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「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(『申命記』8章3節、『マタイによる福音書』4章4節)
このように、聖書は教えています。この世的な豊かさも、この世的な成功も、それだけでは、決して人間の心を本当に満たすことはできないのです。
ペトロはガリラヤ湖の漁師として不自由のない生活をしていました。結婚もし、新居も構え、この世の幸せを味わっていました。しかし、魂の奥底では、もっと何か違うものが必要なんだということを感じていたのでありました。
そんな時、ペトロは、風の便りに、バプテスマのヨハネの繰り広げている信仰復興運動の話を聞きます。ペトロはヨハネの説教を一度この耳で聞いてみたいと思います。果たして、ペトロは弟のアンデレと、漁師仲間のゼベダイの子ヤコブとヨハネを連れ立って、三日の道のりを経て、はるばるユダヤの荒れ野までやってきたのでありました。そして、そこで、ペトロはイエス様とのかけがいのない出会いを果たしました。こうして、ペトロをはじめ弟のアンデレ、ゼベダイの子ヤコブとヨハネらは、イエス様の弟子となるのです。
しかし、ペトロたちは漁師としての生活を捨てたわけではありません。夜中の2時か3時頃から漁に出て、帰ってくると、いそいそと網を繕い、洗い、朝ご飯を食べて、それからイエス様のお働きをお手伝いするというような生活をしていたのであります。それは肉体的にはたいへんなことだったと思います。しかし、どんなにたいへんでも、霊的には今までに充実を感じて、毎日イエス様と共に働くことが楽しくて仕方がないと思っていたに違いありません。イエス様との出会いが、ペトロを空しい生活から救い出し、生き生きとした人間に変えたのであります。
ところがある日のこと、ペトロは再びその元気を失ってしまいます。何があったのかと言いますと、その日は一晩中漁をしたのに一匹の魚もかからなかったのです。空っぽの舟で帰ってきたペトロは、疲れきっていました。疲れというのは精神的な要素が大きいのです。いつもなら疲れも忘れて、イエス様のお供をしていました。しかし、この日は体が重い。それは疲労感よりも徒労感から来るものなのです。
ペトロは「今日は、イエス様のところに行くのを休もうかなあ」なんて考えながら、のろのろと網を洗っていたのではないでしょうか。そうこうしているうちに、イエス様が現れ、イエス様から神様のお話を聞こうとする人たちが続々とガリラヤ湖畔にあつまってきました。しかし、ペトロはそれを脇目に見ながら、まだ「今日は休もうかなあ」なんて考えながら、網を洗っているわけです。
すると、そんなペトロの心を見透かしたかのように、イエス様の方から近づいてこられまして、舟を出して欲しいとお頼みになります。舟の上から、群衆にお話しをなさろうというわけです。ペトロは、「今日は休ませてください」と言い出す前に、イエス様の方から仕事を頼まれてしまいまして、断る理由も思いつかないものですから、仕方なく言われたとおりにいたしました。
先週は、こういうのを「強いられた恵み」というのだというお話しをしました。自分の気持ちや願いに反して、どうしてもイエス様や教会から離れられない状況に捕らえられてしまう。それで、「たいへんだなあ」、「いやだなあ」、「早く止めたいなあ」と思いながらも、イエス様や教会から離れないで、つながり続けていくのです。ところが後になってみると、それこそがイエス様の恵み、お守りだったのだと分かる時が来ます。自分の気持ちのままにしていたら、きっとイエス様や教会を離れてしまい、大切なものを失っていたであろう自分を、イエス様の方が恵み深く、力強く、離さないで捕らえてくださっているのです。
ようやくイエス様のお説教が終わり、舟を岸に戻すと、ペトロは安堵して、今度こそは「今日は疲れておりますので、これで失礼します」と言い出そうとしたかもしれません。ところが、それよりも先に、イエス様の方からペトロに「もう一度沖に漕ぎ出して、漁をしてみなさい」とお命じになったのでした。常に私達の先手を打ってこられる、これがイエス様の御業でもあります。
しかしペトロは不満に思います。「あなたは、私達の苦労が何にも分かっていないのだ」という気持ちがこみ上げてきます。そしてついにイエス様に愚痴をこぼすのです。
「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」。(5節)
あなたは確かに偉い人に違いないけれど、漁についてはずぶの素人ではありませんか。漁を知り尽くした私達がどれだけ苦労したのか、それでも何も捕れないということはどういうことなのか。あなたはまったく分かっていらっしゃらないのだ。だいたい網だってやっと洗ったばかりなのに・・・。これがペトロの正直な気持ちでありましょう。
