように歩み続けるならば、必ず聖霊が与えられ、そして私たちもまたキリストの証し人として、力強く主のお働きに仕える者にされていくのです。

 主に仕えるなんて面倒くさい、わたしは自分さえ救われればそれでいいなどと言ってはいけません。主に仕える者になる、ということは、私たちが人生の本当の目的を知り、それに向かって生きるようになるということであります。私たちの人生の目的は、私たちが決めるのではなく、私たちの造り主である神様のうちにあるのです。そして、それはどのような仕事であれ、どのような生きざまであれ、それをもってイエス様に仕え、神様の栄光を現すということにあるのです。

 そのためには、必ず聖霊を受ける必要があります。そのために、私たちは祈りの道を歩み続ける必要があるのです。
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