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今日はペトロと復活されたイエス様との出会いの物語です。ペトロは一度ならず二度三度と、復活のイエス様にお会いいたしました。最初に、ペトロが復活されたイエス様にお会いすることができた時のことは、実は聖書には分かるか分からないかぐらいのほのかな記事しか残されておりません。よく読まないと、ペトロがイエス様にお会いしたという出来事を読みすごしてしまうかもしれない、その程度に記されているのです。その一つは『ルカによる福音書』24章33-34節にあります。
そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。
エマオに向かう二人の弟子たちが、その道行きで復活されたイエス様にお会いしたという出来事のなかの一節なのでありますが、その二人の弟子たちがこの喜ばしい出来事を一刻も早くエルサレムに帰って、使徒たちに知らせようと戻ってみると、なんと使徒たちもペトロの話を聞いて、「本当にイエス様は復活して、シモン・ペトロに現れてくださった」と語り合っているところであったというのです。どこで、どんな風にペトロが復活されたイエス様にお会いしたのかということは、どこにも書かれていないのでありますが、ペトロが「わたしはイエス様に会った」という話しを聞いて、使徒たちが驚き、喜んでいる様子がここに記されているのであります。
ペトロが他の弟子たちに先立って、復活のイエス様にお会いしたということについては、使徒パウロが『コリントの信徒への手紙一』15章に書いていることからも推測されます。15章3-5節にこういう風に記されているのです。
最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。
「ケファ」と言われているのは、ペトロのことでありまして、パウロは、復活されたイエス様はペトロにお会いした後に、その他の使徒達に現れたと言っています。こういうところから、ペトロが他の使徒たちに先だって復活されたイエス様とお会いしたという出来事が推測されるのです。
はじめて復活されたイエス様にお会いしたペトロは、どんなに大きな喜びに溢れたことでありましょうか。しかし、それと同時に、今まで感じたことがないようなイエス様と自分との距離感というものを感じ取って、その淋しさも味わったのではないかと思います。というのは、復活されたイエス様は、確かにペトロにお会い下さいました。しかし、ほんとうにペトロのところに戻ってきてくださったと言っていいのか、その点が微妙なところなのです。ペトロにお会いくださったイエス様は、すぐにまたペトロの見えないところに隠れてしまったからであります。これは他の弟子たちも同じです。しばらくして、イエス様はペトロだけではなく、他の弟子たちも一緒に集まっているところに現れてくださいました。弟子たちは大いに喜びます。しかし、その喜びもつかの間、イエス様は弟子たちに見えなくなってしまうのです。
ですから、たまたまその場に居合わせなかったトマスなどは、たいへん臍を曲げてしまいまして、「わたしは、イエス様の手に釘跡を見、そこに自分の指を入れてみなければ、決してそんな話しを信じない」と言い張ったと言われています。ところがおよそ一週間後、復活されたイエス様が再び弟子たちの集まっているところに現れます。トマスもそこにいました。イエス様はトマスに、釘跡のついた掌を見せ、「あなたの指をここに入れてごらんなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」とおっしゃったと言われています。トマスはもちろんそんなことはできませんでした。ただただ非常に恐れおののいて、「わが主よ、わが神よ」と言うのが精一杯であったと記されています。こうして、弟子たちは皆、復活のイエス様にお会いすることがゆるされ、イエス様の復活を信じたのであります。
しかし、イエス様は復活なさったとしても、また弟子たちに二度、三度とお会い下さったとしても、弟子たちのところに戻ってきてくださったという確信は持てないのです。イエス様が十字架におかかりになる前、ペトロも、他の弟子たちも、イエス様と寝食を共にし、いつも一緒でありました。しかし、弟子たちは復活されたイエス様を見ることはできても、共にいることができなかったのであります。
どうしてなのでありましょうか。イエス様は復活なさったのだから、また以前のようなイエス様と共なる生活ができてもよさそうなのに、どうしてそれが出来ないのでありましょうか。ペトロも、弟子たちも、きっとそのことを考えただろうと思います。そして、自分たちが十字架におかかりになるイエス様を見捨てて逃げてしまったことを思い起こして、もうイエス様は、私たちのところに戻ってきてくださらないのではないだろうかと、たいへんな不安を感じただろうと思うのです。