ところがペトロは、「今日はこれでお暇をください」とは言わなかったのです。逆にペトロはこう言います。
「しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」(5節)
「お言葉ですから」という、ただこの一点において、ペトロは重い腰を上げるのです。ペトロの知識も、経験も、体力も、精神力も、すべてのことがそんなことはしたくない、無駄である、もう休みたいと叫んでいます。それにも関わらず、ペトロがもう一度網をおろそうと思ったのは、それが他ならぬイエス様からのお言葉であったからだということなのであります。
私達にとりましても、聖書を読む、御言葉を聞くというのは、こういうことであるはずであります。自分の気持ちや考えは別にあるとしても、御言葉に身をゆだねてみるのです。そうすると、御言葉の確かさ、御言葉の力を体験することができます。
ペトロもそうでありました。沖に出て網を降ろし、引き上げようとするとグッと重い手応えを感じます。経験豊かなペトロの手は、いっぺんにそれが大漁の徴であることを感じ取ります。その瞬間、ペトロは何を感じたでしょうか? 思いがけない大漁を無邪気に喜んだでしょうか?
否、恐れたのです。「神がここにいます」という現実を目の当たりにして戦慄を感じていたのです。おそらくペトロはもう網を引き上げるどころじゃなかった。そんなことはアンデレや、ゼベダイの子らに任せて、ただただ身を振るわせ、舟の中で茫然自失となっていたのではないでしょうか。
そして舟を下りると、イエス様の御許に走り寄り、額を地面の塵につけ、ひれ伏して、震える声でこう言うのです。
「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(8節)
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皆さんは、「主よ、わたしから離れてください」といったペトロの気持ちが理解できるでしょうか。
これまでペトロはイエス様が好きで、イエス様を尊敬して、イエス様の側にいつも一緒にいたいという一心で、従って参りました。「お言葉ですから」という言葉が、ペトロの口から出てきたということも、そうペトロの気持ちがあればこそのことなのです。本当は休みたかったのです。しかし、それに勝って、イエス様のお心から離れたくないという強い気持ちがペトロの内にあるのです。だからこそ、「お言葉ですから」という言葉が出てきたのです。ところが、そんなペトロが、「主よ、わたしから離れてください」と、正反対のことを言っているわけです。これは、ペトロの内によほどの変化が起こったと見なければなりません。
そして、その変化は、ペトロの発した一つの言葉によって表されています。それは「主よ」という言葉です。イエス様が、「もう一度、漁をしなさい」と言われた時、ペトロは「先生」と、イエス様のことを読んでいました。しかし、この時、ペトロは「主よ」と言ったのであります。
イエス様は「先生」ではありません。もし「先生」ならば、私達は良き生徒になって、一心に尊敬し、熱心に学ぶことによって、だんだんとイエス様に近づいていくことができるはずです。ペトロもそんな風に考えていたのではないでしょうか。イエス様を離れずに一生懸命に学んでいけば、自分もイエス様のように立派な人間になれるのではないか。神様に喜ばれる心の清い人間になれるのではないか。私達にも、そんな思いを抱くことがあるかもしれません。イエス様を自分の目標にしてしまうのです。しかし、それはまったく傲慢なことであったと、ペトロは気がついたのでした。
どのように気がついたのでしょうか。8節に「これを見たシモン・ペトロは」と書いてあります。そのとき、ペトロは、何を見たのでしょうか? 網がはち切れんばかりにかかった大漁の魚でしょうか。そうではありません。ペトロは捕れた魚ではなく、そこで為されているイエス様の御業を見ていたのです。そして、そのイエス様の御業のうちに、生ける神が居ますことを見たのでした。
ペトロは「神と出会った」と思ったでありましょう。十字架におかかりになる前夜、イエス様はフィリポに「わたしを見たものは、父を見たのである」(『ヨハネによる福音書』14章9節)と仰いましたが、ペトロはこの時、まさしくそしてイエス様のうちに生ける神を見たのでありました。神様はイエス様の内におられ、イエス様は神様のうちにおられたのであります。
