ペトロ物語(07)
「ペトロの信仰告白」
Jesus, Lover Of My Soul
旧約聖書 詩編84編6-8節
新約聖書 マタイによる福音書16章13-20節
ペトロの信仰告白
 今日はペトロの信仰告白というお話しです。「あなたはメシア、生ける神の子です」と、ペトロはイエス様に対する信仰を言い表しました。

 あなたはメシア。メシアとは人の名前ではありません。神の民に、神の栄光を現すために特別に任じられた、神の僕にのみ与えられる称号であります。旧約聖書の時代、そのような神の僕として尊ばれた、三つの職務がありました。正義と平和を実現する「王」と、ひねもす民のために執り成しの祈りを捧げる「祭司」と、神の御言葉をもって人々を教え導く「預言者」であります。この三つの特別な職務に就く者は、神が選ばれた者として、その任命を受けるときに聖なる油を頭に注がれたのであります。メシアとは、この「油を注ぐ」という言葉から生まれた言葉であり、油注がれた神の僕を意味する称号でありました。

 イスラエルは苦難の歴史の中で、真のメシアが現れることを切に待ち望んでおりました。威張りちらし、戦争ばかりしている王ではなく、神の正義と平和を世にもたらす真の王。人々の切なる祈りである捧げ物をむさぼって、肥え太っている祭司ではなく、民のために親身になって執り成しの祈りを捧げてくれる真の祈り手である祭司。権力者に媚びへつらい、人々に都合のいいことばかりを語る預言者ではなく、神の御言葉を忠実に教え、導いてくれる真の預言者。そのような真のメシアが現れて、私達を救ってくれることを、そして神のご支配の中に生きる者としてくれることを、何百年もの間、待ち続けていたのでありました。

 そのような中で、ペトロはイエス様に向かって、「あなたはメシア」と言ったのであります。あなたこそ、私達が待ち望んでいた真の王であり、真の祭司であり、真の預言者であると、ペトロはその信仰を告白をしたのでありました。

 ちなみに、「メシア」をギリシャ語に訳した言葉が「キリスト」です。もしかしたら、「イエス・キリスト」という呼び名を一つのお名前であるかのように思っているかもしれませんが、本来はそうではありません。「イエス」というのはお名前でありますけれども、「キリスト」というのはメシア、つまり油注がれた神の僕という称号なのです。ですから、イエス・キリストと呼び名は、イエスはメシアであるという信仰告白そのものなのです。そして、そのことを最初に言い表したのが、他ならぬペトロであったと、今日の御言葉には記されていたのでありました。

 さらにペトロは、あなたは生ける神の子です、といいました。「神の子」という言い方は、天使たちを指すこともありますし、神の民が神の子らと言われるときもあります。しかし、「生ける神の子」というのは、そういう意味ではありません。「あなたこそは、今、私の瞳の中に、生き生きと映し出されている神そのものです」、ということなのです。私は、あなたの中に神を見ています、あなたは神です、という意味です。

 イエス様のうちに生ける神を見いだし、自分と世の救いがあることを知る。これが「あなたはメシア、生ける神の子です」という、ペトロの信仰告白なのであります。
信仰を得るためには
 イエス様は、このペトロの信仰告白をお聞きになって、「バルヨナ・シモン、あなたは幸いだ」と祝福なさってくださいました。そのような真の信仰を持つということは、とっても幸せなことなんだよと、イエス様はおっしゃってくださったのです。

 ペトロはどのようにしてこの幸せを、つまり真の信仰を、自分のものにすることができたのでしょうか。少なくとも、勉強するだけでこのような信仰を会得したのでなかったのは確かです。私は、これまでのペトロを見てきまして、ふたつのことが言えると思います。

