ペトロ物語(21)
「ゆるされたペトロ」
Jesus, Lover Of My Soul
旧約聖書 エゼキエル書18章21ー32節
新約聖書 ヨハネによる福音書21章15-25節
復活の主との出会い
 エルサレムで愛する主の死に直面したペトロは、イエス様に従う以前の生活、つまりガリラヤ湖の漁師に戻ろうとしていました。ペトロが「わたしは漁に行く」というと、それに同調して、トマス、ナタナエル、ゼベダイの子ヤコブとヨハネ、その他に二人の弟子が、一緒にガリラヤ湖に舟に乗り出し、漁に出たと、聖書は記しています。

 しかし、その結果は惨めなものでした。昔取った杵柄よろしく張り切って漁に出たものの、夜通し働いても一匹の魚も捕れなかったというのであります。「あなたがたは、私を離れては何もできないのである」というイエス様のお言葉を、弟子たちが思い起こしたかどうか分かりませんが、イエス様と共にいるときには味わったことのない空しさを味わいつつ、イエス様を懐かしんだのではないでしょうか。

 その時、岸から呼びかける声があります。

 「何か食べ物がありますか」

 弟子たちは力なく答えます。

 「ありません」

 すると岸辺の人は、彼らにこんなことを言いました。

 「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」

 半信半疑ながらも、弟子たちが言われたとおりにすると、何と網にはたくさんの魚がかかり、重くて引き上げられないほどになったのでした。びっくりして、ヨハネは岸辺の人を見つめます。そして、ハッと気がつき、こう叫ぶのです。

 「あの方は主だ」

 ペトロは、「主だ」と聞くと、居ても立ってもいられなくなり、上着をまとって海に飛び込み、岸まで泳ぎはじめました。他の弟子たちも舟でたくさんの魚で重くなった網を曳きながら、岸に急ぎます。
弟子たちが岸にたどりつくと、復活されたイエス様が彼らを迎えてくれました。イエス様の傍らには炭火が起こしてあり、その上にパンと魚があります。
「さあ、朝の食事をしなさい」

 イエス様は、弟子であることを捨て、昔の生活に戻ろうとしていたペトロらを、叱りもせず、問い糾しもせず、黙って受け入れ、疲れた体をいたわりつつ、朝の食卓に与らせて下さったのでした。

愛の極み
 今日のお話しは、この食事の後に続くイエス様とペトロのやりとりについてであります。20節を見ますと、「ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた」とあります。このことからしますと、おそらく食事が終わった後、イエス様はペトロだけを誘い出されて、朝焼けの美しいガリラヤ湖の浜辺を静かに歩かれたのでありましょう。そして、歩きながら、イエス様はペトロにこう尋ねるのです。

「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」

 イエス様は、このような問いを、三度も繰り返されたと、聖書は記しています。三度という回数は、ペトロが三度もイエス様を知らないと言ったことに対応しているのでありましょう。「イエス様なんか知らない」と言ってしまうことは、イエス様と自分との関係を否定することです。もちろん、ペトロは本気で関係を否定したのではありません。ただ、イエス様との関係を守るよりも、自分の立場を守ろうとしてしまったのでした。我に帰った後、ペトロは情けなさに涙を流し、自分のしたことを大いに悔やみました。

 そのようなペトロに対して、イエス様は三度、「あなたはわたしを愛するか」と、愛を問われました。それはペトロの胸にぐさりと突き刺さる言葉であったと思います。しかし、同時に、このように新たに愛を問うてくださることによって、ペトロが新たに「主よ、あなたを愛します」と、もう一度、イエス様との愛の関係に結ばれることがゆるされるのであります。

先週、私が霊的に落ち込んだ時、友人に「石にかじりついてでも聖書を読み続けよ」と言われ、創世記からずっと読み続け、ホセア書を読んでいる時に、神様の大いなる愛が胸に迫り、霊的な回復をすることができたということを申しました。皆さんは、ホセアというはどういう預言者だったかご存じでありましょうか。彼は本当に可哀想な預言者でありまして、尻軽女のゴメルを妻に娶り、これを愛し続けるようにと、神様に命じられるのです。ホセアは、繰り返し浮気をし、他の男のところへ逃げてしまうゴメルを、何度も連れ戻し、時にはお金を払ってまで連れ戻して、愛そうと努力します。そして、その経験を通して、神様の愛を裏切り続けるが、どんなに神様のお心を痛めているかということを悟ります。そして、それにもかかわらず、なお私たちを愛し、わが愛に立ち帰れと呼び続けてくださる神様の愛と赦しの大きさを、イスラエルの民に語り続けるのです。

