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先週は、私たちが「最後の晩餐」と呼んでいる、イエス様が十字架におかかりになられる前夜に弟子たちとなさった会食のお話しをしました。それはちょうど過越の祭りの特別な食事であったこと、イエス様がパンとぶどう酒を弟子たちに渡されて、「これはわたしの体である」、「これは私の血である」と云われたこと、それから手ぬぐいを腰に巻かれ、たらいに水をお汲みになると、弟子たちひとりひとりの足を丁寧に洗って、腰の手ぬぐいでぬぐってくださったこと、そのようなお話しをいたしました。イエス様は明らかにご自分の最期の時が来たことを悟っておられ、弟子たちとの最後の交わりとなるこの食事の時に、今与えうるすべての愛を、そして教えを、注ぎ込もうとされているのであります。ですから、イエス様の言葉、行いの一つ一つが、弟子たちにとって忘れ得ぬものとなったでありましょう。
しかし、悲しいかな、弟子たちはイエス様の言動を印象深く受け止めながら、その真意については悟り得ず、受け止めることもできなかったのでありました。そのもっとも大きな原因は、弟子たちがイエス様の最後の時がすぐそこに迫ってきているということを、なかなか悟り得なかったからであります。よもやこの食事が最後の晩餐となるなどということは夢想だにしていないのです。ですから、今日お話しすることもそうなのですが、イエス様が本当に大切なことを教えておられるのに、弟子たちにはそのことがまったく通じず、トンチンカンな受け答えをしてしまう。イエス様と弟子たちの心がバラバラであることだけが明らかにされてしまう。おそらく、弟子たちは後の日になって、この最後の晩餐の時のことを思い出しながら、ああ、どうしてあの時、イエス様のおっしゃっていることをちゃんと理解できなかったのだろうか、あんなに大切なことを教えてくださっていたのに、自分たちはなんと愚かであったのだろうかと、たいへん後悔したに違いないと思うのです。
ただ一つの救いは、イエス様はそういうこともすべてお見通しの上であったということであります。たとえば、先週の話しですが、「わたしの足など決して洗わないでください」と言ったペトロに対して、イエス様は、「わたしのしていることは、今あなたにわかるまいが、後になって分かるようになる」とおっしゃいました。また、今日お話しすることでありますが、イエス様はやはりペトロに対して「わたしの行くところに、あなたは今ついてくることはできないが、後でついて来ることになる」と言われています。そのように、イエス様は弟子たちが今理解できないことを、今ついてくることができないことを、了解してくださっているのです。その上で、必ず弟子たちがこのことを分かる日が来るということを信じてお話し下さっているのだということなのであります。
思いますに、イエス様という御方はいつも私たちの一歩先を歩んでおられます。ですから、私たちも聖書を読んでいて、なかなか理解できないこと、信じられないということがあるのです。しかし、そういう時にも、そういう時にも、私たちは分からないなりにイエス様の耳を傾け、信じて歩むことが必要なのではないでしょうか。そうすると、やがて、ああ、イエス様のおっしゃっていたことは本当であったと分かる日が必ず来るのです。それが私たちの信仰の歩みであろうと思います。
さて、今日は、イエス様が弟子たちの足を洗い終えてからのお話しであります。イエス様が再び席におつきになると、過越の食事が再開されました。先週もお話ししましたが、過越の食事は第一部の儀式的な食事と第二部の本格的な食事に分かれています。第一部と第二部の間に、手を洗う清めの儀式があるのですが、おそらくその時にイエス様は弟子たちの足をお洗いになったのでありましょう。それが終わって、第二部の本格的な食事に入ったのであります。
食事が進む中、イエス様はまた弟子たちをびっくりさせるような爆弾発言をなさいます。
「あなたがたのうちの一人が、私を裏切ろうとしている。」(『ヨハネによる福音書』13章21節)
これからお話しすることは、『ヨハネによる福音書』13章に基づくことでありますが、びっくりした弟子たちは、食物を口に運ぶのをやめ、イエス様のお顔をじっと見つめます。沈痛な面持ちをしておられるイエス様を見て、これは冗談ではなく真剣なお話しだぞと察した弟子たちは動揺し、当惑し、「誰が裏切るのか?」と探るように顔を見合わせたことでありましょう。そして、だれからともなく「主よ、まさかわたしのことではないでしょう」と尋ねはじめたのです。
「まさか、わたしでは・・」というのは、誰の心にも一抹の不安があったということであります。すでに裏切りを決めていたユダをのぞけば、誰もが一生懸命にイエス様の御心に従おうとしていました。しかし、一分の隙もないほど完璧な心でイエス様に従っていたのかというと、そうとも言い切れないということでありましょう。まして、何でもお見通しのイエス様の前ではそうなのです。かといって、自分が裏切るなどということは想像もしたくありませんし、認めたくもありません。イエス様の口から「あなたではない」と云って欲しい、そのような哀願にも似た問いかけが、「主よ、まさかわたしでは」という問い掛けであったのでありましょう。
