ペトロ物語(09)
「主に反対するペトロ」
Jesus, Lover Of My Soul
旧約聖書 ヨブ記2章1-10節
新約聖書 マタイによる福音書16章21-23節
ペトロの九天直下
 今日の御言葉には、イエス様がペトロに向かって「サタンよ、引き下がれ!」と激昂したということが書かれていました。ペトロはもとより失敗の多い弟子ではありましたが、これほどまで激しくイエス様に叱られるということは、後にも先にもないことであります。

 これほどまでイエス様を激しく怒らせたペトロは、いったい何をしたというのでありましょうか? 22節をみますと、こう書いてあります。

 すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」

 弟子であるペトロが、主であるイエス様の袖を掴み、「ちょっとこちらへ」と脇へお連れして、「主よ、とんでもないことです」とお諫めしたというのであります。確かに、これは出過ぎたことでありました。

 ペトロは少し調子に乗りすぎたのかもしれません。というのは、先週、先々週と、二回にわたってお話ししましたように、ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」というたいへん立派な信仰告白をして、イエス様に喜ばれ、「あなた岩である。この岩の上にわたしの教会を建てる。天国の鍵をあなたに授けよう」という有り難いお言葉まで頂戴したのでありました。ペテロが有頂天になっていたとしても、それは無理からぬことであったと言えましょう。

 有頂天というのは喜びのてっぺんにあるということですが、人間はよく、こういう有頂天になった時に失敗をするものなのです。「有頂天」とは、もともと仏教の言葉です。仏教によりますと、人間が生きる世界には、物質の欲に捕らわれている煩悩の世界である「欲界」と、物資の世界にありながら煩悩を断ち切った「色界」と、物質からまったく切り離された解脱の境地に達した「無色界」があると言います。「有頂天」というのは、「色界」の中の最高の境地に達することをいうのだそうです。有頂天の「有」は物質の存在を意味しており、その世界の頂きに位置する天、それが「有頂天」という言葉の、本来の意味です。

 これは非常に微妙な位置を示しておりまして、物質界の中では最高の天に上り詰めているのですが、それを越える解脱の境地には至っていないという状態なのです。ですから、いい気になって修行を怠り、そこに安住しようなどと考えるや否や、たちまち下の世界に転落してしまう。そんな危なっかしい様子から、俗に得意の絶頂になって足下が浮つき、今にも転げ落ちそうになっている人のことを「有頂天になっている」というようになったのです。

 仏教の話しから聖書を説くというのも変な話しですが、すばらしい信仰告白をしたばかりのペトロが、たちまちイエス様にサタン呼ばわりされて叱られてしまったのは、やはりペトロがちょっとしたことで転落しやすい有頂天にいたからでありましょう。

 それは決して彼の信仰告白がまやかしであったということではないのです。世界で初めてイエス様を「メシア」すなわちキリストと呼んだペトロの信仰告白は、二千年を経た今、イエス様といえばキリスト、キリストといえばイエス様という程に世界中で認知されるようになりました。しかし、ペトロがその信仰告白に留まり続けることができるかどうかは、また別問題です。有頂天と同じでありまして、たとえ最高の天に上り詰めたとしても、次の瞬間に足下をすくわれるということは十分にありえる話しなのです。信仰とはそういうものです。少しでも疑いや慢心が生じたら、たちまち不信仰へと転落してしまうのです。

 実は、ペトロは以前にもそのような転落を経験しているのです。それは嵐の湖での出来事でありました。弟子たちが船を漕ぎあぐねていると、そこに湖の上を歩いてイエス様が近づいていらっしゃいます。弟子たちは幽霊を見たと思いこみ恐怖に陥りますが、「わたしだ、恐れることはない」というイエス様の声を聞くのです。その時、ペトロの人並みはずれた信仰が発揮されます。「主よ、あなたでしたら、わたしに命じて、水の上を歩いておそばに行けるようにしてください」と、ペトロは叫びます。そして、「来なさい」というイエス様のお声を聞くと、迷うことなく嵐の湖に降り立ち、イエス様に向かって歩き出したのでした。ところが、ふとそこに吹いている強い風に気づいてペトロは恐怖を感じます。その途端、ペトロは湖に沈んでしまったのでした。

