ペトロ物語(16)
「ペトロの足を洗う主イエス」
Jesus, Lover Of My Soul
旧約聖書 出エジプト記12章24-27節
新約聖書 ヨハネによる福音書13章1-11節
過越の食事について
 イエス様が十字架におかかりになる前夜のこと、いわゆる最後の晩餐といわれる、イエス様と十二弟子たちが囲んでとられた食事がありましまた。これは、おそらくイエス様と弟子たちが毎日とられていたような質素な食事とは違って、過越祭の掟にのっとった特別な食事でありました。前回は、ペトロはヨハネと共に、この過越の食事を準備する仕事をイエス様に与えられ、一足先にエルサレムに行き、食事のための部屋を借り、種入れぬパン、神殿で屠られた小羊の肉、苦菜、ぶどう酒などを準備したというお話しでありました。

 過越の食事は、日没から始まります。イエス様や他の弟子たちも、その前にはペトロとヨハネが整えた部屋に到着したことでありましょう。今日は、いよいよ日が暮れて、イエス様と弟子たちの過越の食事が始まるという場面からお話しをしたいと思います。先ほどお読みしましたのは『ヨハネによる福音書』でありましたが、まず『ルカによる福音書』に書かれていることを読んでみたいと思います。

 時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」(『ルカによる福音書』22章14-16節)

 イエス様が、弟子たちと共にこの過越の食事をすることに、並々ならぬ思いを注いでおられたということが分かります。それは、先ほどお読みしました『ヨハネによる福音書』に書いてありましたこと、つまり「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」(『ヨハネによる福音書』13章1節)ということと一致するのであります。愛し抜くとは、どんなことがあっても愛を失わないで、最後まで愛を貫き通すということでありましょう。これまで愛してきた者が自分を裏切るとしても、そのために自分がどんなに苦しみ、殺されることになろうとも、その愛を終わらせないということです。そのような永遠の愛を、イエス様はこの過越の食事のうちに込めようとされたのでした。

 先日、教会で購入しました渡辺和子さんのCDを聞いておりましたら、子供たちの食卓を準備するお母さん方は、栄養を考えて食事を作ることも大事であるけれども、実はそれと同じぐらい大切なこととして、食事の時の会話を準備する必要があるということをお話ししておられました。たしかにその通りです。どんな味がよくて、栄養価のバランスのとれた食事であっても、楽しい、和やかな会話がなければ、食事は味気ないのです。一人はテレビを見ながら、一人は新聞を読みながら、一人は携帯電話でメールを打ちながら、それぞれがバラバラに食事をしている。このような会話のない、交わりのない食卓において、子供たちは果たしてご飯がおいしいと感じることができるでしょうか。食事が楽しいと感じることができるでしょうか。お腹はいっぱいになっても、心は飢え渇くばかりなのではないでしょうか。食卓というのは、命の交わりの時なのです。肉体を生かす糧を共にいただきながら、愛の心をも分かち合う場所なのです。私たちに生きていくために必要なものを肉の糧も、霊の糧も、共に分かち合う命の交わりなのです。そうであればこそ、イエス様は「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。」とおっしゃるのです。そこで、ご自分の永遠の愛を弟子たちに分かちたいと願われるのです。

 そもそもこの過越の食事というのは、昔エジプトの奴隷であったイスラエルの民をお救い下さった神様の大いなる愛を覚えるための食事でありました。そして、そのために過越の食事で、食事以上に大切にされたのは会話なのであります。『出エジプト記』12章には、過越の食事の守り方が定められていますが、今日およみしましたところには、その食事で必ずなされなければならない会話が記されています。

 また、あなたたちの子供が、『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、こう答えなさい。『これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである』と。『出エジプト記』12章26-27節

 過越の食事には、種入れぬパン、小羊、苦菜という三つの象徴的な食べ物がありました。それをいただくときに、子供たちに「お父さん、これはどういう意味なのですか」と問わせるのです。すると、お父さんは、神様がイスラエルをエジプトから救ってくださった話しをし、神様の愛と救いを子供たちに教えるというわけです。過越の食事が実際どういう式次第で守られているのかということを調べるためにアジア・メシアニック・センターのHPにそれが詳しく書かれていました。それを読んでおりましたら、使徒パウロが、まだクリスチャンになる前に、彼にユダヤ教の律法を教えたガマリエルというとても人々から尊敬されたラビは、過越の食事の意味が語られないならば、それは過越の食事ではないというようなことを教えていたという話しが紹介されていました。大切なことは、食べるということを通して、神様の愛と救いを追体験することなのです。

