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これまで、私たちは福音書の中に描かれているペトロについて学んできました。ガリラヤ湖の漁師であったペトロは、魂の飢え渇きをもって、ユダヤの荒れ野で信仰復興運動を繰り広げていたバプテスマのヨハネのもとに行きます。そして、そこでイエス様に出会うのです。ペトロはこの最初の出会いときから、イエス様に強く心捕らえられる者となり、イエス様に従う生活をはじめました。最初のうちは在家といいますか、漁師という稼業を続けながら、自分の家をイエス様のお働きのために開放し、空いている時間でイエス様のお手伝いをするという生活でありました。
しかし、ある時、「人間をとる漁師になりなさい」というイエス様のお言葉をいただくことによりまして、ペトロは舟も網も捨てて、四六時中イエス様にお仕えするという生活をはじめます。仏教的な言い方をしますと在家から出家の信徒になったということです。こうして約三年間、ペトロはイエス様の弟子として忠実なる生活をしてきましたのでした。
ところが、その生活が壊れてしまうような出来事が起こります。イエス様がユダヤ当局の手にかかり、十字架につけられてしまったのです。それだけではありません。イエス様が死ぬ時には自分も一緒に死のうと固く心に誓っていたペトロでありましたが、いざとなると怖くなって「わたしはあんな人は知らない。わたしはこの人と関係ない。弟子などではない」と言ってしまったのです。ペトロは自分がそんなことを言ってしまう人間であるということに知り、深い悲しみと絶望感を味わったのでありました。
数日後、ペトロは「わたしは漁に行く」と言って、エルサレムを後にし、故郷ガリラヤに戻ります。ガリラヤ出身の他の六人の弟子たちもそれに同調してペトロと行動を共にしました。こうして十二弟子のうちユダが自殺をし、残り十一人のうちの七人がガリラヤに戻ってしまった。これはイエス様の十字架と共に弟子集団も分裂、解消の危機にあったということを意味します。ところが、そのように彼らがイエス様に仕えた三年間の生活に終止符を打ち、イエス様に出会う以前の生活に戻ってみますと、やっぱり空しいのです。夜通し漁をしても魚は一匹も捕れません。もと漁師であったペトロは、昔取った杵柄でありますから、精神的な飢え渇きは別にしても、漁に出れば食べるぐらいなんとかなるだろうと高をくくっていたのでありますが、それさえもままならないのでありました。
そのような絶望的な空しさの中で、彼らは復活されたイエス様と出会うのでありました。特にペトロは、この時イエス様の特別な計らいを受け、イエス様と二人きりでガリラヤ湖の浜辺を歩きます。ペトロはこうしてイエス様の御跡に従って歩けることを懐かしみ、喜びながらも、心の奥底にはイエス様を裏切ってしまった痛みがうずいていたことでありましょう。
イエス様は、そのペトロの心の痛みに迫ります。
「ヨハネの子シモン、あなたはわたしを愛するか」
ペトロは胸にズキッとした痛みを感じたに違いありません。あの裏切りの夜のことがまざまざと心に浮かびました。自分の身を守ることに必死で、「あんな人は知りません」と愛する主を裏切ってしまった。一度ならず、二度も、三度も、裏切ってしまった。もはや「あなたを愛しています」と言う資格をもたない人間になってしまった・・・しかし、ペトロは主を愛しているのです。愛して、愛して止まないのです。主を愛する資格を失った人間が、それでも主を愛しているのです。そのことをどのように答えたら良いのでありましょうか。「わたしにはお答えする資格がありません」と答えたらよいのでしょうか。しかし、またペトロはこう思います。主は、愛する資格を尋ねておられるのではない。愛しているか、否か。ペトロの愛を問うておられるのです。ペトロは、やっとのことでこう答えます。
「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」
すると、イエス様は「わたしの小羊を飼いなさい」と言われました。ペトロは、主に受け入れられたとホッとして胸をなで下ろしたでありましょう。しかし、しばらくして、再びイエス様はペトロに同じ事を問うのです。
「ヨハネの子シモン、あなたはわたしを愛するか」
ペトロの心は再び真っ暗になります。ペトロは「信じてください」と祈るような気持ちで答えます。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」イエス様は、「わたしの羊の世話をしなさい」とお答えになりました。そして、しばらくすると三度、イエス様は同じ問いを繰り返されます。ペトロは、三度、大祭司の庭でのあの罪深き夜のことを思い起こします。そして、泣き出しそうな気持ちで「ああ、主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることも知っていてくださるはずです」と答えるのです。イエス様は、ペトロに答えました。「わたしの羊を飼いなさい。あなたはこれまで自分で帯を締め、自分の行きたいところに行っていた。しかし、これからは他の人に帯を締められ、行きたくないところに連れて行かれる。」そして、「わたしに従いなさい」とおっしゃってくださったのでした。