 今日、お読みしました『エゼキエル書』にも、そのような神様の愛とゆるしが語られていました。23節、32節、

 わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。
 その道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。
 わたしはだれの死をも喜ばない。
 お前たちは立ち帰って、生きよ。

 これが神様の御心なのです。神様を悲しませるばかりの罪人であっても、神様が望んでおられるのはその人が立ち帰って生きることであるというのであります。

 子供の頃、私が教会学校で教わった話しですが、罪という言葉を英語では"sin"と書きます。その英語のSinという字を見せられまして、真ん中に"I"(=自分)がいるのが罪ということだよと教わったのです。私は、いつも自分が中心でないと気が済まない友達の顔を思い出しながら、「ああ、そうか。罪というのは我が儘のことなのだ」と合点をいたしました。しかし、ある程度大人になってきますと、我が儘な人だけが自己中心なのではなく、人間というのは、誰かを愛する場合でも、みんなの為に何かをしようとするときも、静かに自分の心を覗いてみると、結局は自分の満足を求めているに過ぎないということが往々にしてあるのです。

 私は、信仰についても、まったく同じ事があるのだということに気がつきました。熱心にイエス様を信じ、愛し、従い、仕えているつもりでありましても、自分の願いや都合に合わないようなことが起こりますと、自分はこんなに一生懸命に信仰をしてきたのに、どうして神様は自分にこんなに辛いのだろうと愚痴がでてしまう。少し失敗をすると、自分はもう信仰する資格がないとか、力がないとか、弱音を吐いてしまう。教会の奉仕をするにしても、自分のやり方とか、自分の考えが通らないと不満に思ってしまう。それは果たして本当の信仰なのでしょうか。結局は、自分の満足を求めて、自分のすることになってしまっているのではないでしょうか。

 ペトロもそうだったと思うのです。ペトロは「イエス様を知らない、関係ない」と言ってしまった。あんなに信仰に篤かったペトロがどうして裏切ってしまったのだろうと思うかも知れませんが、これは決して不思議なことではなく、自分の満足のために生きている者の当然の帰結であったわけです。確かにペトロは多くのものを犠牲にしてイエス様に従ってきました。イエス様のお言葉を信じ、それに従うことにも熱心でした。しかし、結局はそれが自分の利益となり、満足となることだったからなのです。そんな風に言い切ってしまうのは、たいへん気の毒な話しなのですが、これは決してペトロだけのことを言っているのではなく、私たちの信仰もまた、そのような欺瞞に陥ってしまう危険があるという話しなのです。

 しかし、ペトロは変わります。変わることがゆるされるのです。『エゼキエル書』18章31節には

 お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、
 新しい心と新しい霊を作り出せ。


と記されています。神様は、「新しく生まれ変わりなさい」と言っておられるのです。『ヨハネによる福音書』3章では、イエス様が、ニコデモに同じことを言っておられます。その時、ニコデモは非常に驚いて、「一度生まれ落ちたものが、もう一度母の胎に戻って生まれ直すなんてことができるでしょうか」と問い返します。私たちも、ニコデモように、自分が新しい人間に生まれ変わるなんてことは不可能だと思っていないでしょうか。確かに、自分の力で、自分を新しくするということはまったく不可能だと言ってもいいでしょう。

 けれども、私たちをお造りになった天の父は、私たちをもう一度新たに造り直すことがおできになるのです。そのような愛と御力をもって、私たちを取り扱ってくださることがおできになるのです。だからこそ、天の父は、わたしのもとに立ち帰れと、罪深き私たちに呼びかけておられるわけです。

 「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」

 この問いかけこそ、ペトロに立ち帰ることを求める、天の父の呼びかけであったと、私は思います。御子であるイエス様が、父の愛をもって、ペトロに「新たな愛をもって、私をもう一度愛しなさい、そうすれば、わたしとあなたの関係はもう一度新しくされ、新しく始まる愛の中で、あなたの新しい人生が始まるのだ」とおっしゃってくださっているのです。

 このイエス様の恵み深い御言葉とセットで思い起こした御言葉が一つあります。十字架にかかる前の晩、イエス様は弟子たちと最後の晩餐のひとときを過ごされますが、そのはじめのところで、『ヨハネによる福音書』はこのように語っています。

 イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。(『ヨハネによる福音書』13章1節)

 「この上なく愛し抜かれた」とあります。文語訳聖書では「極みで之を愛し給へり」と訳されております。「極みまで」というのは、その愛の目的が達成されるまで、ということであります。ペトロの愛は挫折しました。しかし、イエス様の愛に、挫折はないのです。たとえ、ペトロがイエス様の愛を裏切り、イエス様と関係を否定しようとも、イエス様のペトロに対する愛は変わりがないのです。否、ますますペトロを取り戻そうと激しく燃えるのです。