 ところで、このアジア・メシアニック・センターのHPを読んでいましたら、「エリヤの席」という面白い話しが書かれていました。これは、イエス様の時代にはなかった比較的新しい過越の食事の守り方ですが、食卓の中に、誰も座っていない席を一席設けるのだそうです。そこにも、他の席と同じようにぶどう酒や食事が配られるのですが、手つかずのままそこに置かれることになります。それが「エリヤの席」です。エリヤというのは、紀元前八世紀に活躍した英雄的なイスラエルの預言者なのですが、聖書には、救いの日の前にエリヤが再び現れるということが預言されているのであります。どこに書いてありますかと言いますと、旧約聖書の最後であります。

 見よ、わたしは
 大いなる恐るべき主の日が来る前に
 預言者エリヤをあなたたちに遣わす。
 彼は父の心を子に
 子の心を父に向けさせる。
 わたしが来て、破滅をもって
 この地を撃つことがないように。(『マラキ書』3章23-24節)


 このように、「エリヤが来る」という預言をもって、旧約聖書は終わっているのです。「エリヤの席」というのは、そのような来るべきエリヤを迎えるための席なのです。食事が終わると、子供たちが玄関に立ち、扉を開けて、エリヤが来ていないかどうか確かめる。当然、来ていないので、がっかりして帰ってくる。そして、エリヤの席に用意された過越の食事や杯はそのまま捨てられるのだそうです。つまり、大昔、神様がイスラエルを救ってくださったということを忘れないだけではなく、その神様がやがて私たちにメシアを遣わし、真の救いをもたしてくださる日が来るという将来を救いをも覚えることが、過越の食事の中に新たに加えられたというのであります。

 イエス様の時代にはなかったことであります。しかし、私はこれを読みました時に、イエス様が「言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」といわれたことの意味が分かったような気がするのです。この言葉は、どう理解して良いのか分からない解釈の難しい言葉です。特に、「この過越の食事をとることはない」という言葉をそのまま受け取れば、この時、イエス様は過越の食事をなさらなかったということにもなります。ちょうど、席はあるものの食事には手がつけられていないエリヤの席と同じ形になるのです。しかし、イエス様は永遠に過越の食事をしないと言われたわけではありません。「神の国で過越が成し遂げられるまで」と言っておられます。真の救い、真の解放、そのような神様の愛と救いに対する希望が、ここで弟子たちに与えられているのです。人間が生きていくために必要なものは、愛と共に希望があると思うのです。イエス様は、この過越の食事において、決して廃ることのない愛と希望を弟子たちにお与えになろうとしておられたのです。

 もちろん、食事することだけで、そのような愛と希望を与えることはできません。イエス様が本当の意味でそれを弟子たちにお与えになったのは十字架と復活においてであります。十字架の愛、復活の希望、それこそ弟子たちに与えられた永遠の愛と希望であります。しかし、その意味づけを、イエス様はこの食事において、弟子たちに与えようとされているのです。『ルカによる福音書』の続きには、このように書かれています。

 それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。(『ルカによる福音書』22章19-20節)

 あなたがたが今食べるパンは、わたしの体である。あなたがたが今飲む杯は、私の血である。パンとぶどう酒があなたがたの肉となり血となるように、私が献げる命に与ることによって、あなたがたの魂は永遠の愛と希望を持ち、真の命を生きるようになるのだということなのです。おそらくこの時、弟子たちはそのことを悟り得なかったでありましょう。しかし、後に、新しい過越の食事として、聖餐式を守り続けるようになります。主が聖別し、祝福してくださったパンと杯に与ることによって、イエス様が献げてくださった命の交わりに生きる者とされる。そして、どんなに愛なく、望みも見えない世のなかであっても、私たちは主の与えてくださった十字架の愛と復活の希望に生きる者とされると信じたのです。
弟子の足を洗うイエス様
 さて、アジア・メシアニック・センターのHPにある過越の食事の式文を参考にしますと、ここまでは儀式的な食事であります。この後、いわゆる本格的な食事の時がもたれたようです。そして、その食事にはいる前に、身を清めるという儀式があるのです。今日では、お水のはいったボールに手を浸して、それを順番に回していくという手を洗う儀式なのだそうですが、おそらくこの時、イエス様はやおら立ち上がり、上着を脱ぎはじめられました。弟子たちが何が始まるのだろうかと見つめておりますと、イエス様は手ぬぐいを腰にお巻きになりますと、たらいに水をくみ、弟子たちの足元にひざまずいてその足を洗い、その後、腰の手ぬぐいで丁寧にお拭きになったというのです。