こうしてペトロは、再び主の弟子として歩み始めることがゆるされた。そこまでが、福音書に書かれていたことであります。そして、今日お読みしました『使徒言行録』に続くのです。『使徒言行録』は、『ルカによる福音書』の著者であるルカが、第二巻として著したものでありますが、福音書と『使徒言行録』には大きな違いあります。福音書は、神の御子であるイエス様が、私たちの目に見える姿で、手で触れることができる肉体をもって現れてくださったということが書かれているのです。しかし、『使徒言行録』は、イエス様が天にお帰りになったというところから始まります。目に見えない御方となったのであります。ペトロは、この『使徒言行録』で、その目に見えないイエス様を信じ、愛し、望みを抱いて、従い続けます。しかも、それは福音書におけるペトロとは比べようもないほど確かな信仰であり、愛であり、希望でありました。
しかし、それだけならばさほど驚くに及びません。ペトロのこれまでの生涯、イエス様との交わりということを考えればさもあらんと思えるのです。驚くべきことは、ペトロ自身が信じ、愛し、望みを抱くだけではなく、イエス様を一度も見たこともない多くの人々に、イエス様に対する信仰と愛と希望で満たす者になったということであります。
このようなことは、自分の信念を伝えるだけで成し遂げられることではありません。「わたしは信じています。だから、あなたがたも信じない」と教えるだけで、誰が信じるでしょうか。人々が、イエス様を見たことがないのに信じ、見たことがないのに愛する者となるためには、人々の魂に生ける主との出会いを与えなくてはなりません。目には見えなくとも、ここに主の救いがある、ここに主の愛がある、ここに主が生きておられるということを証しして示さなくてはならないのです。別の言い方をすれば、人々に生ける主との生きた交わりを与え得る人になるということであります。
聖書は、そのような人を「主の復活の証人」と呼んでいます。証人というのは、証明する人であります。福音書のペトロは、主の救い、主の愛、主の栄光の目撃者でありました。そして、これから『使徒言行録』を通して学ぶのは、復活の主の証人として復活の主に仕えるペトロなのです。
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ペトロは、どのように目撃者から証人へとなっていったのでありましょうか。実は、目撃した人がすなわち証人になれるわけではないのです。証人になるためには、自分が目撃したことが真実であることを人々に証明する力が必要なのです。そうでなければ、誰にも信じてもらえないし、伝えられないのです。ペトロは、そのような証人としての力を、イエス様ご自身からいただいたのだということが、今日のところに記されています。
まず3節から読んでみましょう。
イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。
復活されたイエス様が、その復活された体をもって弟子たちとお過ごしになった期間は四十日間であったと記されています。この四十という数字は、聖書を長く読み続けておりますとピンとくるものがあります。創世記7章には四十日四十夜激しい雨が降り続き、地上が大洪水に見舞われて、方舟の乗ったノアの家族と動物たち以外のものはすべて命が水に呑み込まれてしまったと記されています。また、モーセに率いられ約束の地を目指したイスラエルの子らは、四十年の間、荒れ野を彷徨ったということも記されています。そして、主が宣教活動を始められる前、荒れ野で祈られた期間も四十日でありました。このように四十日、あるいは四十年というのは、神様が新しいことをなさる時の準備の期間なのです。復活の主が四十日にわたって弟子たちに現れ、弟子たちに神の国ついて教えられたというのもそうです。弟子たちは、復活の主とのそのような交わりがいつまでも続くことを願ったかもしれません。しかし、イエス様は、この四十日間の準備の期間を通して、神様の新しい業に備えようとされたのであります。 |