しかし、イエス様の御心は別のところにあったのであります。イエス様はやがて生ける御方として天にお帰りにならねばなりません。天にお帰りになれば、当然、以前のように弟子たちと共に暮らすということはできなくなるのです。しかし、それは決して、イエス様が共にいないということでありません。天にお帰りになっても、イエス様の目をいつも弟子たちに注がれており、イエス様の御心はいつも弟子たちのためにささげられており、イエス様の御手は弟子たちの傍らに備えられている。そのことを、弟子たちに知って欲しい。そして、たとえ目に見えなくとも信じて、イエス様と共に歩き続けて欲しい。そのような思いをもって、イエス様は敢えて弟子たちから姿をお隠しになっておられたのだと思うのです。
ただ弟子たちにしてみれば、イエス様はきっと自分たちのことをおゆるしにならないのだという思いばかりが募ったのではありませんでしょうか。その思いを取り除かれるために、イエス様はしばしば弟子たちの前にお姿を表し、その愛をお伝えなさったのだと思うのであります。 |
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さて、今日は『ヨハネによる福音書』21章1-14節に記されている、弟子たちと復活のイエス様との出会いの物語をお読みしました。最後のところに書かれていますように、これは復活されたイエス様が弟子たちにお会いになった三度目の出来事でありました。ただしペトロは、先ほどもお話ししましたように、その前に一度イエス様にお会いしておりますから、四度目でありました。もはや、彼らにとって、イエス様の復活は疑いようもない事実でありました。それにも関わらず、彼らの心はイエス様から離れていこうとしています。
シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。(3節)
ペトロは、イエス様に従う者になる前、漁師でありました。「わたしは漁に行く」というのは、一度捨てた網をもう一度手に取り、自分の腕一本で生きてきた、イエス様に出会う前の生活に戻るということなのであります。
どうして、そんな風になってしまうのかといえば、今申し上げた通りのことでありますが、たとえイエス様が復活なさったとしても、それはあくまでもイエス様における出来事であって、自分自身の復活の出来事になっていかったと言ってもよいかもしれません。パウロは、イエス様はわたしたちの初穂として復活なさったのだと言っています(『コリントの信徒への手紙1』15章20節)。イエス様が復活なさったことによって、私たちの復活の道も開けたのです。
復活というのは、死んだ者がよみがえるということです。ペトロはまだ死んでいないではないか、私たちもまだ死んでいないではないか、と言うかも知れません。そうではないのです。もし、私たちが神様に与えられた本来の姿を生きていないのならば、それは生きていても死んでいるのであります。もし、私たちが神様に与えられた本当の自分の価値を知らないで、自分を貶めるような生き方をしているならば、それは生きていても死んでいるのであります。
ペトロは死んでいました。イエス様に愛され、召され、祈られ、「あなたは岩である。この岩の上にわたしの教会を建てよう」という、まことに光栄な言葉を戴いたペトロは、この時、死んでいたのであります。イエス様の復活は、このような死んだペトロをも生かす復活でありました。しかし、ペトロはまだそのことを悟っていないのです。
1950年代から60年代にかけて、アメリカで繰り広げられた公民権運動の指導者であるマーティン・ルーサー・キング牧師の自叙伝である『自由への大いなる歩み』という書物があります。キング牧師は、徹底した非暴力主義をもって、この運動を戦いました。非暴力というと、なんだか弱腰に見えますが、決してそんなものではありませんでした。反対者派の警官たちがデモの最中に警察犬をけしかけてきたり、警棒で殴りかかってきたり、高圧ホースで水をかけたりする。そういう挑発にのらず、恐れず、非暴力主義を貫き通して戦うということは、揺るぎない信仰と大いなる勇気がなければ成し遂げられることではなかったと思います。
しかし、そのようなキング牧師も決して超人ではありませんでした。キング牧師の指導する非暴力主義の抵抗運動が無視できない影響力をもって広がっていくことを恐れた人たちは、非常に卑劣な手段でキング牧師を攻撃してきました。毎日、自宅にかかってくる脅迫電話、そして、それは単なる脅しとは思えないようなことが起こってきます。じっと耐え続けてきたキング牧師も、とうとう飽和状態に陥り、言いしれぬ恐怖と不安に襲われます。
ぼくは、卑怯者のように見られないで、うまく運動から抜け出す方法をあれこれと考えはじめた。勇気がすっかりくじけ去り、疲労困憊したこうした状態の中で、ぼくは、この問題の解決を神様におかませしようと決心した。両手で頭をかかえこみ、台所のテーブルの上に身を伏せて、ぼくは声高く祈りをささげた。ぼくがこの深夜、神に語った言葉は、いまもありありとぼくの記憶の中にある。
