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今日は、ペトロとユダの違いについて、ご一緒に考えてみたいと思います。ユダは、イエス様をユダヤ当局に引き渡す手引きをして、イエス様を裏切りました。ペトロは、「あなたもイエスの仲間であろう」と問われたとき、「あんな人は知らない」と、イエス様との関係を完全に否定することによって、イエス様を裏切りました。ユダにしろ、ペトロにしろ、イエス様の弟子にあるまじき行いをもって、イエス様の愛を裏切り、大きな罪を犯したのでありました。
しかし、その後の二人の歩みはまったく対照的でありました。ペトロも、ユダも、イエス様を裏切ったことを深く後悔したのは同じなのですが、ペトロはその悲しみをもってイエス様に立ち帰り、以前にもまして主に忠実なる僕として変貌を遂げ、後の教会の指導者として成長していくのですが、ユダはその悲しみがついに慰められることなく、その果てに自らの命を絶ち、自らすべてを終わらせてしまったのでありました。
いったい二人の違いは、どこにあったのでしょうか。誰でも思いつくのは、ユダとペトロが犯したそれぞれの罪の大きさの違いということです。ユダは裏切りの意志をもって、祭司長らと取引をし、積極的に裏切りを働きました。他方、ペトロは裏切らないという強い意志を持っていたにもかかわらず、自らの弱さのゆえに裏切り行為を働いてしまいました。そういう意味では、二人の犯した罪の大きさや質に違いがあるのは確かでありましょう。しかし、私は、だからペトロは救われて、ユダは滅んだのだという考えには同意することができません。救われるのか、滅びるのか、この二つの違いの問題はそこにあるのではないのです。
罪というのは、はじめはどんな罪も小さいのです。いきなり大泥棒になったり、殺人鬼になる人はいません。最初は友達のものをこっそり取ってしまうとか、親の財布から小金をくすねてしまうとか、キセル乗車をするとか、そういうところから始まるのです。しかし、小さい罪は小さい罪のままで終わりません。だんだんエスカレートしてくる。それが罪の力です。最近、北海道の食肉加工会社の偽装事件が問題になっておりますけれども、あの社長だって、はじめの頃は勉強熱心で真面目に商売する人であったと、ある人が話をしておりました。詳しくは分かりませんが、最初は小さな誘惑に負け、小さな罪を犯し、それがだんだんと大規模な、悪質な偽装事件となっていったのでありましょう。そう考えますと、罪というのは小さくても、大きくても、本質的には同じなのです。同じ根っこから出てくる同じ罪なのです。
聖書によれば、ユダが罪を犯したのも、ペトロが罪を犯したのもの、どちらもサタンの働きがそこにあったからだと記しています。ユダの中にサタンが入ったとか、サタンがペトロをふるいにかけたということが言われているのです。サタンとは何者なのかというのは、今ここで丁寧な説明をする時間はありませんが、人間というのは神様ではなく、サタンに従おうとする傾向があるのです。逆に言うと、サタンは神様にかわって人間を支配しようとしているわけです。神様を信じるよりも、イエス様に従うよりも、私を信じた方がずっといいよと、サタンは誘惑するのです。たとえば、イエス様に従っていても世の貧しい人は救われないよ、私はもっと良い方法をしっているよと、サタンはユダの魂にささやいたのかもしれません。あるいは、イエス様の弟子であるなんて告白したら、何よりも大切なあなたの命を失うことになると、サタンはペトロの魂を脅かしたのかもしれません。それはサタン一流の嘘なのですが、いずれにせよ、ユダもペトロも、神様の生ける御言葉であるイエス様ではなく、サタンの嘘っぱちを信じてしまった。そして、サタンの手に落ちて、神様から離れてしまった。そこに罪の根があったのです。
ペトロとユダの違いは確かにあります。しかし、それは罪の違いにあるのではなく、罪に対する悔い改めの違いにあったのです。罪というのは皆、根っこは同じであって、神様から離れていくことなのです。ペトロもユダも、それは同じなのです。問題は、神様から離れてしまったことに気がついた時に、ペトロはどうしたか、ユダはどうしたか、そこにあるのです。 |
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まず、ユダを見てみますと、『マタイによる福音書』27章3-5節には、このように記されています。
イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。
