ペトロ物語(06)
「溺れるペトロ」
Jesus, Lover Of My Soul
旧約聖書 詩編119編67-68節
新約聖書 マタイによる福音書14章22-33節
主の訓練
 ペトロが初めてイエス様に出会った話しから始めまして、ペトロの召命、ペトロの献身、そして十二使徒への選びというお話しをしてきました。ここまでをペトロ物語の第一章だとしますと、第二章は、使徒としてのペトロの信仰が、いかに訓練され、備えられ、成長していくのかという物語だといっても良いと思います。そして、ペトロが本当に使徒らしい働きをなしていくのは、ペンテコステ以降のことで、それはペトロ物語の第三章となるのです。

 そうしますと、今日お読みしましたところは、ペトロ物語の第二章の最初のお話しということになりますが、ここでペトロはすべてのことが主の恵みに支えられているのだということを学ぶことになります。まず22節を読んでみましょう。

 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。

 「強いて舟に乗せ」とあります。弟子たちはきっと、イエス様を離れることに不安を感じていたのでありましょう。それはそれで、弟子として大切な気持ちなのです。私達もそうです。平気でイエス様から離れて、日曜日の礼拝も忘れて仕事に打ち込んだり、どこかに遊びに行ったりしてしまうようではいささか困るのです。仕事をしている時も、遊んでいる時も、「イエス様、イエス様」と、片時もイエス様を離れては生きていけないというのであってこそ、主を愛し、主を依り頼む信仰者であると言えるのです。

 けれども、イエス様はそういう弟子たちを無理矢理舟に乗せて、先に向こう岸に行かせようとなさいました。そこに主の訓練があるのです。およそ訓練とか、勉強というのは、楽しいものではありません。大切だということは分かっていても、できるだけ避けて通りたいと思うのが普通でありましょう。だから、イエス様は強いて訓練の舟に乗せるのです。

 私もそうです。元来、怠け者で、臆病な人間でありますから、できるだけ楽をしたいと思ってしまう。けれども、イエス様はなかなかこういう私の我が儘をお許しになりません。そして、私自身が望まないような難しい問題の中に、私を放り込まれます。けれども、それもまた感謝すべきことなのです。苦しんだり、悩んだり、悲しんだり、人生にとってマイナスの経験としか思えないことが、とこしえに変わることのない主の愛にかかると驚くべき恵みの経験に変わるからです。詩編119編71節にも、こういう御言葉があります。

 苦しみにあったことは、わたしに良い事です。
 これによってわたしはあなたのおきてを
 学ぶことができました。


 私は、自ら進んで苦しみを経験したいとは思いません。しかし、だからこそ主がそれを強いて私に与えてくださったことに感謝させられるのです。

 では、弟子たちは、いかなる訓練を主から受けようとしているのでしょうか。先週の十二使徒への選びというお話しの中で、触れることができなかったのですが、聖書にこういうことが書かれていました。

 そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。(『マルコによる福音書』3章14-15節)

 これによりますと、使徒たちに与えられた任務は、第一に、イエス様のそばにいて、イエス様の為し給うことをことごとくその目で見ることにありました。第二に、派遣されて、それを人々に伝えるということでありました。第三に、主から賜った権能によって、人々を悪霊から解放し、主のもとに連れ帰ることでありました。これらのことによって、新しい神の民を、イエス様のもとに形成すること、それが彼らに与えられた任務だったのです。

 しかし、主のそばにいる事と、派遣される事、このふたつにの間には、一見すると矛盾があるのです。主のそばにいたら、主のために出かけていくことはできませんし、主のために出かけていく時には、主のそばにいることができないという矛盾です。けれども、派遣されるということは、本当に主を離れることなのでしょうか。離れていても、つながっていると言えなければ、派遣とは言えないと思うのです。たとえ離れている時にもなお、主につながり、主の恵みによって支えられているのだということ、それを学ぶこと、それがこの時、ペトロや他の弟子たちに与えられた訓練だったのです。

 我が家の子供がまだ小さい頃の話しです。「手紙をポストに入れてきて欲しい」と、初めてのお使いを頼みました。ポストは、すぐそこの城北信用金庫の前にあるのです。子供は喜んでいってくれると言いました。それで、走ったら駄目だよ、道路に脇を歩き、車によく気をつけんだよ、ということをよくよく言い聞かせますと、子供も真剣な顔でそれを聞き、勇んで出かけていったのであります。けれども、やっぱり心配であった私は、あとからこっそりと後をつけていきました。そして、全身に緊張感をみなぎらせて、気をつけすぎなほどに車に気をつけて、無事にポストまで辿り着き、手紙を投函した子供の姿をずっと陰で見守っていたのでありました。その上で、私は気づかれないように先に帰り、無事お使いを果たしてきた子供を誉めてやりました。

 子供は一人で、自分の力で、お使いを果たしたと思って、得意満面でありました。実際、子供にしてみれば、それはひとりでやったと思っても言い過ぎではないでしょう。しかし、私からしてみると、決して一人ではなかった。ずっと一緒にいて、見守っていたのであります。