 一つは、従うことであります。ガリラヤ湖の湖で一匹も魚が捕れなかった夜を経験した日、ペトロはイエス様にもう一度沖に出て漁をしてみなさいと言われました。ペトロはそんなことをしても無駄だと思ったに違いありません。しかし、敢えてそうは言わず、「お言葉ですから、やってみましょう」と言ったのです。このように、自分が信じられるかどうかではなく、主がおっしゃったことに従うというペトロの姿勢、これによってペトロは主の栄光を見るという経験をさせられたのです。

 もう一つは、「主よ、主よ」と、主の名を呼び続けるということです。もちろん、イエス様が「主よ、主よ」と呼ぶ者が天国に入るのではなく、御心を行う者が天国に入るのだと仰ったことは承知しています。しかし、それは「主よ、主よ」と言ってはいけないということではないのです。ペトロは、嵐の湖の中を歩いて近づいてこられるイエス様の姿を見て、「主よ、あなたでしたら、私に命じて、湖の上を歩かせ、そちらに行かせてください」と願いました。その途中で、湖に溺れると、「主よ、助けてください」と叫びました。信じて前に進むときも、失敗して溺れる時も、ペトロは「主よ、主よ」と、主の御名を呼びながら歩んだのであります。

 こういうことを申しますと、ペトロ自身の生まれながらの気質とか、能力のうちに、信仰を芽生えさせる種のようなものがあったかのように勘違いされる方もあるのではないかと思います。決してそういうことではないのです。もちろん、ペトロにはペトロらしい気質と、ペトロならではの能力があったに違いありません。しかし、形は違っても、神様はすべての人に特別なものを分け与えられているのです。ですから、みんながペトロと同じ仕方で信仰を得るのではなく、一人一人の賜物に応じて、その道が違ってくるに違いありません。行動派ペトロと違って、靜かに祈ったり、考えたりする内省的な生き方によって、信仰を得るということも、もちろんあるわけです。

 ただ、わたしが申し上げたいのは、それにしましても、信仰というのは頭だけを使って理解するものではなく、その人の生き方、全生活をかけて体得していくものであるということなのです。そして、誰もがペトロと同じ経験をするだろうと思いますのは、それは決して立派な生活ではなく、失敗もあり、過ちもあり、弱さをさらけだし、反省を繰り返す生活となるだろうということなのです。

 これは、私自身が陥った過ちなのですが、何かで失敗をしますと、「羮に懲りて膾を吹く」と言いますか、もうこんな失敗を繰り返さないぞと、何事にも消極的になってしまうということがあります。つまり、イエス様のたとえ話の中に、主人から与ったタラントンを土の中に埋めて、ずっと隠しておく僕の話がありますが、そんな生き方になってしまうのです。神様が与えてくださるタラントンは、ひとりひとり大きさも、形も違いますけれども、神様はそれを私達が生き生きと生きることを願っておられるのです。そうしてこそ、私達の与えられたタラントンの価値が出てくるからです。

 お医者さんの日野原重明先生は、病気などというものは、探せば誰でも一つや二つあるもので、そが病人だということなら、みんな病人になってしまう。だから、大切なことは病気がないことではなくて、健康感をもって、生き生きと生きているかどうかということなんだと仰っています。人生においける過ちや弱さもそうなのです。生きていれば、必ずそういうことはあります。しかし、それを恐れて、膾を吹いているような生き方をしていたなら、失敗をなくなるかもしれませんが、肝心の生きるということが生き生き感を失ってしまう。それこそ、大いなる失敗ということになるのではないでしょうか。

 ルターが「大胆に罪を犯せ」と言ったという話しを聞いたことがあります。罪を恐れて、タラントンを土の中に埋めてしまったり、膾を吹くような生き方をしていたら、神の恵みは分からないということなのです。罪を犯すことを恐れることよりも、神様が与えてくださった命を生きようとしないこと、主に従わないことを恐れるべきだということでありましょう。

