ペトロ物語(10)
「十字架の二重の祝福」
Jesus, Lover Of My Soul
旧約聖書 イザヤ書53章1-12節
新約聖書 マタイによる福音書16章21-28節
十字架の意味を問う
 今日は「棕櫚の主日」と言われる日曜日です。今日から一週間、イエス様の御受難を覚えて過ごし、来週の日曜日にはイースターを迎えることになるのです。そこで今日は、ペトロ物語の番外編になりますけれども、十字架の意味ということに焦点をしぼってお話しをしたいと思います。

 イエス様は、ご自身が、祭司長、民の長老たち、律法学者たちの手にかかって、必ずエルサレムで多くの苦しみを受け、果てに殺されることになるであろうということを、弟子たちに打ち明けられました。これは、神様によって示されたご自身の運命について語られたことでありますが、それを聞いたペトロはたいへん驚いて、イエス様の袖をひっぱり、脇へお連れして、「主よ、とんでもないことです。あなたがそんな風に殺されて良いはずがありません。あってはならないことです」と、イエス様を厳しく諫めたというのであります。ペトロは単純に「イエス様にはいつまでも生きていて欲しい」と願ったのでありましょう。イエス様を愛する者としては当然の気持ちでありました。けれども、イエス様はたちまち厳しいお顔をなさって、ペトロに向かい、「サタン、退け。あなたはわたしの邪魔をする者だ」と一喝されたというのです。

 イエス様がペトロをサタンだと言ったのは、裏を返せばイエス様ご自身がこの時誘惑を受けられたからに違いありません。ペトロの言葉を通して、イエス様の心の中にサタンがささやくのです。神の子であるあなたが、世の救い主として遣わされたあなたが、むざむざと人間の手にかかって殺されて、本当にそれで良いのか? それが神の栄光となり、世の救いとなるのか?

 ここで問われているのは、十字架の意味ということでありましょう。ペトロには、十字架の意味が分からなかったのであります。だから、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言いました。では、イエス様はどうなのか。実は、イエス様もまた、ペトロの言葉に誘惑を感じたのだと思うのです。自分の死が、しかも十字架という惨めな死がいったい何をこの世にもたらすというのか・・・

 しかし、イエス様はすぐにこの誘惑を振り切ります。そして、断固として十字架への道を選び取ろうとされます。神の目的を果たす方法は、神の御心に従うということしかありあません。たとえそれが死に至る道であっても、徹底的に御心に従うことがご自分に与えられた命の意味であり、生きるということなのだと、イエス様は知っておられたのです。そして、そのような生き方を邪魔をするもの、つまり神の目的を妨げようとするものの存在、それがサタンなのです。これが、「サタン、退け。あなたはわたしの邪魔をする者だ」というイエス様の言葉の真相なのです。
私が私として生きる命
 今日は、その後に続けてイエス様が弟子たちに語られたお言葉をご一緒に学びたいと思います。それは十字架の意味をわたしたちに解き明かしているものです。まず26節のお言葉からみてまいりたいと思います。

 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。

「何の得があろうか」と、イエス様はここで損得を尋ねておられます。信仰というのは損得ではなく、損得を越えた生き方をすることではないでしょうか。世の中はなんでも損得勘定で測ろうとしますから、それとは違った尺度を持って生きていくのが信仰者であるというのも間違いではありません。

 新潟の教会にいた時の話しですが、教会で高見沢潤子さん(1904.6.3〜2004.5.12。小林秀雄の妹で、のらくろを書いた田河水泡の夫人)をお招きして講演をうかがったことがあります。その演題が「余計なこと」というものでありまして、私はてっきり、「世の中に余計なことがたくさんあるから、そういうことに惑わされないで生きなさい」というお話しをなさるのかと思っておりました。ところが、高見沢さんのお話しはそうではなくて、余計なことだと何でも切り捨ててしまうから、人生は味気なくなってしまう。むしろ、好んで余計なことをするぐらいの心のゆとりが必要だ。たとえば、お料理でも一手間加えるとか、子供の洋服でも買ってきても良いけれども自分で作ったものを着せてやるとか、人間関係でも敢えて余計かも知れないお節介をしてみるとか、そういう余計なことが一時の損得、苦楽を越えて、人生も、人間関係も豊かにするのだということなのでありました。