 イエス様と私達との関係もこれと同じではないでしょうか。イエス様は私達をお遣わしになります。けれども、イエス様はその間中、ずっと隠れて私達と一緒にいてくださり、恵みをもって支えていてくださるのです。確かに私達には為すべきことがあり、たいへんでも、辛くても、それを成し遂げていかなければなりません。しかし、決して自分の一人で頑張るのではないのです。23節をご覧下さい。

 群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。

 嫌がる弟子たちを無理矢理舟に乗せ、突き放したイエス様が、一人山で祈っておられたと書いてあります。弟子たちは、このように隠れたところで捧げられているイエス様の祈りによって、天の力に守られ、支えられているのです。

 イエス様によってつかわされるということが、こういうことであるならば、そして、このようなイエス様の目に見えない配慮を、目で見ずとも信じることができるならば、私達はどこに遣わされても安心を得ることができるのではないでしょうか。そして、主に力によって、御心を為すことができるのではないでしょうか。
苦難の意味
 しかし、ペトロや弟子たちがそのことを学ぶためには、さらなる試練を経験しなければなりませんでした。24節を読んでみましょう。

 ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。

 世の中には、どんなに科学や学問が発達しても、答えを見いだせない問題が幾つかあります。一つは、自分がなぜ存在するのかという問題です。自分がどのように生まれてきたのかということは、科学によって説明ができる問題です。しかし、何のために、なぜ、私がここに存在しているのかということは、科学や学問では説明できないのです。

 そして、もう一つ説明できない問題に、苦難の問題があります。病気や、災害や、事件や、さまざまな問題が私達の人生を苦しめます。あいつが悪いとか、世の中の仕組みが悪いとか、苦難の原因を突き止めることは在る程度できるかもしれません。しかし、なぜ私がそのような目に遭わなければならないのか。それについてはどんなに勉強しても分からないのです。そんなことに何の意味もなく、理由もないのだと言ってしまえばそれっきりですが、それでは私達の生きている意味がありません。

 子供の頃に、仏教の地獄について書かれている絵本を読んだことがあります。針の山であるとか、熱湯の釜ゆでとか、剣の森とかで、鬼たちにいじめられ、血だらけになって苦しんでいる悪人たちの恐ろしい地獄絵図を見て、こんな地獄で苦しみ悶えるなら、いっそうのこと死んでしまった方が楽だろうにと思いました。しかし、彼らはもう死んでいるわけですから、地獄では、どんなに痛めつけられても、体を切り刻まれても、死なないということが書いてありまして、なんと地獄とは恐ろしいところだと震え上がったのでした。

 私は教会学校に通いながら、こんな本を読んで、震えているなんて、まったく不信仰な子供だったとしか言いようがないのですが、苦しむために生き続けているのが地獄だとしたら、何も地獄に行かなくてもこの世が地獄だと言う人もいるのではないでしょうか。何一つ、自分がこの世に生まれてきた積極的な意味を見いだせないとしたら、まして苦しむことに積極的な意味があろうはずがありません。だとしたら、悩みの絶えることのない人生というのは、まさに生き地獄というものであります。死んで無になることだけが、その苦しみから逃れる希望だということになるのではないでしょうか。

 しかし、ここで思い出したいのは、「イエスは強いて弟子たちを舟に乗せ」と書いてあったことです。嵐の海に弟子たちを放り出したのは他ならぬイエス様であったと、聖書は書いているのです。なぜか? それは分かりません。しかし、イエス様は救い主である。とこしえの愛をもって、私達を愛してくださる方です。それならば、イエス様が弟子たちを、そして私達を人生の嵐の中に放り出された理由も、その深い愛に根ざしたものであったに違いないと、信じることができるのです。

「誰も知らない私の悩み」という黒人霊歌があります。

 ああ、誰も知らない私の悩み、
 イエスのみ知り給う。
 誰も知らない私の苦しみ
 主に栄光あれ。ハレルヤ

 何で生きて行かなくてはいけないのだろう。なぜ、こんな苦しみに耐えなければいけないのだろう。どうして、こんな悲しみがわたしに襲いかかるのだろう。私達が生きている意味、苦難のわけ、それはクリスチャンである私達にとっても分からなくなる時があります。そんな時、私はこの歌を繰り返し聴きます。そして「誰も知らない私の悩み、しかし、主は知り給う」と、心の中で何度も歌うのです。

 私達はそれを信じて良いと、聖書は語っています。どんな苦しみも、悲しみも、私達を愛してくださるイエス様が、この小さき者をお用いになろうとして、それを私達にお与えになりました。それを信じるとき、どんな人生のトラブルの中にあっても、「主に栄光あれ、ハレルヤ」と歌う気持ちになってくるのです。 
幽霊ではない、わたしだ
25-26節を読んでみます。

 夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。

 「湖の上を歩く」というのは奇跡です。神様がいらっしゃるならば、どんな奇跡が起こっても不思議ではありません。奇跡というのは、神様がいらっしゃるということを物語っているのです。

