ペトロ物語(11)
「山上の変貌を目撃したペトロ」
Jesus, Lover Of My Soul
旧約聖書 ホセア書11章1-4節
新約聖書 マタイによる福音書17章1-13節
十字架と復活の主の栄光
 先週はイースターでありました。教会学校の子供たちと一緒にその喜びの礼拝を守り、マグダラのマリアが復活のイエス様に出会ったという出来事を学びました。今日からはまたペトロ物語についてご一緒に学んで参りたいと思うのですが、もしかしたら今日お話ししますペトロが目撃したイエス様の「山上の変貌」という物語は、イースターの後の日曜日に学ぶのにたいへんふさわしい物語あるかもしれません。なぜなら、9節をみますと、イエス様は「あなたがたが見たこの出来事は、私が復活する日まで誰も話してはならない」ということをおっしゃっているのです。この山上の変貌という出来事は、主の復活という、もう一つの出来事を経なくては正しく理解できない出来事であったのであります。

 弟子たちが経験した主の復活という出来事は、死んだイエス様が生き返ったという単純なお話しではありませんでした。イエス様の死は普通の死ではなかったのです。神の子ともメシアとも信じていた主が、十字架というまことに恐ろしい刑罰によって殺されてしまったのであります。その御姿はまことに惨めで痛々しいものでありました。ペトロを初めとする弟子たちは皆、それを見て恐れおののき、逃げ去り、また深い絶望を経験したのであります。

 クレオパという主の弟子が、イエス様の死によって受けた心の衝撃について語っている貴重な証言が聖書に記されています。

 「この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。」(『ルカによる福音書』24章19-21節)

 これは、クレオパのみならず主に望みかけている者たちのすべての気持ちを代表する言葉であるといえましょう。イエス様の始められた救いの御業は、最悪の結末を迎えてしまった。これで私たちのすべての望みは失われた・・・しかし、実はそうではなかったのです。それを物語るのが「主の復活」という出来事でありました。十字架は、決して主の敗北ではない。私たちの絶望ではない。主の十字架こそ、私たちのすべての罪を赦し、贖う、神の愛であり、主の救いであったのだということが、弟子たちに明らかにされる出来事、それが主の復活なのです。十字架なしの復活ではありませんでした。十字架あってこその復活だったのです。

 そのような主の十字架と復活という出来事を考えながら、この山上の変貌の出来事をみますと、これはまさに主の復活の栄光を先取りする出来事であったと言えます。つまり、ここで明らかにされた主の栄光の姿は、単純に主の栄光を現しているのではなく、これから十字架にかかろうとされる主の栄光を示しているといえるのです。

 前回、あるいはその前にお話しをしましたが、イエス様はこのフィリポ・カイサリアで、はじめてご自分の御受難を予告されました。それに対して、ペトロは間髪を入れず反対し、「主よ、とんでもないことです」と忠告をしました。神の子ともメシアとも崇める御方が、苦しみを受けて人の手にかかって殺されるなんてことはあってはならない結末であると、ペトロはそう思ったのでした。ペトロでなくても、きっと誰もがそう思ったことでありましょう。

 しかし、それから六日後、イエス様はペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけを伴われて、ヘルモン山にお登りになります。標高2800メートルの高い山です。その山の頂で、ご自分の栄光の姿を、弟子たちにお示しになりました。十字架への道を行くということ、そして十字架の死を死ぬということは、まことに大きな苦難の道であるに違いありません。しかし、それは決して主の最終的な姿ではない。そのような御苦難は受けなければなりませんが、その後に主は救いを成し遂げられた御方となる。そして、神に愛される御子として、本当に素晴らしい栄光をお受けになるのです。その栄光を、この山上の変貌は先取りをしているわけです。

 たとえば、イエス様がモーセとエリヤと親しげに語り合っていたということが書かれていました。モーセは律法の祖でありますし、エリヤは預言者の祖であります。そのモーセやエリヤをこの上なく崇敬するユダヤの伝統主義者たちによって、イエス様は異端者とされ、冒涜者とされ、十字架にかけらました。だとするならば、モーセとエリヤによってイエス様は殺されたと言ってもいいはずです。しかし、十字架への道を歩もうとされる時、イエス様はモーセとエリヤと親しげに語り合っていたというのであります。それは、イエス様は決してモーセ(律法)やエリヤ(預言)と対決しようとしておられたのではないということを物語っているのです。

 それにしましても、モーセとエリヤが、いったい何をイエス様と語り合っていたのでしょうか。みなさんも大いに気になるところでありましょう。残念ながら『マタイによる福音書』にはそのことが記されていません。しかし、有り難いことに『ルカによる福音書』を見ますとそのことが記されています。

 祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。(『ルカによる福音書』9章29-31節)

 語り合っていたのは、「エルサレムで遂げようとしておられる最期について」であったと言われています。つまり、十字架であります。旧約聖書を代表するモーセとエリヤが、イエス様の十字架のことについて語り合っていたということは、律法と預言を中心とした旧約聖書の信仰と、イエス様の十字架を中心とした新約聖書の信仰は決して矛盾するものではなく、旧約から新約へと一つにつながっているということを示している出来事だと言ってもいいでしょう。

 ですから、先ほどのクレオパの話しでも、復活のイエス様は、彼に十字架と復活の意味を、モーセと預言者の言葉を通して解き明かされたということも言われているのであります。『ルカによる福音書』24章25-27節