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神様の新しい業とは、教会の誕生であります。教会とは何でしょうか。教会が単なる建物ではありません。荒川教会も最初はそうでしたが、建物を持たない教会もたくさんあります。では、教会は「イエス様を信じる者たちの群れ」と言ったらよいのでしょうか。実は、それだけでも十分ではありません。聖書の中で、教会について教えられている最も大切なことは、教会は「キリストのからだ」であるということなのです。
マグダラのマリアが、空っぽになった主のお墓で、イエス様のお体を探し求めたとき、天使が現れ、「あの方はここにおられない」と言いました(『マタイによる福音書』28章6節)。それを聞いて、マグダラのマリアは空っぽの墓の前で泣き続けました。なぜ、マグダラのマリアはイエス様の体に拘ったのでありましょうか。イエス様は、そのお体をもってマリアを愛し、慰め、励まし、魂を救ってくださったからです。人々から蔑まされている時に、ただ一人イエス様だけが慈愛の眼差しを自分に注いでくれた。温かい手で私の手を引いてくれた。私の支離滅裂な、感情の爆発のような言葉にじっと耳を傾けてくれた。そして、その唇をもって慰め、励まし、祈ってくれた。その御足をもって、悩める日に、悲しみの日に訪ねてくださった。マリアにとって、イエス様のお体こそ神様の愛の現れであったのです。
教会は「キリストのからだ」であるということは私たちがマグダラのマリアのようなキリスト体験をさせられる場、それが教会であるということなのです。しかし、その教会というのは建物ではなく、場所でもなく、信者の交わりなのです。『コリントの信徒への手紙1』14章23-25節には、このように言われています。
教会全体が一緒に集まり、皆が異言を語っているところへ、教会に来て間もない人か信者でない人が入って来たら、あなたがたのことを気が変だとは言わないでしょうか。反対に、皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、「まことに、神はあなたがたの内におられます」と皆の前で言い表すことになるでしょう。
また、『コリントの信徒への手紙1』12章27節には、こう記されています。
あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。
つまり、私たち一人一人が、キリストのからだの肢となり、肢としての命に生き、その交わりに生きるとき、そこにキリストのからだが現れるのです。そして、そこに入ってきたものが、キリストの愛に出会い、キリストの真実に出会い、「ああ、ここに神がおられる。キリストがおられる」ということを知ることになるのだというのであります。
そのような教会を世に生み出そうとされている。それが、神様の新しい御業なのです。
イエス様はその準備の期間として、四十日の間、弟子たちに神の国について教えられたとあります。神の国とは、神の支配、また保護、そして栄光のことであります。イエス様が世にいらした時、そして宣教活動を始められた時、「神の国は近づいた」と宣べ伝え始められたと、聖書は記しています。また、他の聖書をみますと、万物はイエス・キリストのものであり、イエス・キリストによって支えられているとも記されています。つまり、神の国とは、イエス様の御国なのです。イエス様が来られたことによって、神の御国が世に入り込んでくるのです。そして、イエス様が天にお帰りになり、栄光の座におつきになり、キリストのからだなる教会が世に広まることによって、キリストの支配が世界に及ぶようになってくるのであります。イエス様はそのような神の国のご計画について、弟子たちに解き明かされたのでありましょう。
しかし、弟子たちはすぐにはそれを悟ることができなかったと記されています。
さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。」(1:6)
弟子たちは、神の国の実現の話しを聴いたとき、どうしてもそれをイスラエルの復興ということと結びつけて聞いてしまったようであります。しかし、今も申しましたように、神様のご計画は、イスラエルを神の国にすることではなく、世界を神の国にすること、つまりイエス様の愛のご支配が世界に普く及びようになることであったのであります。
それと共に、イエス様は弟子たちに聖霊の約束をしてくださいました。
「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」(1:4-5)
「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(1:8)
聖霊というのは、父なる神、子なる神、聖霊なる神という言い方がありますように、単に神の霊、つまり神様に属する霊ということではなく、一つの神格をもった霊なる御方なのであります。しかし、そういう教理的なお話しはともかくとしまして、上より聖霊が注がれ力を受けるということは、世にはなき天の力に満たされるということだということであります。その聖霊様の力によって、あなたがは「主の復活の証人」となると言われているのであります。