しかし、ペトロはそうは尋ねませんでした。裏切りものが自分であろうはずがないという自信に満ちあふれていました。むしろ、裏切り者がいるということを聞いて、「そんなやつはこの俺様が許しはしないぞ」という気持ちになるのです。そこで、ペトロは、イエス様のすぐ隣にいたヨハネに、「誰のことを言っているのか、聞いてくれ」という合図を送ります。レオナルド・ダヴィンチの『最後の晩餐』という絵は、ちょうどこの場面を描いたものです。イエス様の爆弾発言に色めき立った弟子たちの様子が生々しく描かれている傑作ですが、この絵を見ますと、ペトロは手に鋭いナイフを持って描かれています。食事中ですから別におかしなことではないのですが、ダビンチは、ペトロの激しい内面を、ナイフを持たせることによって描いたのでありましょう。
自信があるということはうらやましいことでありますけれど、それが正しい自信であるかどうかは別の問題です。間違った自信をもっている人は、間違った道であっても、疑いを持たず、反省もせず、人の忠告にも耳を傾けず、引き返すことができないところまで突き進んでいってしまうという危険があるのです。たとえば自分の健康に自信のある人は、不養生をしてしまい、結局、命を縮めるということがあります。逆に、病気がちであるがゆえに、いつも健康に留意して長生きできるということがあるのです。ですから、自信過剰は禁物であるということは世の中でもよく言われるのです。特に、信仰の世界においては、自信などは持たない方がいいのです。自信とは自分を信じることですから、自分が崩れてしまったら自信も一緒に崩れてなくなってしまうのです。
実は、ペトロはこの夜、そういう経験させられることになります。自信に満ちたペトロは自分を呪いたくなるほど徹底的に打ち砕かれてしまうのです。そういう痛い経験を通して、ペトロは信仰をもって生きるとは、そういう危うい生き方ではないということを学ばせられるのです。信仰というのは自分を信じることではなく、イエス様を信じることです。ですから、自分自身が崩れてしまっても、イエス様がいらっしゃるかぎり信仰は崩れません。それが信仰なのです。自信によって不安を取り除くのではなく、信仰によって不安を取り除く。これが信仰によって生きるということです。
さて、ヨハネは、ペトロの合図を受けて、「それは誰のことですか」とイエス様に尋ねました。すると意外にも、イエス様は「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と、明確にお答え下さいました。そして、パン切れを浸して、それをイスカリオテのユダにお渡しになると、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と言われたのです。パン切れを受け取ったユダは、すぐに部屋を出て行きました。
ユダは、イエス様の言葉をどう受け止めたのでしょうか。すべて見抜かれているという恐れを抱かなかったのでしょうか。イエス様がみんなの前で、ユダの裏切り行為を暗示するようなことをおっしゃったのも、パンを浸して与えるという親しい者に対する愛情の行為をもってユダに語りかけたのも、すべてはイエス様の愛を悟り、悔い改めて欲しいというメッセージだったと思うのです。しかし、ユダにその主の愛は通じませんでした。ユダは何の迷いもなく、計画通りにイエス様への裏切りを働いてしまうのです。
イエス様の言葉はユダに届きませんでした。しかし、実は、それは他の弟子たちも同じ事だったのです。少なくともヨハネやペトロは、イエス様の言葉によって裏切り者がユダであるということを悟ってもよかったはずです。しかし、彼らも含めて、弟子たちの誰もが、イエス様の言葉にもかかわらず、ユダが裏切り者であるということを悟り得なかったようなのです。ユダがイエス様に何かを言われて出て行ったのを見ても、「何か買い物を頼まれたのだろう」ぐらいにしか思わなかったというのです。これも妙といえば妙な話しなのですが、不思議なぐらいにイエス様の言葉が弟子たちに届いていない、それほど弟子たちはイエス様のお心から遠いところにいる、それがこの最後の晩餐の現実だったということではないでしょうか。
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ユダが出て行ったことによって、イエス様の十字架は確実に近づきました。そのことを悟られたとき、イエス様はご自分のことよりも、弟子たちのことをたいへん心配なさいます。自分が十字架にかかるのをみて、この者たちはどんなに恐怖にかられることだろうか。自分がいなくなってしまったことを思って、どんなに途方に暮れることだろうか。そして、弟子たちにこのようにお話しになるのです。『ヨハネによる福音書』13章33-35節
子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。
わたしについて来られない時が来る。わたしを探し求める時が来る。そのような時、互いに愛し合うことによって、その危機を乗り越えなさいと言うことです。すると、ペトロがこう言いました。
「主よ、どこへ行かれるのですか」(ヨハネ13:36)