ユダもまた、ペトロと同じように、イエス様を裏切ってしまった自分の行為を深く後悔したことが書かれています。後悔とは、自分の罪を、過ちを、深く悲しんだということでありましょう。私も、いろいろと後悔することがあります。誰でも、後悔することはたくさんあるのではないでしょうか。しかし、「覆水盆に返らず」とか、「後悔先に立たず」というようなことが昔から言われていますように、一度犯してしまった罪というのは、後悔するだけではどうすることもできないのであります。
とはいえ、後悔する人間は、ただ悲しんでいるだけではありません。悲しむ人間は慰めを求めます。後悔する人間も、なんとか自分の犯してしまった罪や過ちの悲しみから救われようとして、何らかの行動を起こすものなのです。先ほど申しました偽装事件の社長が一生懸命に自分のしたことを隠そうとしたり、責任転換しようとすることも、自分の犯した過ちから救われたいと思うからでありましょう。逆に、自分の罪を率直に認めて謝罪するとか、何かの形でそれを償おうとするということも、罪の悲しみから救われて慰められようとするということにおいては、まったく同じなのです。
ユダもまた、銀貨三十枚を返して、自分の過ちを取り戻そうとしました。もともとユダは「イエスをあなたがたに引き渡したら幾らもらえますか」と、銀貨を目当てにイエス様を裏切ったフシがあります。ですから、銀貨を返しさえすれば、悔やむ心が和らぎ、罪の悲しみも少しは慰められであろうと思ったのだと思います。しかし、祭司長たちはユダの銀貨を受け取ってくれませんでした。ユダの悲しみは慰められなかったのであります。仕方なく、ユダは銀貨を神殿の中に投げ込みます。どうしても、銀貨を、つまり銀貨に象徴されている自分の過ちを、手放したかったことのあらわれだと思います。しかし、銀貨を手放しても、ユダの心は慰められませんでした。その結果が、首つりだったのです。
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それに対して、ペトロはどうであったでしょうか。『マタイによる福音書』26章74-75節を読んでみます。
そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。
愛するイエス様を裏切ってしまって、その後悔で男泣きに泣いたペトロの姿はたいへん印象的でありますが、ここでのポイントは「イエスの言葉を思い出した」というところにあります。
先週お話ししましたが、ペトロは、イエス様が「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とおっしゃったとき、そのようなことをおっしゃるイエス様の気持ちが分かりませんでした。分かろうとすらしませんでした。「そんなことはありません。私は決してそんなことはいいません」と、言葉を荒げて誓ったのであります。けれども、まさしくイエス様がおっしゃったとおりの自分であったということに気がついたとき、ペトロはイエス様のお言葉を思い起こし、そのような言葉を敢えて自分にお話し下さったイエス様の気持ちを思い、感じ取るのです。
ペトロがどんな風にイエス様のお気持ちを感じ取ったのか。そこまでは聖書に書かれていません。しかし、想像するのは難しくないように思います。「ああ、イエス様は自分がこんな人間であることをすっかりご存じでおられたのだ。しかし、そんな自分を責めることなく、『わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った』とおっしゃってくださった。『立ち直ったら、兄弟たちを励ましてやりなさい』ともおっしゃってくださった。こんな私であることを知っていながら、なお私を御自分の弟子として愛し、信じてくださったのだ。なんと有り難いことであろう」 ペトロが思い起こしたのは、主の愛ではなかったでしょうか。
ユダと同じように、ペトロも悔やんでも悔やみきれない悲しみを感じ、涙を流しました。また、ユダと同じように、もう自分は駄目だと思い、悲しみのあまり死にたいと思ったかもしれません。しかし、ペトロは自殺をしませんでした。自分が死ななければならないとしても、それは主がお決めになることである、主の御手によってなされるべきことであると、そう思ったのではないでしょうか。それは、ペトロが、主の愛を思い起こしたからなのです。「イエス様、わたしはあなたの愛を裏切りました。どうぞ、あなたの御手で私を裁いてください。」これが、ペトロの気持ちだったと思います。 |
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『コリントの信徒への手紙』7章10節に、このような御言葉があります。