ですから、ペトロは恐れたのです。神様を見た人間は、恐れることしかできないからであります。そして、「主よ」と、イエス様にひれ伏します。そして、私は今まで無邪気にあなたを「先生」と呼び、自分もあなたに近づき、あなたのように心清く、神様に喜ばれる人間になりたいなどと思っていましたけれども、まったく傲慢なことでした。私は、あなたのお側にいることが許されないような罪人です。どうぞ、わたしから離れてくださいと、ペトロは言ったのです。
これは生ける神に出会った者の言葉なのです。私は、このようにイエス様の前にひれ伏すペトロの姿を見て、旧約聖書のヨブが体験したことを思い起こします。ヨブは、神様を信じ、正しく生きてきたにもかかわらず、財産を失い、子供たちを失い、自分は重い皮膚病にかかって、体中を陶器の破片でかきむしって苦しみに耐え忍びました。ヨブはそのような苦しみや悲しみの中で、「どうして神様は私にこんなことをなさるのか」、「神様は間違っているのではないか」と、神様を恨み、深い疑いに捕らわれてしまうのです。
神様は、そういうヨブの繰り言をずっと黙って聞いておられるのですが、最後にヨブに語りかけます。「知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは、お前は何様のつもりだ。お前は、私が天地を作った時、それを見ていたというのか。お前は太陽を昇らせたり、沈めたりすることができるというのか。地の果てを見たことがあるというのか。さあ、私に答えてみなさい」と。
ヨブは、つむじ風の中から聞こえてくる神様の生ける声を聞いて真っ青になります。そして、身を震わせながら、こう答えるのです。
あなたは全能であり
御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。
「これは何者か。知識もないのに
神の経綸を隠そうとするとは。」
そのとおりです。
わたしには理解できず、わたしの知識を超えた
驚くべき御業をあげつらっておりました。
「聞け、わたしが話す。お前に尋ねる、わたしに答えてみよ。」
あなたのことを、耳にしてはおりました。
しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。
それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し
自分を退け、悔い改めます。(『ヨブ記』42章2-6節)
神様は、ヨブの「どうして」という疑問には一つもお答えくださいませんでした。しかし、それでも、ヨブはこれまで散々神様に食って掛かったことを全部引っ込めて、「わたしが間違っていました。愚かでした。私は塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます」というのです。なぜでしょうか。ヨブは言います。
「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。」
神様について知っているということと、神様に出会ったということは、まったく違う体験なのです。私達は神様に出会うという体験をしなければなりません。そうしなければ、心から「主よ」と呼ぶことはできないのです。
では、どうしたら、神様に出会うことができるのでしょうか。私達のような者にも、そういう体験が与えられるのでしょうか。ペトロが、どのように神と出会ったのか、イエス様のうちに神様を見ることができたのか、そのことを考えれば良いのであります。ペトロは「お言葉ですから」と、自分の知恵や経験や感想を退けて、イエス様のお言葉に身をゆだねたのでありました。ペトロがしたのは、それだけのことであります。もし、私達が、ペトロのように、自分の知恵や経験や感想に反するような御言葉であっても、「お言葉ですから」と、御言葉に身をゆだねて、御言葉に行う者としての一歩を踏み出すならば、必ずイエス様が私達にその栄光を見せてくださるでありましょう。そういう経験を、私達もさせていただきたいと願うのであります。
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「わたしから離れてください」(8節)というペトロに、イエス様は「恐れることはない」(10節)とお答え下さいました。あなたが罪人であっても、愚か者であっても、私はあなたと共にいるから恐れることはないんだよ、ということであります。そして、さらに「あなたは、今後、人間をとる漁師になる」(10節)と言われました。それは、漁師を捨てて、福音伝道者として私と一緒に人々の魂を漁り、神様にお返しするという働きをしなさいということであります。
このように「イエス様と共にいる」、「イエス様と共に歩む」ということは、私達の熱心さや力によってではなく、イエス様の恵み深い招きによって実現することなのです。