「わたしは、ここでわたしが正しいと信じることのために闘っています。だが、いまわたしは恐れているのです。人々はわたしの指導力を求めています。そしてもし、わたしが力も勇気もなく彼らの前に立つならば、彼らも勇気を失うでしょう。わたしの力はまさに尽きようとしています。いまわたしの中には何ものこっていません。わたしは、ひとでは到底たちむかうことのできぬところまで来てしまいました」
この瞬間、ぼくは神の前にあるということを感じた。こうした経験はいまだかつてなかったことだ。あたかも、「正義のために立て。真理のために立て。しからば神は永遠に汝の傍にいますであろう」という内なる声の静かな約束を聞くことができたように思われた。と同時に、ぼくの恐怖は消え始めた。ぼくの不安は消え、ぼくはなにものであろうとこれに立ち向かう覚悟を決めた。(『自由への大いなる歩み』、岩波新書)
「わたしの力はまさに尽きようとしています。いまわたしの中には何ものこっていません。」と、キング牧師は単に闘う力ではなく、生きる力をさえ失ったような祈りをささげました。よく私たちは絶体絶命の窮地に立たされた時、「もう、祈ることしかできない」という言い方をしますが、まさにそのような状況です。しかし、その時、キング牧師は生ける神のご臨在に触れるのです。生けるキリスト、復活の主との出会いを果したといってもいいかもしれません。
キング牧師は、今まで生ける神を、復活のキリストを信じていなかったわけではありません。心から信じていただろうと思うのです。しかし、それはあくまでも聖書に記録されているイエス様であり、そこからキング牧師が持ちえた知識であり、観念であり、信念でありました。しかし、そのような記録によるのでもなく、知識によるでもなく、観念や信念によるのでもなく、今ここに現に生きておられる御方としてイエス・キリストを、また生ける神を知ったのであります。そして、主の生き生きとしたご臨在が、「正義のために立て。真理のために立て。しからば神は永遠に汝の傍にいますであろう」と、キング牧師の魂に語り変けたのです。その体験が、憔悴しきっていたキング牧師を復活させたのでありました。
それは、単に力づけられたというのとは違います。祝福された新しい命に生まれ変わるという体験なのです。神が生きておられるということ、キリストが生きておられるということ、そのことが即自分の生きる力となる体験なのです。キング牧師は、このような宗教体験をした三日後、教会での集会中に、自宅に爆弾を投げ込まれるという経験をします。自宅には奥さんと赤ちゃんがいました。幸い、皆無事でありましたが、そういう恐ろしい経験の最中にももはや動かされることなく、「神が共にいます」という平安をいただくことができたと言っているのであります。
イエス様の復活に触れることによって、私たちも復活することできるのです。真の命に、希望をもって、勇気をもって、生きることが出来る人間に変えられるのであります。ペトロは、復活されたイエス様に出会いつつも、未だそういう経験をしていなかったのでありました。だから、なお死んだままのです。それが「わたしは漁に行く」という言葉に表されていたのです。その結果は散々なものであったと、聖書は私たちに告げています。
「しかし、その夜は何もとれなかった」
この言葉が、この時のペトロの状態のすべてを物語っているのではありませんでしょうか。キング牧師が、打ちひしがれて神様に告白した言葉、「わたしの力はまさに尽きようとしています。いまわたしの中には何ものこっていません。わたしは、ひとでは到底たちむかうことのできぬところまで来てしまいました」、これとまったく同じような状況にペトロはあったのです。 |
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それに対して、聖書は、イエス様はそのようなペトロの、弟子たちの惨めな姿を、岸辺に立って、ずっと見守っていてくださったのだということを語るのです。
既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。(4節)
それだけではありません。ペトロや弟子たちがそのような空しい漁を続けている間、炭火をおこし、パンと魚を焼いていてくださったということが9節にしるされています。
さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。(9節)
しかし、弟子たちはそのことをまったく知らないでいるのです。「だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった」という言葉は、私たちも心しなくてはなりません。復活のイエス様は、私たちがこの世の空しさの中に埋没し、我を失っているような時にも、なお私たちの側にいてくださり、恵みの食卓を備えていてくださるのです。私たちに救いがないのではありません。恵みがないのではありません。それを認める力がないのです。