 損得では計れない生き方というのは、そういうことを言うのでありましょう。しかし、もう少し素直にとれば、それがその人にとって結局得になる生き方だということでもあるのです。イエス様はそういうことをもっと率直に教えておられるのでありまして、信仰というのは人生の究極的な損得を考えて生きることだとおっしゃるわけです。

 では、究極的な利益とは何でしょうか。それは命を手に入れることです。25節を読みますと、こう言われています。

 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。

 自分の命を得ると言えるように生きなさいということなのです。しかし、それは、一日でも長生きをしたいとか、何としてでも苦しみを避けて生きたいとか、そういうことではありません。ここで「命」と言われている言葉は、もっと広い意味で「魂」とも訳される言葉です。人間が人間らしく、私が私らしく生きるための命だと言ってもいいかもしれません。

 人間が人間らしく生きるとはどういうことでしょうか。まず人間と動物は違うのです。動物だって犬と猫は違いますが、人間の命と動物の命はもっと根本的に違うところがあるのです。動物の命は、神様が「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と祝福されましたように、種の保存ということが究極的な目的です。それが神様の祝福のもとに生きるということなのです。ですから、それを果たしたら死んでしまう生き物もたくさんいます。

 では、人間の場合はどうなのか。人間もまた「生めよ、増えよ、地に満ちよ」という神様の祝福に生きています。けれども、それに加えて、神様は「地を支配せよ」と人間を祝福されました。「地を支配する」というところが違うのです。その分が他の生き物にはないものとして、人間に余計に与えられているわけです。

 さらになお、聖書には、人間が神の形に造られたと言われています。そして、神の息を吹き込まれて、生きる者となったとも言われています。地を支配するという神様の権限が一部人間に委ねられたことも含めて、人間は神様との特別な関係に生きることを祝福として与えられているのです。この祝福の中に生きてこそ、人間は人間らしい命を得るのです。

 そして、さらに私たちは、皆ひとりひとり神様から戴いた特別な命を頂いております。別の言葉でいえば、ひとりひとり違った神様の祝福のもとに生きているのです。たとえば『ヨハネによる福音書』9章には、生まれつき目の見えない男性の話が出てきます。その人を見て、弟子たちは「あの人が生まれつき目の見えないのは、両親が罪を犯したからですか。それとも本人の罪ですか」と、イエス様に質問するのです。すると、イエス様は「両親が罪を犯したのでも、本人が罪を犯したのでもない。神の栄光がその人の上に現れるためである」とお答えになります。「目が見えない」というは、彼の欠陥ではなく、彼の個性、もっと言えば神様がその人に与えられた祝福の形だというのです。そういう神様の祝福のもとに、彼は命をあたえられているのだから、その命は神様の祝福のもとで神様の栄光を現すのだということなのです。

 私たちも皆、ひとりひとり神様からいただいた命の在り方がちがいます。それは祝福に格差ではなく特別さなのです。その特別な祝福のもとに生きることによって、私たちは私らしく生きるということができるのです。そして、そういう命を得ること、それが信仰の究極的な利益であると、イエス様はおっしゃったのでした。

 この「得る」という言葉ですが、これは「見つける」という意味をもった言葉です。ですから、口語訳聖書や新改訳聖書では「それを見いだすであろう」と訳しています。裏を返せば、肉体的には生きていても、本当の自分の命、神様の祝福のうちにある命というものを見失っている人がいる、という前提があるわけです。だから、それを探し求め、見いだし、自分のものにしなくてはいけない。それを得ることが、人間の究極的な利益だということなのです。