今日は、「ペトロの召命」という説教題をつけさせていただきました。「召命」という言葉は、「召し出し」とも言います。「召す」というのは、呼び寄せるという意味であります。「出す」というのは、送り出すという意味であります。クリスチャンというのは、このようにイエス様に呼び寄せられて、またイエス様に送り出される、そういう命を生きる者とされることなのです。別の言い方をしますと、私達が今、どのような命を生きていようとも、それはイエス様によってそこに送り出されて在る命であり、イエス様の帰っていく命なのです。帰って行くというのは、イエス様に栄光を帰するということです。召命というのは、そういう新しい、恵みに満ちた命を与えられることであり、イエス様に支えられ、イエス様に栄光を帰することなのです。
伝道者になること、牧師になることだけが召命に生きることなのではありません。私達は皆、この召命が与えられています。しかし、その召命に忠実に生きているかどうか、そのことは私たち一人一人がよくよく反省しなければならないでありましょう。一日の生活を、イエス様に送り出されたものとして生きているかどうか。一日の終わりにすべてをイエス様に委ね、またイエス様に栄光を帰しているかどうか。その中心にあるのが礼拝ということではありませんでしょうか。礼拝に集められ、イエス様に栄光を讃え、また御言葉をいただいて、新しい一日へ、一週間へと送り出されていく。それがクリスチャンの生活の要なのです。
ペトロは、「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(10節)という言葉を戴いて、「すべてを捨ててイエスに従った」(11節)とあります。「捨てる」というのは、何もゴミ箱に捨てるということではありません。ペトロは家族と縁を切ったわけではありません。家を誰かに売り渡したわけでもありません。しかし、その所有権を放棄し、イエス様の御心に委ねたのです。そうしないと、召命に生きるということはできないからです。
みなさんは日々の生活で悩むでしょう。ストレスもたまるでしょう。どうして、悩むのでしょうか。それは、大切なものを守るとするからではありませんでしょうか。しかし、守りたい、守ると思っても、自分の力ではどうにもできないことがたくさんあるのです。だから、悩むし、迷うし、恐れるし、心配になるのです。
そんな状態でありましたら、イエス様が「行け」と言われても、「いや、ちょっと待ってください」ということになりますし、「帰ってきなさい」と言っても、やはり「いや、ちょっと待ってください」ということになってしまうのです。つまり、この世の悩みによって、イエス様に従えない人間になってしまうわけです。
しかし、イエス様は約束してくださいました。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(『マタイによる福音書』6章33節)と。パウロも言いました。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(『使徒言行録』16章31節)と。守ろうとするものを、自分で守ろうとするから、私達は祝福を受けられないのです。本当に守りたいならば、それをイエス様に委ねて、イエス様の召し出しに生きる者にならなければならないのです。
『マルコによる福音書』や『マタイによる福音書』によりますと、ペトロがすべてを捨ててイエス様に従った後のある日、ペトロはイエス様や他の弟子たちを自分の家に招き入れます。すると、ペトロの姑が熱を出して寝ているのにお気づきになったイエス様が、姑のそばに行き、手を取って起こされると、姑は元気になって、一同をもてなしたということが書かれています。『ルカによる福音書』にも同様に事が書かれていますが、どういうわけか、ルカはペトロの召命の前に起こった話としてそれを書いていますので、どちらが本当か判断しにくいのですが、少なくともマルコは、ペトロがすべてを捨てて従った後も、家を手放さず、家族とも縁を切っていなかったということを、それは、すべてを捨てたということと少しも矛盾しないこととして書いているわけです。そして、さらにイエス様がペトロの家をお用いになり、姑を愛されて病を癒し、そのもてなしを喜ばれたというのであります。
イエス様にすべてを委ねて自由な者とされ、イエス様の御手からすべてのものを受け取って豊かに生きる。それが「すべてを捨ててイエスに従った」ということの意味なのです。私達もすべてを捨て、委ねて、イエス様の召命に生きる者でありたいと願います。
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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