 しかし、湖の上を歩いたということだけが、ここにある奇跡ではありません。弟子たちは、イエス様を見て「幽霊だ」と叫び声を上げます。どうしてイエス様を幽霊と見間違えたりしたのでしょうか。それは、こんなところにイエス様がいらっしゃるなどとは考えもしなかったからであります。いるはずがない。なぜなら、私達は湖の真ん中にいるのだから、と思ったのです。しかし、イエス様は私達がどこにいても必ず来てくださる、どんな障害があろうとも、どんなに難しい条件であろうとも、人間の目からは不可能であろうとも、イエス様が私達を見放すことはないし、必ずそばにいてくださるのです。それが、イエス様の愛の奇跡なのです。

 続けて、27節を読んでみましょう。

 イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」

 今日のお話しは、イエス様を置いて、湖に漕ぎ出していく弟子たちの不安から始まっていました。その上、湖の真ん中で経験した嵐の悩みがあります。さらに、そこに幽霊騒動が起こるのです。

 イエス様はこのような弟子たちに「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と語りました。「わたしだ」とは、どういうことでしょうか。あなたたちを、あなたたちだけで湖に派遣したのは、わたしだ。湖の真ん中で嵐に遭わせたのも、わたしだ。そして、その中であなたがたが見ているのは幽霊ではなく、わたしだ。すべては、わたしの御手の中でおこなわれているのだ。それを信じれば、安心できるはずだ。恐れは消えるはずだ。逆にいうと、不安や恐怖、幽霊を見るのは、私を信じていないからだと、イエス様はおっしゃったのです。
溺れるペトロ
 すると、ペトロがすぐさま反応します。28-29節を読んでみましょう。

 すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。

 ペトロという人は、イエス様が命じてくれさえすれば、自分も湖の上を歩けると、本気で信じていたようであります。こういう信仰を持つためには、この世の常識とか、計算とか、そういうものをかなぐり捨てて、頭に馬鹿がつくような信仰を持たなければなりません。言葉は悪いですが、そのように馬鹿になって、神の力の中に大胆に飛び込むのでなければ、ペトロにように常識を越えた主の力、主の恵みを経験し、湖の上を歩くということはできないのです。

 しかし、あくまで常識や経験や計算で理解できる範疇でしか信仰を持とうとしないものは、極めて常識的な、この世的にも受け入れやすいような信仰を持つことができるでしょうが、常識が覆ってしまうような驚くべき主の力や恵みというものは、知ることができません。ペトロという人は、本当に分かりやすい人で、そういう逆の面も自分自信の身をもって経験してしまうのです。28-29節

 しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。

 「強い風に気がついて」とあります。今更何を言っているのだろうと思ってしまうのです。そもそもペトロは嵐の湖の中に飛び込んだのです。強い風も、波も、はじめから分かっていたことではないのでしょうか。しかし、そうではなかったのです。ペトロには、強い風も、波も、まったく見えていなかったのです。ペトロにはイエス様しかみえていなかった。だからこそ、「水の上を歩いてそちらに行かせてください」などという無謀とも言えるような信仰のチャレンジを、無謀と思わずにやってのけることができたのでした。もし自分は嵐の湖に飛び込むのだと思ったら、ペトロの足はすくんだでしょう。しかし、神の力の中に飛び込むと思ったからこそ、それができたのです。

 ところが、我に返るといいますか、この世の常識というものを取り戻した途端、ペトロは自分のしていることがまったく無謀なことであると思ってしまうのです。そう思った途端、ペトロはもはや神の力の中から、世の常識の世界に引き戻されてしまうのです。ですから、神の力なくして、人間が湖の上を歩けるはずがありません。ですから、ペトロは溺れてしまったというのであります。

 今日は、「溺れるペトロ」という説教題をつけました。「湖の上を歩くペトロ」と題してもよかったと思います。しかし、私は湖の上を歩いたペトロよりも、そのような神様の偉大な力に身をゆだねるほどの大胆不敵な信仰を発揮したにも拘わらず、たちまち信仰弱き者に戻って溺れてしまう、そういうペトロをとても印象深く思うのです。

 ペトロは極めて普通の人間でありました。一人であることに不安を感じ、人生の嵐に悩み、イエス様を幽霊と見間違えて恐れ、せっかく信仰をも台無しにしてしまうような人間だったのです。しかし、その溺れるペトロに、主はすぐに手を差し伸べてくださったとあります。

 イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。

 ペトロは、自分がどんなに大きな主の愛によって支えられているかということを、ここで学んだのではないでしょうか。信仰があれば湖の上を歩くことができるということも素晴らしいことですが、信仰すらない時に、主が手を差し伸べて救ってくださるというのは、それ以上に驚くべきことだと、私は思うのです。それを見て、弟子たちは口をそろて「本当に、あなたは神の子です」と告白し、主を礼拝するのです。
舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。

 みなさん、主が与えてくださった試練は、ペトロに、弟子たちに、多くの不安、悩み、恐れ、はたまた不信仰をもたらしたかもしれません。しかし、そのことを通して、彼らはどんな不安、悩み、恐れ、不信仰の中にあろうとも、なお主が共におられるということを学んだのであります。そして、イエス様が神の子であり、救い主であるという恵みの信仰を養われたのでありました。
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