 もう一度、イエス様の言葉を読んでみましょう。

 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。

 「全世界を手に入れる」とは、世界にあるものがすべて自分の思い通り、期待通りになるということでありましょう。これは誰もが心の中で願っていることです。およそ私たちの苦しみとか、悩みというのは、「思い通りにならない」に起因しているものなのです。思い通りになれば、自分は自分らしく生きることができるのだ、そう思っているのではないでしょうか。しかし、イエス様は、「そうじゃない。たとえ全世界を手に入れても、肝心の自分の命を手に入れることはできないのだ」とおっしゃったわけです。

 どうしてでしょうか。私たちの命を祝福するのは、この世界のなにものでもなく、天にいらっしゃる私たちの父なる神だからです。神様が私を私としてお造りになり、格別なる祝福を持って命を、人生を与えてくださった。この神様の祝福のもとにあってこそ、私が私らしく生きることができるのです。
命を取り戻す
 では、そのような命を手に入れるためには、どうしたらいいのでしょうか。イエス様は、「自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」と言っておられます。「代価を支払う」とは、一般にお金を払うということですが、お金がない時代は物々交換でした。欲しいものを買うためには、それに見合うものを差し出して交換するのです。そのように代価を支払うことによって、それが自分のものになるのです。

 また、イエス様はここで「自分の命を買い戻す」という言い方をなさっています。もともと自分のものであったけれども、それが他人の手に渡ってしまった。お金が欲しい、地位が欲しい、名誉が欲しい、そうものを手に入れて、世界を少しでも自分の思い通りにしたいと一生懸命に、自分を犠牲にして生きてきてしまったのです。その愚かさを悟ったとき、もう一度自分の命を自分のものとして取り戻したいと願うようになります。しかし、どうしたらいいのか。どんな代価を支払ったらいいのか。たとえ全世界を売り払っても、そんなものでは足りない。あなたが失ったもの、損なったものは、それほど大きなものなのだ。神様があなたに祝福として与えてくださった、あなたがあなたらしく生きる命というのはそれほど価高いものなのだ、ということなのです。それを損なってしまったことの代償は、決して自分では償いきれないのです。

 けれども、ひとつ道がある。「わたしは道であり、命であり、真理である」と、イエス様は言っておられます。イエス様を信じて従う信仰の道、これこそその何にも代え難い自分の命を買い戻す道なのです。ですから、ちょっと下品な言い方ですが、信仰というのは、何にもましてお買い得なことなのです。イエス様を信じて従うということこそ、究極の利益を得る道であることを知る。これが大事です。
自分の十字架を負って
 そのことをよくよく肝に銘じておかなければ、次のイエス様のお招きの言葉の意味が分からなくなってしまいます。イエス様は、こう言っておられるのです。

 わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。

 自分を捨てなさい。自分の十字架を負いなさい。それが、わたしに従う道だと、イエス様は言われるのです。そうすれば、あなたは自分の命を買い戻すことができる。さあ、これは困った問題です。自分を取り戻すために、自分を捨てる。本当にこれがお買い得なことなのか、ちょっと考えてしまうのです。イエス様は、そういう私たちのためらう気持ちをちゃんと分かっていてくださいます。だからこそ、信仰というのは、究極的な利益を追求する道だよ、何が本当に究極的な利益をあなたにもたらすのか、そのことを考えなければいけないよと言われたわけです。

 私たちはここで「十字架の二重の祝福」ということを考えてみたいと思います。十字架には、二つの重なり合った祝福があるのです。

 第一の祝福は、イエス様が私達のために、私たちの身代わりとして十字架にかかって死んでくださったということです。これは、私たちの救いの確かな土台です。実は、私たちが自分の命を買い戻すために必要な代価は、イエス様がご自分の命をもってすべて支払ってくださったのです。ですから、私たちは代価を払うことなく、イエス様の恵みとして、神の愛として、それを聖霊によって受け取ることができるのです。