 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。

 「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだった」と、主は言われます。十字架あってこその復活であるというは、モーセとエリヤ、つまり律法と預言者たちの言葉をきちんと聞いて受けとめていれば、実は誰にでも分かることなのだということなのです。

 山上の変貌で現されたのは、主の栄光の姿でありました。イエス様のお顔は太陽のように輝き、その衣は光のように真っ白になったと書かれています。しかし、その栄光は十字架を抜きにした栄光ではなく、まさにこれから十字架の道を歩もうとされる主の栄光だったのです。そして、十字架は復活にいたる道であるということの証しであったのです。
十字架を理解できないペトロ
 ところがペトロ、ヤコブ、ヨハネ、これら主の変貌を目撃することを許された弟子たちは、それを理解できませんでした。その無理解の様子を、聖書は面白い表現で私たちに伝えています。3-4節を読んでみましょう。

 見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」

 「仮小屋」というのは、ギリシャ語ではスケーナイという言葉でありまして、「天幕」という意味です。まさしく仮小屋に違いないのですが、旧約聖書ではこれが特別な意味をもって「幕屋」とも訳され、祭壇の置かれた場所、つまり聖所を指すときにも使われました。つまり、ペトロは「ここに三人のおうちを建てましょう」と言ったのではなく、「ここに三つの聖所を建てましょう」と提案したのです。モーセ、エリヤを従えるイエス様の輝く栄光の御姿を、この山の上に永遠につなぎ止めておきたいということなのです。ところが、先ほど申しましたように、イエス様は、この山の上から下へ下へと降る道を、そしてついには罪人の一人として十字架で刑死する道を歩み始めようとしておられるのです。ペトロとはまったくイエス様と見ている方向が違うのです。

 さらにまた、『ヨハネによる福音書』の序論部分には、こう書かれています。

 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」とあります。「言」というのは、生ける神の言であるイエス様のことです。そして「宿る」というのは天幕(スケーナイ)を張るという言葉なのです。ペトロは山の上にイエス様のスケーナイを建てましょうと言いました。ここに鎮座して、あなたの栄光をここに留めておいてくださいと言うのです。しかし、イエス様が世に来られた目的は、どこを見ても人間の罪深さ、暗さばかりで、信仰のかけらもないようなところに、そのような私たちの世界に、人生のただ中に、スケーナイを張って宿ることであったというわけです。そして、それこそ神の子の栄光であり、恵みの充ち満ちた出来事であったのだと、ヨハネは語っているわけです。

 ただ、このヨハネにしたって山上の変貌を目撃した時に、そのことを悟ったわけではないでありましょう。イエス様の十字架と復活の目撃者となった時、イエス様の栄光とは何か、イエス様の救いとは何か、その御生涯の意味と目的は何かということを悟るのであります。ペトロもそうです。後に、ペトロはこの山上の変貌の出来事について証ししています。『ペトロの手紙二』1章16-19節、

 わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。

 山の上でイエス様の変貌を目撃し、そして「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天の声を聞いたということが、ここで証しされています。そして、ペトロは、こういうのです。

 夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。

 ペトロは、世の中は暗いといっています。イエス様は十字架にかかり、復活し、わたしはまた来ると約束して、天にお帰りになった。まもなく、聖霊がくだり、教会が建てられた。そして、主がすべてのことに勝利され、神の国がこの地上にもたらされる日は近いと、誰もが希望をもっていました。しかし、それから二十年、三十年と時が経ちます。待てど暮らせど、イエス様はおいでになりません。そして教会はユダヤ人やローマから迫害を受け、内部においても異端が現れ、真面目に信仰している人たちの間にも、本当に主はわたしたちを迎えにきてくださるのだろうか、そもそも本当に主は復活されたのだろうかという不安が起こり始めていました。しかし、ペトロは希望をすててはだめだ。わたしは「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声を聞いたんだ。それを、この暗さの中でのともし火として信じて、希望を持ち続けようとではないかと励ましているわけです。

 ペトロがこういうことが言えるようになったのも、苦難の後に勝利が来ることを、忍耐の後に収穫が来ることを、主の復活の体験を通して学んでいたからに違いありません。主の十字架という最悪の結末と見えることですら、それは栄光への入り口だったのです。だから、どんなに暗くても、辛くても、必ず夜明けが来る、それを信じて待ち続けようと言える人間になったのです。

 私たちは、御受難を予告されるイエス様に対して「主よ、とんでもないことです」と言ったり、栄光の姿をお見せ下さったイエス様に「仮小屋を建てましょう」と口走ったりするペトロの気持ちがよく分かるのです。確かに、ペトロはイエス様の十字架のご使命についてまったくといっていいほど理解できなかったかもしれませんが、弱い人間なりに、貧しい信仰なりに、イエス様を一生懸命に愛していたのでありましょう。ペトロの物語を読んでいまして、私が本当に慰められるのは、イエス様もそういうペトロを心から愛してくださっているということです。それでは駄目だとは言わないのです。忍耐強く、教え、諭しながら、私についてきなさいと招いてくださるのです。

 私たちに対する主の招きもそうだと思います。私たちの信仰が立派であるから、知識に欠けたるところがないから、イエス様はわたしについてきなさいと言われるのではありません。今は分からなくてもいい、信じられないことがあってもいい、だけど最期まで私についてきなさい。そうすれば、あなたにもきっと分かる日が来るのだということではないでしょうか。
目次

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

お問い合せはどうぞお気軽に
日本キリスト教団 荒川教会 牧師 国府田祐人 電話/FAX 03-3892-9401  Email:yuto@indigo.plala.or.jp