神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。
死をもたらす悲しみと、救いをもたらす悲しみがあると、聖書は語っているのです。
ユダの悲しみは、死をもたらす悲しみでありました。それは、ユダの悲しみが、常に自分に対する後悔であったからです。最後の晩餐において、イエス様は、ユダの裏切りを知りつつ、他の弟子たちと同じように扱われました。ユダの足を洗い、ユダを聖餐に与らせました。主の愛はペトロに対しても、ユダに対しても、少しも変わることがなかったのです。それにも関わらず、ユダの悲しみは常に自分への悲しみであり、自分に対する後悔であり、ペトロのように主の愛を思っての悲しみではなかったのです。
今から444年前、1563年にドイツのハイデルベルクで生まれた『ハイデルベルク信仰問答』という書物があります。プロテスタント教会の教理を問答形式でまとめた宗教改革の総決算ともいうべき書物です。今でも、多くの教会で読まれ、学ばれています。その最初の問いと答えに、このように記されています。
問1 生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは、何ですか。
答 わたしが、身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであるということであります。主は、その貴き御血潮をもって、わたしの一切の罪のために、完全に支払ってくださり、わたしを、悪魔のすべての力から、救い出し、また今も守ってくださいますので、天にいますわたしの御父のみこころによらないでは、わたしの頭からは、一本の髪も落ちることはできないし、実に、すべてのことが、当然、わたしの祝福に役立つようになっているのであります。したがって、主は、その聖霊によってもまた、わたしに、永遠の生命を保証し、わたしが、心から喜んで、この後は、主のために生きることのできるように、してくださるのであります。
私たちの慰めは、イエス様にあり、イエス様から訪れるのです。自分が何をしたか、何ができるのかではなく、あるいは自分の思いがどこにあるかではなく、主が何をしてくださったのか、何をしてくださるのかということの中に、主の思いがどこにあるのかということに中に、わたしたちは慰めを見出すことができるのです。もし、ユダがそのことに気づいていれば、自分が慰められるためには、銀貨を突き返すことではなく、主の愛を取り戻さねばならないことに気づいたでありましょう。そして、裁かれるとしても、自分で自分を裁くようなことではなく、主の愛の中で裁かれることを願ったに違いないのです。
「世の悲しみ」に対して「御心に適った悲しみがある」と、聖書は語っています。御心に添った悲しみ、御心を深く受け止める悲しみと言ってもいいかもしれません。ペトロは、主の御言葉を思い起こし、主の愛を悟り、主のお気持ちを思うがゆえに泣き崩れて悲しみました。これこそが御心に適った悲しみであると、私は思います。そして、このような悲しみは、単なる後悔で終わらず、悔い改めを生じさせるのだと、聖書は語っているのです。
悔い改めとは、向きを変えることであります。単に自分の行いを反省したり、襟を正した生活を心掛けるということではありません。それだけでは、私たちに希望はなく、救いもありません。表面的なところを幾ら直しても、私たちの根っこにある問題、つまり神様よりもこの世とか自分というものを常に慕ってしまう傾向そのものが変わらないからです。向きを変えるとは、根っこの部分で、この世とか、自分に向いていたものを、唯一の慰めであるイエス様の方へと方向転換することなのです。
たとえば、ペトロは最初、「あなたはつまずくであろう」と言われた主の言葉に耳を貸そうとしませんでした。「いいえ、私は大丈夫です。死ぬことがあろうとも、わたしはあなたを離れたりしません」と言い張りました。一見信仰的のようでありますが、実はペトロはイエス様ではなく、自分の心を信じ、自分の力を頼みとしているのであります。しかし、そのような自分の意志や力が跡形もなく崩れてしまったとき、ペトロは主のお言葉を通して主の愛を思い起こし、主の愛に立ち帰りたいと願うのです。そして、たとえ裁かれるとしても自分で自分を裁くのではなく、主の愛に自分の裁きを委ねたいと願うのです。自分の考えや力に向いていたペトロが、自分を主の考えや力に委ねようとする。これが悔い改めであります。そして、このような悔い改めは、「取り消されることのない救いへと通じている」のだと書いてあったのでありました。なぜなら、慰めは、救い主イエス様のもとにあり、そこから悔いし砕かれた魂に向かって注がれるものだから、訪れるからです。