 しかし、「受け取る」ということは、どういうことでありましょうか。たとえイエス様の恵みが、神の愛が、聖霊によって私たちに「さあ、これを受け取りなさい」と差し出されていたとしても、それを信じなければ私たちはそれを受け取ることはできません。そして受けとらなければ、その贈り物に感謝することもなければ、喜びも感じないのです。「受け取る」とは、イエス様の十字架によって、私たちの罪は赦され、再び神の愛が私たちに注がれるようになり、神の子として祝福された新しい命に生きることができると、信じることなのです。

 それを信じるとき、十字架の第二の祝福に与る道が私たちに開けます。それは、十字架の主に対するこの上ない愛が私たちの内にわき上がり、十字架の主と一つになろうとして、自分を捧げたいという思いが強められ、十字架の主との一体となるという経験をすることであります。

 それは言葉にすることが難しい経験であります。パウロは「わたしにとって生きることはキリストであり、死ぬことは利益なのです」(『フィリピの信徒への手紙』1章21節)と言っています。また「キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる」(『テモテへの手紙二』2章11節)とも言いました。ペトロは、「キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい」(『ペトロの手紙一』4章13節)と言っています。これらの言葉は皆、自分を捨て、自分の十字架を負って、イエス様に従うことの喜び、十字架のイエス様と一つになることの喜びから溢れてきた言葉なのです。

 イエス様が私たちの罪のために十字架にかかってくださったという十字架の第一の祝福と、私たちが自分の十字架を負って十字架の主との命の交わりに生きることができる第二の祝福、わたしたちはこのような二重の祝福を、イエス様の十字架から戴くことができるのです。

 この十字架の二重の祝福は、洗礼と聖餐という二重の祝福によって表されていることでもあります。洗礼は、イエス様が私達のために十字架にかかってくださったという神の恵みに与ることであります。私たちは洗礼に与るために、何の善い行いも、修行も必要ではありません。ただ、イエス様の十字架によって罪を赦され、神の子とされるのだということを信じればよいのであります。

 そして、そのように信じて洗礼に与った者は、聖餐の恵みにも招かれております。今日も私たちは聖餐に与ります。信仰を持って十字架のもとにひざまずき、イエス様が十字架で裂かれた肉と流された血に与るのです。イエス様が私達に身を捧げてくださっているところにひざまずいて、私たちの身をイエス様にささげるのです。それによって、私たちは十字架の主と一つになる経験をいたします。イエス様の十字架と私たちが担う十字架が一つになるのです。それが聖餐の恵みです。

 洗礼の恵みはただ一度限りのものであります。イエス様が十字架にかかってくださった、それだけで完全な恵みとして成立しているからです。しかし、聖餐の恵みは、私たちが繰り返し与るものであります。なぜなら、私たちの負うべき十字架が毎日あるからです。毎日の生活の中で、私たちは大きな十字架、小さな十字架を背負って生きています。それを通して、私たちは繰り返し、イエス様の十字架を思い、十字架の主への愛を深くし、献身の思いを新たにされ、十字架の主と共に歩む者とされるのです。

 それが、私たちが自分の本当の命を取り戻して生きることだと、イエス様は言われたのでありました。神様の教えや祝福を離れて、気ままに生きている人生というのは、一時は楽しく思えかも知れません。しかし、そうやっている間に、私たちはだんだんと霊的に死んでいくのであります。このような私たちを、神様のもとに取り戻すために、十字架にかかってくださいました。自分の命を代価として支払い、私たちを神様のもとに買い戻してくださったのです。イエス様の十字架、そこに神様の愛があります。私たちの救いと命があります。そのイエス様の十字架に結びあわされて、イエス様と共に死に、イエス様と共に生きる者になりたいと願います。
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