イエス様が答えます。
「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」(ヨハネ13:36)
ペトロはさらに問い続けました。
「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」(ヨハネ13:37)
イエス様は答えます。
「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:31-32)
まず、「サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。」と、イエス様は言われています。「ふるいにかける」とは、良いものと悪いものをより分けるということです。本物の信仰はふるいにかけられても残ります。ここでは弟子たちの信仰が本物であるかどうか、最後まで残るかどうか、サタンがそれを試そうとしているということです。
さらにイエス様の言葉では、「サタンは・・・神に願って聞き入れられた」というのです。私たち信仰者を試みることを、神様に正式に許可されているのだというわけです。サタンは、神様のお墨付きをもらって、堂々と信仰者を誘惑し、試みに合わせ、私たちの信仰を容赦なく試そうとしているのだというわけです。
神様は、なぜサタンが信仰者を攻撃することをゆるされたのでしょうか。神様も、私たちをまことの信仰者とそうでないものにより分けようとしているのでしょうか。そうではないと思います。神様は、すべての信仰者がサタンのあらゆる試みに打ち勝つことによって、サタンの企みをすべて打ち砕き、サタンを力ないものにしようとしておられるのです。だとするならば、これはサタンと信仰者の戦いというよりも、サタンとイエス様との戦いであると言えます。サタンがイエス様の救いを空しいものにするか、それともイエス様がサタンの試みを空しいものにするか、そういう戦いであります。
イエス様は、ペトロにこう言います。「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」イエス様は、ペトロがサタンの試みにあって徹底的に打ち砕かれることを予見しています。先ほども申しましたが、少々自信過剰のペトロでありますが、そういう自信な微塵も残らないほどペトロの魂は砕かれるのです。しかし、最後にペトロに残るものがある。それがイエス様の祈りであります。「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。」、どんなに惨めな姿になろうとも、醜態をさらそうとも、イエス様が最後までペトロの信仰を励ましてくださっている。その一点において、ペトロは再び信仰によって立ち上がるようになるのです。そして、イエス様が、サタンに勝利されるのです。その時、お前は、他の弟子たちを励ます者になりなさいと、ペトロの新しい人生がそこから始まるのだということをイエス様は預言しているのです。
しかし、ペトロはそのようなイエス様の恵み深さを悟りません。逆に、自分の信仰が無くなるようなことを言われて心外でした。ペトロは、心配はご無用ですと言わんばかりに胸を張って、言うのです。
「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」
しかし、イエス様はペトロの真実を語ります。
「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」
ペトロは、そんなことは決して有り得ないと、心の中で誓ったでありましょう。けれども、イエス様の預言されたことは本当であったのです。
今日は、「ペトロの最大の危機」と説教題をつけました。実際にはまだその危機を、ペトロは経験していないので、今日のところは、その前編だとお考え下さい。しかし、ペトロが、イエス様の言葉をまったく受け入れられなくなってしまっている、そこにすでに危機の始まると思うのです。
イエス様に、「わたしの足など決して洗わないでください」と抵抗するペトロ。「ついてくることはできない」と言うイエス様に、「いや、どこまでもついて行きます」と胸を張るペトロ。自分の魂を案じてくださるイエス様に、心配ご無用と胸を張るペトロ。イエス様が「お前は弱いのだ」というのに、「いいえ、わたしは大丈夫ですと言ってしまう。イエス様が「お前にはわからない」というのに、「いいえ、わたしは分かっています」と言ってしまう。イエス様を離れることなど考えられないと言いつつも、すでにペトロの心はイエス様から離れつつあるのではないでしょうか。
来週、この後半をお話ししますが、このような状態が一晩のうちにどんどん進んでいき、ついにペトロは、イエス様の預言通り、自分の身を守るために、イエス様を知らないと言うまでに至ってしまうのです。信仰者の危機、それは傲慢のうちに潜んでいるということを学びたいと思います。 |
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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