 繰り返しますが、信仰とはこのようなものなのです。イエス様をしっかりと見つめ、その恵みの力に支えられていることを確信している時には、水の上でも歩けてしまう。ペトロにその力あるのではなく、ペトロが身も心もゆだねている主の力が、それほどまでに力強くペトロを支えるのであります。ところが、風を見て恐れるとは、自分を支えてくださる主の力に疑いを持つということであります。その瞬間、ペトロは主を信じない不信仰な人間に成り下がってしまう。

 ある先生が、「信仰には大きい小さいはない。信仰は在るか無いか、どちらかである」と教えておられたのを思い起こします。在るか無いかというのは、在る者は常に在り、無い者は常に無いということではなく、在る者も次の瞬間には無いかも知れませんし、無い者も次の瞬間には在るかもしれない。信仰とはそういうものだというのです。

 私たちは、病気の時も、悲しみの時も、危機が迫り来る時も、人生の刹那、刹那において、「あなたは私を信じるか」というイエス様の問いを受けています。その都度、私たちは「主よ、信じます」と答えられなければなりません。それができたとき、私たちは信仰に生きる者になりますし、そうでなければ先ほどまで信仰に生きていたとしても、その刹那から不信仰な人間に成り下がってしまうのです。

 ペトロもそうだったのです。「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と、イエス様に問われた時、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えたペトロの信仰告白はけっしてまやかしではなく、本物の信仰を表していました。しかし、それに続くイエス様の言葉に、ペトロは「アーメン」と言えなかったのであります。その途端、ペトロはイエス様にサタン呼ばわりされてしまう。先ほど有頂天の話しをしましたが、仏教では有頂天のことを九つの天と書いて「九天」とも言うそうです。そしてそこから落ちることを「九天直下」というんだそうです。普通、急ぎ転じて直下すると書くのですが、九つの天から真っ直ぐに落ちると書きます。ペトロはまさにそのような九天直下を経験したのでした。
寄る辺なき身なればこそ
 ただ、わたしはこのペトロの九天直下のお話しは、イエス様に誉められても浮かれていると足下をすくわれることになるぞという仏教式の教訓譚で終わるものではないと思うのです。

 確かに信仰というのは、一度持ったら安心というわけには行きません。では、不断の努力をもってすれば、その信仰を失わずに済むのかというと、それもまた違うのです。ペトロの信仰告白に対して、イエス様は何とおっしゃったかといいますと、「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」ということなのです。信仰は人間の努力や勉強で身に付くことではなく、神様の恵みを受け取ることだと、イエス様はおっしゃっているのです。

 それならば、信仰に留まるとは、恵みに留まるということに他なりません。ペトロはそのことをよく分かっていたはずです。たとえば、イエス様が「あなたは岩である。わたしは、この岩に上にわたしの教会を建てる。天国の鍵をあなたに授けよう」と言われたとき、ペトロは「滅相もございません。わたしはそんな立派な人間ではありません」とはいいませんでした。それはペトロがうぬぼれていたのではなく、神の恵みはこのように取るに足らない人間をもご栄光のためにお用いになることができると信じていたからなのです。

 私たちも同じです。教会の役員に選ばれるとか、教会学校の教師を頼まれるとか、あるいは先週は婦人会の総会があって、そこで婦人会の役員が選出されました。そういうお役を引き受けるというのは、自分にそれが出来るとうぬぼれているからではないはずです。自信もないし、できるならば遠慮したいと思っている方が多いのではないでしょうか。わたしも、先日の東支区の総会で書記に選任された時はそう思いました。しかし、神様がこの務めをわたしにお与えになるのならば、その力をもこの貧しき者にお与え下さるはずだと信じて、お引き受けしたのです。みなさんも、きっとそうであろうと思います。

 ペトロもそうに違いないのです。神様は路傍の石ころからでもアブラハムの子を起こすことがおできになるし、石ころに讃美の歌を歌わせることもおできになる。石を巌にすることもおできになる。この無限なる神の恵みの力をもって、イエス様は、路傍の石に過ぎないペトロに「あなたは岩である。この岩に上にわたしの教会を建てる」とおっしゃったのでした。ペトロは、多少有頂天もあったかもしれませんが、決していい気になって、うぬぼれて、この大任をお受けしたのではありません。イエス様の恵みの言葉を信じて、それに伴う神様の恵みの力を信じて、それを黙ってお受けしたのであります。

 つまり、ペトロは信仰に、恵みに、留まろうとしたのでありました。しかし、それだからこそ、ペトロには決して受け入れられぬ事がありました。それは、イエス様から引き離されるということであります。恵みに留まるとは、貧しい寄る辺なき身を、イエス様の愛と御力のうちに宿らせるということでありますから、これは当然といえば、当然のことなのです。