尤も悔い改めというのは、それをしたらすぐに生活が変わったり、罪のゆえに生じた問題が消えてなくなるというわけではありません。しかし、根っこのところで変わっているのですから、その結果は必ず現れてきます。ペトロの場合も、主の愛を思い起こした途端に、慰めや救いが訪れたわけではありませんでした。ペトロが立ち直るには、もう一度、リアルな主の愛に包まれるという体験が必要でありました。それが復活の主との出会いによって起こるのです。
このように申しますと、そうではなく、十字架の主との出会いこそが大切なのではないかとおっしゃる方もあるかもしれません。確かにその通りです。十字架の主との出会いこそ、生涯、ペトロの心から離れぬ讃美の源、感謝の源であったでありましょう。しかし、ペトロは十字架の主に出会う前に、復活の主に出会うのです。出来事の順番としては十字架があり、その次に復活があります。しかし、ペトロが主にお会いした順番は違います。復活の主に出会ってから、私たちの罪のために十字架にかかってくださった主の愛を知るのです。それが、聖書に記されていることなのです。
ペトロは、大祭司の中庭から飛び出て泣き崩れた後、どうしたのでありましょうか。不思議なことに、聖書はそのことについて何も語りません。イエス様が十字架におかかりになっているとき、ペトロや他の弟子たちがどこで何をしていたのかということについて何も語られていないのです。ペトロや他の弟子たちがどこからでそれを見ていたのかどうかも分かりません。ただヨハネのみが母マリアのそばにいたと記されているだけなのです。
他方、婦人の弟子たちは泣きながら、ゴルゴダの道を歩むイエス様の後を追い、また十字架におかかりになっている様を最後までの見守り、十字架からおろされたご遺体を抱きかかえ、引き取って、墓に葬ったということが記されています。逆にいうと、ペトロをはじめとする男どもは、ヨハネを除いて、ほかには誰もそこにはいなかったのではないかと思います。では、彼らはどこにいたのでしょうか。イエス様が逮捕された後、ちりぢりに逃げ出してしまった弟子たちでありますが、かろうじてエルサレムの踏みとどまり、隠れ家のようなところに集まり、扉に鍵をかけ、じっと身を隠して潜んでいたのだろうと思われるのです。
ですから、おそらくペトロは十字架の主を見ていないのです。聖書の中で、ペトロが次に登場するのは、イエス様が十字架で死なれてから三日目の朝、墓参りに行った婦人たちが、墓からイエス様のご遺体がなくなっているという報告をもたらし、慌てて墓に駆けつけ、空っぽであることを確認したというお話しなのです。
そして、その日、ペトロは復活の主に出会います。この復活の主との出会いによって、ペトロは再び主の愛に立ち帰り、主の愛に触れることによって、立ち直るのです。ペトロが十字架の主の愛に触れるのは、その後、ペトロが聖霊を受けた時であります。復活の主と出会い、聖霊を受け、十字架の主の愛を知る、このような順序でペトロは主の恵みから恵みへと体験を深めていくのです。
実は、私たちもこのような順番で、主との出会いを果たしていくのです。イエス様が私たちの祈りを聞いてくださる、日々の生活を導いてくださる、そのような主の恵みを体験することによって、私たちは今も生きておられる主、復活の主との出会いを体験します。そして、主と共に生きる喜びを経験します。しかし、さらに深い主の愛、主の救いを知るには、イエス様の十字架が私たちの罪のためであること、イエス様の十字架によって私たちの罪が贖われたことを知らなければなりません。そして、このことを知るためには、聖霊の注ぎを受け、聖霊の導きによって、私たちの魂が二千年前の主の十字架の前に立たされなければならないのです。
しかし、皆さんがまだそのことを経験なさっていないとしても、心配するには及びません。すべての始まりは、御心に添うた悲しみから始まるのです。この世とか、自分に向いていた心を、神様の方へ、イエス様の方へ方向転換するならば、必ずそのように道に導かれ、イエス様の大いなる愛、大いなる救いを知る者とされるでありましょう。
次回は、御心に添うた悲しみを経験したペトロが、復活の主の慰めを受けるというお話しをしたいと思います。 |
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(c)共同訳聖書実行委員会
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Translation
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