最初に、福音書のペトロは主の栄光の目撃者であったけれども、『使徒言行録』のペトロは主の栄光の証人であるというお話しをしました。そして、証人であるということは、それを証明する力をもっていることであるとも申しました。その力が、聖霊のバプテスマによって与えられると約束されているのであります。
その場合の「力」というのは、キリストの力であります。もちろん奇跡を行うとか、病気を癒すとか、そのような誰もが目を見張るような業が、使徒たちによって行われたということも聖書に記されています。しかし、それだけが力ではありません。キリストのように人を愛する力、ゆるす力、すべての人を受け入れる力、苦難の先に望みを持ち続ける力、悪に打ち勝ち、誘惑を退ける力、何が神に従うことであるかを悟る力、そのようなキリストのすべての良き力を、キリストの栄光のために用いることができるということであります。それによって、生けるキリストを世に証しする者にされるのです。そのような聖霊を受け、主の復活の証人となることによって、キリストのからだなる教会が誕生するのです。
今日は、「教会誕生への胎動」という説教題をつけました。教会が誕生するということは、単にキリスト信者の組織が生まれるということではありません。ペトロをはじめとする主の弟子たちが、聖霊を受け、主の復活の証人とされることによって、「キリストがここにいます」ということを世に表す「キリストのからだ」が誕生するのです。そして、そのようなキリストのからだなる教会が、世界に広がっていくことによって、神の国の支配が訪れるのです。
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そのような新しい神の御業の準備の期間である四十日が過ぎ、イエス様はオリーブ山で、弟子たちのみている前ところで、天に挙げられていきました。私はかつて、なぜイエス様が天にお帰りになってしまったのだろうかと、残念に思っていました。もし、復活の体をもったイエス様が、この地上で2000年間生き続けておられたならば、だれもがイエス様を信じたのではないかと、そんな風に思ったのです。
しかし、実はそれだと不都合なことがあるのです。もしイエス様がそのような形で今もこの地上に生きておられるならば、イエス様がおられるというのは、極めて限定されてしまうことになります。イスラエルにいるならば、皆がイスラエルに行かなければイエス様にお会いできないことになってしまう。アメリカにいるならば、皆がアメリカに行かなくてはならない。そして、荒川教会でこうして礼拝しても、今日はイエス様はどこどこにおられるので、ここにはおられませんと言わなくてはならなくなってしまうのです。しかし、太陽は一つしかなくても、世界中を照らすことができますように、イエス様も天に高く挙げられることによって、世界中の人々を御自分の光で照らすことがおできになるようになられたのです。
イエス様が昇天なさった後、弟子たちはオリーブ山からエルサレムに戻り、聖霊が下るという主の約束を待ち望んで、祈りの生活を始めました。母マリアや主の兄弟達も一緒で、百二十人ばかりが一つになって、そのように熱心な祈りをささげていたと記されています。
その時、ペトロが、皆に一つの提案をいたします。それはユダの自殺によって空席になってしまった十二使徒のひとつの座を、誰か他によって埋めなければならないということであります。21-22節
そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。
「主の復活の証人」という言葉が、ここにも出てきます。ペトロは、自分たちが何のために召されているのかを、よく自覚していました。そして、「その務めは、ほかの人が引き受けるがよい」という主の御言葉に従って、ユダの自殺による欠員を埋めようというのであります。その結果、選ばれたのがマティアという人であったと言われています。
ペトロが「十二」という数に拘ったのは、イスラエル十二部族を意識していたからだと思われます。教会はキリストのからだであると申しました。それと共に教会は神の民なのです。私たちもまた神の民、そしてキリストのからだ、主の復活の証人として、神様に召され、この荒川教会につなげれられているのだということを、主に感謝したいと思います。
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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