 ところが、イエス様は、そのペトロが決して受け入れられぬ事が起こるということをおっしゃったのでした。21節、

 このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。

 わが救い主であり、わが愛であるイエス様がむざむざと殺される。そのために、わざわざエルサレムに行く。そんなことはあろうはずがない、あってはならない、と、ペトロは思ったのでありました。「三日目に復活する」、そんなことは必要ない。イエス様は死なないで生きていて欲しいのだ。長老、祭司長、律法学者、ほかのだれであれ、イエス様を殺すなんてことはゆるされるべきことではないのだ。この御方は、メシアであり、生ける神の子なのだから。神がそのようなことをおゆるしなるはずがない。これが、ペトロの気持ちでありましょう。ペトロのみならず、イエス様を信じ、愛する者は、誰でもそのように考えるに違いないのです。そう考えますと、ペトロのしたことは無理からぬことに思えるのです。

 すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」

 確かに、イエス様をお諫めするなどということは、私どもには考えも及ばぬ恐れ多いことであります。けれども、私たちもしばしば「主よ、なぜですか」と問うことがあるのではないでしょうか。そこには確かに疑問だけではなく、「愛の神が、救い主たる御方が、どうしてこんな酷いことをなさるのか?」という非難めいた気持ちが込められていることがあるのです。ペトロはもっとストレートに、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言い表しました。

 根っこにあることは同じです。神様は、私たちにイエス様が救い主であることを示し、信仰を与え、「神われらと共にいます」との祝福をお与え下さるはずだ、ということなのです。ところが、苦難がある。悩みがある。悲しみがある。死がある。それが、イエス様の救いの喜びを私たちから奪ってしまう。それが神の賜う愛であり、祝福なのでありましょうか。神の愛がイエス様を殺されることをゆるすのでしょうか。神の愛が私たちからイエス様を奪われることをゆるすのでしょうか。それでは、私たちの救いがなくなってしまうではないか。ペトロはそう言ったのであります。

 ペトロが貧しき者、寄る辺なき者で、なおかつ神様の愛を信じ、その神様が与えてくださった救い主としてイエス様を信じるからこそ、そのように言ったのです。それは、私たちも同じなのです。そのような期待を持つことは、クリスチャンにゆるされないことなのでしょうか。
サタンよ、退け
 イエス様は、それに対して、たいへん厳しい言葉をもってお答えになります。

 イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」

 イエス様の叱責に、ペトロは、完膚なきまで打ちのめされたに違いありません。そして、実のところ、イエス様のこれほどまでにお怒りになる意味がよくわからなかったと思うのです。ペトロがこの意味を分かるようになったのは、ペンテコステの後であります。

 けれども、それでよいのではないでしょうか。信仰というのは、何でも分かることではないのです。信仰には正しい知識を身につけるという一面があることは否定しません。しかし、分からないことがあるからこそ信じるという面があることも忘れてはならないのです。

 ペトロが信仰者として偉大だなあと思うのは、いくら分からないことがあっても、イエス様についていくことをやめようとしないことです。私たちは、なかなかこれができません。分からないことがあると、そこで信仰の歩みがストップしてしまうのです。信仰の歩みがストップしてしまうと、歩み続けることによってだんだんと分かってくることが分からないままで終わってしまうことになります。そういうことを考えますと、信仰というのは知識によって歩むのではなく、信頼によって歩むものなのです。信頼によって歩むことによって、信仰の知識というものは身に付いていくのです。

 それにしましても、なぜイエス様はこれほどまで激昂したのでしょうか。イエス様はペトロに向かって「サタンよ」と言われました。サタンは、人を騙して、誘惑して、神様から引き離そうとする存在であります。ここでペトロがサタンになっているということは、ペトロがイエス様を神様から引き離そうと誘惑する者になってしまったということなのです。

 つまり、ここでサタンの誘惑を受け、攻撃されているのは、ペトロではなく、イエス様ご自身なのです。エバがまずサタンの誘惑に陥り、そしてアダムを誘惑する者になってしまったように、ここではペトロがまずサタンの誘惑に陥り、イエス様を誘惑しているわけです。しかし、いずれにせよ、ここで誘惑を受けているのはイエス様ご自身なのです。ですから、イエス様はご自身のために、断固としてそれを退けなければならなかったのでありました。