 しかし、それだけでもないのです。失敗を繰り返すペトロの生き方を見てみますと、その失敗や弱さにおいてこそ、主の恵みを味わい、信仰を深めるという体験をしているのです。たとえば、夜通し漁をしても一匹の魚も捕れないという失意の中にあるとき、ペトロは主の栄光を見せられました。嵐の湖で溺れた時、そこに直ちに差し伸べられる主の手があることを知りました。不思議なことに、信仰というのは自分が弱いときにこそ強められるのです。
失敗によって
 「失敗は成功の母なり」という言葉があります。発明王エジソンの言葉です。エジソンは電球のフィラメントに適した物質を探り当てるのに、何千もの物質を試し、何千もの失敗を繰り返しました。それでも新しい実験にチャレンジしようとするエジソンに、助手の一人が「そんな何度も失敗して、よくめげないものですね」と弱音をもらしたそうです。すると、エジソンは平気な顔をして、「わたしは一度も失敗したことはない。フィラメントに適さない物質をこれだけ発見してきたのだ」と答えたというのです。実際、エジソンがこのような気の遠くなるような実験を繰り返し、ついに日本の竹を炭化させて作ったフィラメントが最適であることを発見し、白熱電球の発明に漕ぎ着けたのでした。

 「失敗は成功の母なり」とは、失敗を失敗と捕らえるのではなく、遠い目標に向かうための積み重ねていかなければならない小さな一歩、小さな成功と考えますと、失望しないで人生を前向きに生きていくことができるという教訓でありましょう。しかし、エジソンもペトロも一緒なのかというと、それは違います。この世的な成功をおさめる道と、神の国の勝利者となる道は、やはりまったく違うのであります。

 エジソンは、どんなに失敗しても己の正しさを信じていました。だから失敗しても、それを失敗だと思わなかったのです。しかし、エジソンの生涯を見てみますと、人間は己の正しさを疑ってみるということも大切だということも学ばせられます。

 電球を発明したエジソンは、電球普及のために電力会社を設立して送電事業を始めます。ところがそれは直流方式であったため、送電距離が長くなると電圧が下がってしまう重大な問題が起こるのです。その問題を解決したのは、ニコラス・テスラの交流方式での送電でした。テスラはエジソンの会社の従業員でしたから、交流方式の送電をエジソンに提案しました。ところが、エジソンは自分の開発した直流方式の正しさを信じて、それを断ってしまうのです。そこでテスラはウェスチングハウス社と協力して交流方式の送電事業を始めます。そして、電流戦争とも言われる、直流方式か交流方式かの送電方式を巡っての壮絶な戦いが繰り広げられるのです。

 現在、私達がコンセントから受け取る電気は交流ですから、明らかにテスラの交流方式の方が優れていたのです。しかし、エジソンはそれを認めようとせず、交流方式の電気はいかに危険であるかということを宣伝するために、交流電流を流して動物を殺す公開実験を繰り返したり、死刑用の電気椅子を発明したりしたと言います。しかし、交流方式は、エジソンの様々なパフォーマンスにも屈せず世界的イベント「シカゴ万博」や、ナイアガラにできた当時最高の水力発電所に採用され、その後の世界標準となっていったのでした。

 ペトロは、失敗しても自分を信じ続けたエジソンとは違い、失敗によって自分をまったく信じられなくなるという経験をするのです。これまで学んできましたところを見ましても、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」という告白や、湖に溺れて「主よ、助けてください」と叫ぶペトロの様は、自信の喪失、無力の実感というものを表していたのでした。

 自信の喪失ということからしますと、先頃、人気番組「笑点」の司会で人気を博した落語家の三遊亭円楽さんが引退を表明されました。2005年の10月に脳梗塞で倒れてからリハビリと稽古を続けてこられ、満を持して国立演芸場の名人会に臨んだものの、納得のいく芸ができず、その直後の会見で引退を表明したのでした。驚いた人たちが、考え直すように求めましたが、「お客さんは『まだまだできる』と言って下さると思いますが、それに甘えてたんじゃ、あたし自身が許さないんです」と、きっぱりと答えたと言います。