そのような時にも、私たちがまず耳を傾けなければならないのは御言葉であります。先週も、ペトロとユダの違いというお話しで、ペトロが自殺をしなかったのは、ペトロが主の言葉を思い起こしたからであるというお話しをしました。ここでもそうなのです。イエス様の存在に気づかずに、空しい漁を続けている弟子たちに、イエス様が声をかけられます。
イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。(5-6節)
これは、ペトロが網を捨て、舟を捨て、父の家を捨て、故郷を捨てて、イエス様に従う者となった時のお話しとそっくりです。その時、イエス様は「あなたを人間とる漁師にしよう」と、ペトロに言われました。イエス様は、ここでもう一度同じ奇跡を行うことによって、ペトロにその思い起こさせると共に、もう一度、ペトロを「人間をすなどる漁師」として召命しようとしておられるということが、よくわかるのです。いずれにしましても、主の御言葉を聞き、その声に従き、その結果として主の御業が行われる。そのことを通して、彼らは目覚めるのです。
霊的に弱くなると、祈ることも、聖書を読むことも大儀になってきます。説教を聞いても、空しく心を通り過ぎていくような気がして、教会に行くことも面倒になってきます。当然、喜びなく、感謝なく、ストレスばかり抱え込むような毎日が続きます。そんな時、「自分でああこれではいけないなあ」と思いつつも、どうすることもできないという事があるのです。
どうすることもできない時、どうしたらいいのか。一つは、「わたしの為に祈ってください」と、信仰ある人に祈ってもらうことです。これは力になります。しかし、それだけでは弱いのです。私も、敬愛する友人に、自分が霊的に非常に弱められていることを相談し、祈ってもらったことがあります。彼は、私のために祈ってくれた後、「国府田、石にかじりついても聖書を読め」と、力強く勧めてくれました。
私は、彼に祈ってもらったことが力となり、それを実行しようとする最低限の霊的な力を得ることができました。しかし、聖書を読んでも、まったく心に響かないのです。おもしろくない。めんどうくさい。相変わらずそのような気持ちが絶えず私の中に起こりました。しかし、彼の勧めを思い起こし、とにかく何かが起こるまで御言葉を読み続けようと実践したのです。ホセア書まで読んだ時、私は突然、御言葉が生ける神の言葉として私の魂に語りかけてきました。私は涙を流して、悔い改めの祈りをささげ、霊的な力を回復し、再び生ける主を確信することができるようになったのです。
イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。
パウロが回心したとき、目から鱗のようなものが落ちたと聖書に記されていますが、まさにそのような経験がここでも起こっているのです。岸に立つ人影を見、その声を聞いても、それがだれか分からなかった弟子たちが、突然、「あれは主だ」と目が開けたのです。ペトロは俄然力を得て、魚を舟に引き揚げる作業を放り出し、海に飛び込んで、岸へ泳いでいったと言います。しかも、裸であったので服を着て飛び込んだというのです。泳ぐためには服は邪魔なのですが、主の前に出るのには裸ではまずいと思ったのでありましょう。今まで見てきたようなペトロらしさが、ここに再び現れてきて、なんだかほっとする場面です。
そして、先ほどもお話ししましたが、岸にあがってみると、イエス様は炭火をおこして、パンと魚をやいて弟子たちを待っていてくださった。そして、弟子たちがみなそろうと、「お前達はこんなところで何をやっているのか」としかりとばすのではなく、「さあ、朝の食事をしない」と労りの言葉をかけてくださったというのです。
「さあ、朝の食事をしなさい」 わたしはこの言葉がとても好きなのです。この言葉、この物語から、私は、主がまず私たちの飢えを、渇きを満たしてくださる御方であるということに感謝の気持ちでいっぱいになります。そして、そのような恵みに満たされたところから、新しい一日を、新しい命を、生きなさいと言ってくださっているように思えるのです。
今日は、この礼拝にも、聖餐の恵みが備えられています。「さあ、朝の食事をしなさい」と語りかけてくださっているイエス様の声を聞きながら、この聖餐にも与りたいと願います。
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(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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