 弟子たちは唖然としました。人の足を洗うということは奴隷のすることであったからです。6節を読んでみましょう。

 シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは『主よ、あなたがわたしの足を洗って下さるのですか』と言った。

 ペトロは、イエス様が弟子たちの足を洗われるのを見て、これは間違っていると思ったのであります。この「間違っている」という思いは、平気な顔をしてイエス様に足を洗わせている仲間たちへの非難でもありました。お前達は、メシアであり、神の御子であるイエス様に、自分の汚れた足を洗わせて、何とも思わないか。ペトロは、そう思うのです。それと同時に、ペトロはイエス様ご自身に向かっても、この「間違っている」という気持ちをぶつけていました。「あなたは下々の足を洗うようなことをなさるべきではありません。それはあなたに似つかわしくないことです」という思いがあったのです。

 しかし、人の足を洗うということは、本当に救い主であるイエス様にふさわしくないことだったのでしょうか。そうとは思わないのです。もし、イエス様が本当に弱い人間、心貧しき人間、罪深き人間の救い主であられるというならば、強いだけではなく、偉いだけではなく、私たちのために弱くもなるし、貧しくもなるし、卑しく低い者にもなられるお方でなければならないのではないでしょうか。そうであってこそ、イエス様はいつも私の傍らにいます御方、救い主であると言えるのではないでしょうか。

 イエス様がどのような救い主であるかということを説明する、こんな話を聞いたことがあります。小さな男の子が転んで地べたに倒れたまま泣いている。ある人は、その男の子を見て、怪我がたいしたことがないことを知った上で、「いつまで泣いているのか。もう君は痛くないはずだし、自分で起きあがることができるはずだ。」と言って、立ち去っていきました。その後、別の人が来て相変わらず泣いている男の子に向かってこういいました。「さあ、ここで見ていてあげるから、がんばれ。」しばらく、男の子を見守り、声をかけて励ましたものの、男の子が決して泣きやみそうもないのを見ると、彼もまたあきらめて立ち去っていきました。次に、また別の人がきました。彼は泣いている男の子を見ると駆け寄って、手を差し伸べ、「さあ、わたしの手を掴んで起きあがりなさい」と言いました。しかし、男の子は、差し伸べられた手を掴もうともせず、相変わらず大きな声で泣き続け、起きあがろうとしませんでした。彼もあきらめて立ち去っていきました。すると今度は、同じぐらいの年の男の子がやってきました。男の子は、泣いている子供の前で自分も転んで見せました。泣いている男の子はびっくりして、転んだ男の子をみました。膝小僧がすりむけて血が流れています。しかし、男の子は痛さで顔を歪めながらも泣きませんでした。そして、今まで泣いていた男の子に、「さあ、一緒に起きようか」と言ったのです。今まで泣いていた男の子は黙ってうなずき、彼と共に助け合うようにして、ようやく起きあがることができました。イエス様とは、このように倒れている者と共に倒れ、「さあ、一緒に起きよう」と言ってくれる御方だというのです。

 そこのところが、ペトロにはわかりませんでした。「そんなことをなさるのは、あなたに似つかわしくない」と言ったのです。イエス様は、そのようなペトロに「私のしていることは、今は分かるまいが、後で、分かるようになる」とお答えになりました。

 なぜ、すぐに理由を教え教え給わないで、「今は分からないが、後で分かる」と言われたのでしょうか。時間が必要だったのです。ペトロはこの後、本当に苦い経験をします。悪夢のような経験をします。来週は、「ペトロの最大の危機」と題して、ペトロが歩んだ暗闇の道についてお話しをするつもりです。しかし、そのような暗闇の中で、ペトロは今まで知らなかったイエス様の深い愛と恵みを経験したのでした。

 何でもすぐに手に入れたいというのが人情であります。イエス様を知るということもそうなのです。今すぐにでも答えを知りたい、分かりたいと思うのです。そういう方は分かり易い本で勉強なさることも良いでしょう。牧師や信仰の先輩を質問責めにするくらい徹底的に聞いてみるということも役に立つでしょう。しかし、読んだり、聞いたり、考えたりして知ることには自ずと限界があるのです。それ以上にイエス様を知るということになりますと、やはりそれなりの時間が必要なのです。イエス様を知るための道のりを、自分の足で歩まなければならないのです。忍耐強く祈り続ける日々、涙を流して祈る日々、心の悪と格闘をしながら神に従おうとする日々、たとえ失敗するにしても、挫折するにしても、自分自身でイエス様を知るための道のりを経て、「ああ、ここにイエス様がおられる」「イエス様の御心はここにある」というような、生き生きとした本当にイエス様に触れるような経験をしなくてはならないのです。