 これはこれで厳しい芸の道の生きる者の潔さとして美しい話しだと思います。しかし、人生という私たち誰もが歩んでいる道を考えました時には、話しは違ってくるだろうと思うのです。自分に納得ができないとか、自分が信じられないとか、そういう問題は必ず起こるのです。その時に、「私はもう引退です。まだがんばれるといってくれる人もいるけれども、私にはもう耐えられないのです」と、勝手に人生に幕を引いてしまう。これはある意味、傲慢なことではないでしょうか。

 失敗を失敗と認めないエジソンも、失敗を失敗として潔く幕を引く三遊亭圓楽も、尊敬すべきところを多く持った立派な人だと思いますが、ペトロとは違ったのであります。わたしが、ああこれがペトロの経験だったのだろうなと思いますのは、最近、荒川教会のHPを見てくださったという高校1年生の女の子からときどき電話をいただくのですが、彼女の書いた詩なのです。

 彼女はクリスチャンなのですが、あまり学校に行っていない、いわゆる不登校の女の子です。ときどき学校に行っても、勉強への意欲もまったくないようで、「今、テスト期間なんだ」というから「明日は何のテストなの」と聞くと、「分からない。まだプリントを見ていない」と答える始末です。それではまったく無気力な生活をしているかというと必ずしもそうではないようなのです。確かに学校にもいかないし、アルバイトをするでもないし、友達と遊ぶでもないし、「今日は何をしていたの?」と聞くと、「昼寝していた」と答える。ところが、案外と精神活動は活発なんですね。見かけはぐうたらのようかもしれませんが、頭の中や、心の中では、いろいろなことを考えたり、感じたりしているのです。ただ自分からそういうことを言いださないので、ゆっくりと聞いてあげると、音楽のバンドを組みたいとか、貧しい国の人たちに役立つことをしたいとか、ぽつりぽつりと答えてくれるのです。そして、そういう話しをしているうちに、彼女が自分の思いをいろいろと詩に書いているということが分かりました。ぜひその詩を読んでみたいというと、何日かしてからHPを作ったから見て欲しいというメールがきました。そのなかに彼女の詩が幾つか紹介されいたのです。

「神様から見た自分」

 自分を見つめてみた
 まだまだ悪い所がいっぱい
 嫌いだ
 大嫌いだ
 こんな自分なんか大嫌いだ
 今度は神様が私を見つめてみた
 そのままでいい
 私はあなたのそのままが好きだ
 私はあなたを愛している
 あなたを愛している

 ペトロは、失敗を通して、いかに自分が頼りない存在であるか、罪人であるかということを徹底的に学びます。「自分のせいだ」、「自分が悪いんだ」、「なんて馬鹿なことをしてしまったのだろう」、「ああしておけばよかった」、「こうしておけばよかった」と、後から後から押し寄せる後悔の念。ペトロはどんなにか暗い気持ちになり、落ち込んだでありましょう。わたしもそんな経験をよくしますので、よく分かります。

 そのようなペトロのそばに、いつもイエス様が一緒にいてくださいました。ペトロは、そのイエス様のお声を聞き、あるいは眼差しを受け止め、差し伸べられた御手を掴み、自信を打ち砕かれた空しい自分の内側から目を挙げ、今自分の目の前にいるイエス様こそ、どんな時にも確かに自分を支えてくださる御方なのだということを体験させられてきたのです。

 自分ではなくイエス様に目を向ける。自分を見つめるのではなく、自分を見つめておられるイエス様に目を向ける。そうすることによって、ペトロは失敗や挫折から救われてきたのでした。そして、自分ではなく、イエス様を信じ、イエス様によって生きていく信仰が養われてきたのであります。
弱さの中で与えられる信仰
 実は、先週の嵐の湖のお話しと、今日のペトロの信仰告白のお話しの間に、こういうお話しがあります。イエス様と弟子たちが舟で湖に渡りますと、群衆はイエス様はどこに行ったとあちこちと探し回り、向こう岸に渡ったのだと分かりますと、その後を追いかけてくるのです。そして、ようやくイエス様を見つけると、「先生、いつのまに、ここにおいでになったのですか」と、ちょっと非難がましいことを言うわけです。