 イエス様がサタンの誘惑をお受けになったのは、これが初めてはありません。ご承知の方も多いと思いますが、イエス様はバプテスマのヨハネの洗礼をお受けになった後、四十日四十夜、荒れ野で断食の祈りをなさいました。その時、サタンが現れて、イエス様に三つの誘惑をしたと、聖書に書いてあります。

 一つは、断食でお腹をすかしているイエス様に、サタンは「神の子なら、これらの石にパンになるように命じたらどうだ」と言ったとあります。イエス様は、「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出るひとつひとつの言葉によって生きるのだ」と切り返しました。

 次にサタンは、イエス様をエルサレム神殿の屋根のてっぺんに連れて行き、こうささやきます。「神の子なら飛び降りたらどうだ。あなたの好きな聖書にも、天使があなたを支えるであろうと書いて有るじゃないか」しかし、イエス様は、「主なる神を試みてはならない」と切り返します。

 最後にサタンはイエス様を高い山に連れて行き、世界の国々の繁栄ぶりを見せてこう言いました。「もしひれ伏してわたしを拝むならば、これらの国々をあなたに与えよう」しかし、イエス様は「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と言って切り返しました。

 こうして、サタンはイエス様を離れていったと書いてあるのですが、ここでまた姿を現すのです。なぜ、サタンが再び現れたのでしょうか。イエス様がエルサレムに行き、十字架にかかる決断されたからです。そこで、すかさずサタンは、ペトロの口を通して、イエス様にこう言ったのです。「それはとんでもないことです。神の子が殺されるなんてことはあってはなりません」それにたいして、イエス様は「サタンよ、退け」と言われたのです。

 サタンは常に、イエス様の救済の御業を妨げようとして現れます。この後、サタンがイエス様に現れるのは、イエス様がいよいよ十字架におかかりになる前夜でした。サタンはやはりイエス様の弟子であるユダを通して、イエス様に近づき、口づけをするのです。愛なるイエス様にとって、愛する者の裏切り、偽りの愛ほど苦々しいものはなかったでありましょう。ユダは、イエス様を十字架に売り渡した者でありますが、他方、サタンはユダを通してイエス様にこの苦々しい思いを与え、十字架に向かうイエス様の心をひるませようとしたのではないでしょうか。

 サタンは実にしつこく、十字架上のイエス様の前にも現れます。そして、通りすがりの人や、律法学者、再市長たちの口を通して、「神の子なら十字架からおりてみよ」と誘惑するのです。そのことからも分かりますように、サタンはどうしても、イエス様を十字架で死なせたくないのです。なぜなら、イエス様がすべての罪人の罪を負って十字架にかかることによって、すべての罪人の罪が取り除かれてしまうからです。人を罪に陥れ、神様から引き離そうとしてきたサタンのすべての業が、イエス様の十字架によって水の泡となってしまうのです。

 「神の子なら石をパンに変えてみよ」、「神の子なら神殿の屋根の上から飛び降りてみよ」ということもそうです。サタンは、イエス様が「神の子」のままでいることを願っています。ところが、イエス様はご自分を常に「人の子」と言ってこられました。もし主が望まれるならば、ご自身を「神の子」と呼ばせることもできたでありましょう。しかし、私たちの主は好んでご自分のことを人の子と言われるのです。そして、ペトロが「あなたは神の子です」と言った後も、そのことは誰に話さないようにと命じ給うのです。神の子が人の子となって、弱く、貧しく、罪深い人間の味わうすべての苦しみを経験され、私たち人間の友となろうとされた。そして、私たちがイエス様を通して神のもとに近づくことができるようにされた。その極みに十字架があるのです。

 サタンはそれを邪魔しようとしているわけです。そして、イエス様が十字架にかかるためにエルサレムに行くというと、ペトロの口を通して、「主よ、とんでもないことです」と、それを邪魔しようとするのです。それに対して、イエス様は断固として「サタンよ、退け」と言われたのでした。

 ペトロは自分がイエス様を誘惑しているなどとは露だに思っていません。ペトロはまったく善意の人なのです。しかし、自分でもそうとはきづかぬうちに、サタンの手先として利用され、イエス様を誘惑し、十字架への道、すなわち救いの業を妨げようとしていたのでした。人は、ただ善意の人であればよいのではありません。信仰の人でなければなりません。信仰の人とは、イエス様と共に十字架を負う者になることです。そのことについては、次週、またお話しをしたいと思います。
天国の鍵

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