 さらに8節を読んでみましょう。

 ペトロが、『わたしの足など、決して洗わないでください』と言うと、イエスは『もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何の関わりもなくなる』と答えられた。

 ペトロは何と短気なのでしょうか。イエス様は、「後で必ず分かるようになる」と言ってくださったのです。それならば、その時を待とう、それまでこの問題を胸の中にしまっておこうと考えるべきだったのではないでしょうか。しかし、ペトロは「わたしの足など決して洗わないでください」と言ってしまいました。足を洗うという行為にどんな意味があるのか分からないとしても、そのことを通してイエス様がペトロにかかわろうとしておられるのは確かなことであります。しかし、ペトロはそれを拒絶してしまうのです。今答えてくださらないのなら、もういいです。私は、私の正しいと思うところに従って行動します。だから、わたしの足を洗うのをやめてくださいということなのです、といってしまうのです。

 すると、イエス様はたいへん悲しいお顔をなさったに違いないと思うのですが、「それを言ったら、わたしとあなたとの関わりはこれで終わってしまう」と、ペトロに言ったというのであります。イエス様がペトロに求めておられるのは、関わり続けることなのです。分からないならば、分からないでもいいし、どうしてですかと、涙を流して訴えても良いのです。私もかつてイエス様が信じられなくなってしまったことがありました。信仰を捨て、教会を立ち去ろうかとも考えました。しかし、信仰を捨て、立ち去ったところで、私にはどこにもいくところがなかった。ですから、私は信仰を持ち得ないまま、教会に行きつづけました。そして、「あなたが信じられないから、信じられるようにして欲しい」と祈りつづけたのです。こんな祈りでもいいのです。イエス様はその祈りを聞き届けてくださいました。どんな形であっても、イエス様を知ろうと関わっていくことが必要なのです。なぜなら、私たちが信じられないときにもなお、イエス様は私たちにかかわり続けてくださっているからなのです。そのイエス様からの関わりを、信じられないからとか、分からないからという私たちの愚かさを理由にして、断ち切ってはならないのです。分からなくても、信じられなくても、イエス様が愛をもって私たちに関わり続けてくださっているということに信頼をして受け止めなくてはならないのです。それが信仰であります。

 ペトロという人は、本当に憎めない人であります。イエス様が「あなたとわたしには何の関係もなくなってしまう」と聞くと、「私の足など決して洗わないでください」と言っていたことを翻して、「それならば、足だけではなく、手も、頭も洗ってください」と言ったというのです。イエス様はこのようなペトロに深い愛を感じながら、「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい」とお答えになり、ペトロの足を洗われたのでした。

 なぜ、イエス様は「既に全身が清い」と言われたのでしょうか。私たちはむしろ、ペトロのように「足だけではなく、手も、頭も、洗ってください」と叫びたい。それほど、私たちの全身は罪にまみれているとしか思えないのです。イエス様は、「そうでなない」と言われました。いったいどういう意味なのでしょうか。

 清いというのは、要するに神様に愛されているということなのです。清いとか、汚れているということが、どうして問題になるかと言いますと、汚れているものは神様から見捨てられ、清いものだけが神様に受け入れられると、聖書に書かれているからです。逆にいいますと、神様に愛されているならば、その人は清いのです。神様に愛されているかどうかということは、イエス様に愛されているかどうかということによって分かるのです。そこで、13章1節が大切になってきます。

 イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。

 弟子たちは、すでにイエス様の限りない愛の中に置かれていました。ですから、「既に全身が清い」と、イエス様は言われたのです。しかし、この世にある限り、やはり罪と関わりのない生活はできません。イエス様の大きな愛の中に包まれていながら、なおも罪を犯して歩んでしまうのが、私たち人間なのです。イエス様はそのような私たちの日々の罪をも清めてくださる。そして、愛の中に留まり続けることを許してくださるのです。それが、足だけを洗えばよいということではないでしょうか。

 今日読みました御言葉に描かれているペトロから、私たちは何を学ぶでしょうか。ペトロが一生懸命にイエス様を愛していたのは事実です。しかし、その愛も、とてもイエス様の愛には及ばないということであります。「私がイエス様を愛している」ではなく、「イエス様が私を愛してくださっている」という所に生きる者になることがペトロに必要であったのであります。そのような者になるための道を、ペトロは歩まされているのです。私たちもまた、自分の愛、自分の信仰を越えて、主の愛、主の真実に依り頼む者になってまいりたいと願います。
目次

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

お問い合せはどうぞお気軽に
日本キリスト教団 荒川教会 牧師 国府田祐人 電話/FAX 03-3892-9401  Email:yuto@indigo.plala.or.jp