 すると、イエス様は、「あなたたちが、私を捜しているのは、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物ではなく、朽ちない食べ物を求めて生きなさい」とお答えになります。「パンを食べて満腹した」とおっしゃったのは、彼らが五千人の給食の奇跡を体験した人たちであったからです。

 すると彼らは、「わたしたちはどうしたらいいのですか」と聞くものですから、イエス様は「私を信じればいいのだ」と言います。それでも、彼らはイエス様の仰ることが飲み込めないで、「信じるために、あなたはどんなことを私達にしてくれるのでしょうか。モーセだって、荒れ野で天からのパンであるマナを降らせて、先祖たちに食べさせてくれたのですよ」と言いました。それで、イエス様は「モーセが天のパンを与えたのではない。天の父なる神様がお与えになったのだ。神がお与えになるパンは、天より降り、世に命をあたえるであろう」といわれるのです。これを聞いた彼らは「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と願います。そこで、イエス様は「わたしが、天から降ってきた命のパンである。私に連なるものは、決して飢えることはない」とおっしゃっるのです。

 すると、人々はざわざわしだし、「これはヨセフの息子じゃないか。私達はその父も母もよく知っている。どうして、天から降ってきたパンであるものか」とつぶやきはじめました。イエス様はそれを聞きながら、さらに「あなたがたの先祖はマナを食べても、荒れ野で死んでしまった。しかし、わたしを天のパンであり、これを食べるものは死なない」と言われます。すると、さらに人々は騒ぎ始め、「どうして、この人は自分の肉を私達に食べさせることができるのか」と議論を始めます。そこで、イエス様は「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない、わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」と言われるのです。これは、主の十字架に与るということを意味しているのですね。

 ところが、これを聞いて、人々ばかりか、イエス様の弟子たちも「なんて酷い言葉だ」と憤慨し、躓き、イエス様のもとを去っていったというのでありました。イエス様はそれを見て、十二弟子に「あなたがたも離れていきたいのか」お尋ねになります。『ヨハネによる福音書』6章66-69節

 このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」

 ペトロは、私にはあなたを離れて行くところなどどこにもない、と答えるのです。イエス様を離れることができないとうのは、考えようによっては、ペトロ自身の肉の弱さを、つまりイエス様の愛、イエス様の恵みなしでは生きていく力も術もないということを意味しているのです。しかし、だからこそペトロは信仰の人で有り得たのでありました。信仰とは、弱さの中で見えてくる主の存在の大きさを知ることなのです。

 イエス様は、そのようなペトロの信仰に対して、「あなたは幸いだ。しかし、その信仰は、あなた自身から出たことではなく、父なる神様があなたにお与えになったものだ」と言われました。信じることができたあなたは幸せだ、しかし、その信仰はあなたの功績ではない、神の恵みだよと、イエス様は仰ったのです。

 信仰は神の恵みである。これは大切なことです。自分の知恵や力で信じようとして信じられるものではないのです。むしろ、そういう強い自分が打ち砕かれた時、なお神様の愛が私を支えてくださっているのだということを体験する。そこに信仰が与えられるのです。

 それなら、自分には信仰があると誇らしげに語ったり、自分には信仰がないとしおれたりするのはおかしなことでありましょう。そういう信仰は、神様に与えられた信仰ではなく、自分の知恵や力で得ようとする信仰だからです。神様に与えられた信仰というのは、感謝に溢れているものなのです。自分の信仰や他人の信仰を裁いたりはしない。誇ったりもしない。ただただ感謝に溢れるのです。そういう信仰を、私達も与えられたいと思います。
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