 私たちの信仰というのは、このような主の愛に支えられているのではないでしょうか。何度も過ちを繰り返し、罪を重ねながらも、その度にイエス様が「あなたはわたしを愛するか」と問うてくださる。もう一度、イエス様を愛することをゆるしてくださる。そのような変わること愛、極みまで愛し抜いてくださる愛が、私たちの信仰を支えてくださっているのです。
信仰の極み
 ペトロは、そのような主の愛に応えます。

 「はい、主よ。わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」(16節)

 かつて「あなたのためなら命も捨てます」と、激しい愛を告白したペトロに比べると、たいへん慎ましい答え方です。しかし、それがペトロのうちに起こった変化でありました。自分の力で主を愛するのではない。主の愛とゆるしによって、「わたしは主を愛する」ということがゆるされているのだ、というペトロの思いがここに表れているのであります。

 後に、ペトロがアジアの各地にある教会に宛てて書き送った『ペトロの手紙1』の中で、ペトロはこのようなことを書いています。

 あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。(ペトロの手紙1 1章8-9節)

これもまた文語訳を参照してみますと、次のように訳されています。

 汝らイエスを見しことなけれど之を愛し、今見ざれども之を信じて、言ひがたく、かつ光栄ある喜悦をもて喜ぶ。これ信仰の極、すなわち霊魂の救いを受くるに因る。

 「信仰の極み」ということが出来てきます。これは、先ほど申しました主の愛の極みに対応する言葉でありましょう。イエス様の愛がどんなことによって揺らぐことなく、変わることなく、私たちに注がれているように、私たちもまたどんなことがあっても、イエス様への愛を貫き通すということ、それが信仰の極みであります。

 どんなことがあっても、というのは、ペトロが言うにはイエス様が見えなくてもということであります。それは、この地上での御生涯を送られたイエス様と面識がなくても、という意味もありましょう。けれども、それだけではないと思うのです。この世の生活の中で、苦しみ、悲しみ、イエス様の愛が見えなくなる、イエス様の御心が分からなくなる、そういう経験があるのです。しかし、そういう時にも、なおイエス様の愛を信じ、イエス様の愛に忠実たらんとする。これこそイエス様の愛の極みに応える私たちの信仰の極みであると言っているのであります。そして、それが出来るのは、私たちの熱心さではない。情熱ではない。主の愛、主の救いによるのだというのであります。

 ペトロがこのようなことを書いたのは、ネロの迫害によって殉教する直前のことでありました。ネロの迫害というのは、本当に残忍なもので、クリスチャンを磔にして松明にしたり、猛獣と闘わせたと言います。そのような神も仏もあるものかと言いたくなるような時にあっても、ペトロには主の愛を信じて、このようなことを書いたのであります。

 イエス様に、三度も重ねて愛を問われ、ペトロは胸を痛めながらも、「あなたを愛します」と応えました。それに対して、イエス様は「わたしの羊の世話をしなさい」、「わたしに従いなさい」と、ペトロに改めて弟子として仕えることを求められました。そして、さらにこのように言われます。

 はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」

 これは、ペトロの死に方、つまり迫害の末に殉教することを暗示されたのだと、聖書は注釈しておりますが、死に方というのは、生き方をも示すのであります。ペトロは、これから本当に意味で主に捕らえられた生き方、つまり主のために生き、主のために死ぬ、そのような生き方、死に方をこれからするであろうということであります。実際、ペトロは主の愛とゆるしの中で、生まれ変わり、そのような真の弟子としての道を歩み始めるのであります。

 もう一つ、今日のところに興味深いことが書かれています。このようなイエス様とのやりとりの後、ペトロが後ろを振り向くと、「イエスの愛しておられた弟子」つまりヨハネが、ついてくるのが見えたというのであります。そこで、ペトロは、イエス様に「主よ、この人は如何に」と尋ねたのでした。すると、イエス様は「それはあなたに何の関係があるのか。あなたはわたしに従いなさい」と応えられました。

 イエス様にお仕えする時、どうしても他の人のしていることや、していないことが気になってしまう。それは人間の情として仕方がないことかもしれません。けれども、イエス様は、あなたは、あなたに与えられた分を忠実に果たしなさいということをおっしゃるのです。

 別の言い方をしますと、奉仕というのは、ただ主だけを見てなすものだということではないでしょうか。自分の奉仕が、人にどのように評価されるのか、それを理解してくれるのどうか、あるいは他の人も自分と同じようにすべきであるとか、そのようなことが気にならないというのは嘘でありますけれども、しかし気にしないで、ただ主に与えられた自分の務めに対して忠実であることだけを旨としなさいということなのです。他の人には、主ご自身のご計画の中で、その人にふさわしい務めを与えてくださるのであります。
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